ヤコブは二〇年の歳月を経て、故郷に帰ってきました。
ヤボクの渡しという、この川を渡れば
いよいよ生まれ育った自分の国だというところで、
ヤコブは非常な怖れに見舞われます。
私は父を裏切り兄をだまして、故郷を追われた。
正確には、居れなくなって、逃げたのです。
今、報告によると、兄エサウはヤコブを迎えるために
四〇〇人のお供をつれてこちらに向かっているという。
この知らせを聞いてヤコブは「非常に恐れ、思い悩んだ」。
滅ぼされるかもしれないと思ったからである。
そこでヤコブは携えてきた財産を四つにわけ、
それぞれに兄への贈り物だと言わせて、先に進ませ、
自分と妻ラケルとヨセフが最後に残ります。
その夜、ヤコブはこの最後のものたちをつれて
ヤボクの渡しを渡らせ、
自分一人後に残った。そこで、神との格闘の話です。
そのとき何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。
ところが、その者はヤコブに勝てないとみて、
ヤコブの腿の関節を打ったので、
格闘をしている内に腿の関節がはずれて。
「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言った。
ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまで放しません。」
「お前の名は何というのか」とその人がたずね、「ヤコブです」と答えると、
その人は言った。お前の名はもうヤコブではなく、
これからはイスラエルと呼ばれる。
お前は神と人と闘って勝ったからだ」。
このヤコブの格闘の話しの中で、
三つのことに注目したいと思います。
一つは、人間の罪の深い自覚が語られています。
第二に、この川を渡って新しい人生が待っている。
二〇年間、自分の犯した罪を、さらに負い続けるのか、
今、兄との和解がかなって、喜んで橋を渡っていけるのか。
第三に、姿を表さない天的存在との出会い・闘いです。
神の使い、天使との格闘です。
つまり、天使の背後にいます神との格闘が語られています。
組みついている間に夜が明けて、その天使は私を去らせてくれと頼みます。
ヤコブは言います。「祝福してくださるまでは離しません」(27節)
人間が神と争って神に勝つというテーマが語られてきました。
ヨブ記に神と争って、神以上になった人間ヨブが
刑罰として身体中に吹き出物ができて、「なぜ私が?「と苦しみ叫んでいる。
神との争いごとが語られています。
さかのほって、「創世記の中のJ資料」と言って
神の名をヤーウェと呼ぶ資料の中にでてきます。
日本語では「神」と訳されています。
エデンの園で中央の木の実を食べた人間アダムは
神以上になろうとする人間の罪を語っています。
また、ノアの洪水以前の人たちがそうです。
そして今日の、天使と格闘するヤコブの中にも
「神に勝つ」というテーマが語られています。
ヤコブは、あなたが神様から祝福されて
いただいている「力」をください。
それがあなたの存在理由となっている、
人を生かす力、愛、
その力を「くださるまでは」と求めている
祝福を受け取るまでは離しません。
ヤボクの橋の土壇場で、生死をかけた戦いを、
神の使いと闘って、勝った。
神の使いはヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打った。
腿の関節がはずれたといいます。
この話は股関節が人間の弱点となっている原因物語をもなしています。
また、ヤコブが神に勝つほどの信仰をもって、
あたらしい人生、これからが本当の人生を生きるのですが、
そのヤコブのからだに消しがたい傷として股関節の弱点が
刻印された。
新約聖書の時代になりますが、
パウロは、肉体の「とげ」を取り去ってくださいと
祈り続けていました。が、神は答えて、
「私の恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮される」
と神は答えられたという。
強さを目指していたパウロにとって、
目から鱗がとれたような衝撃でした。
肯定された弱さが真の、本当の強さに変わるという。
弱さが、共感する温かさ、柔らかさに変わるからです。
ヤコブがイスラエルの国の建国の父となったこの物語は
弱さがつないだ12部族の連帯と言っていいでしょうか。
パウロが弱さを担った言葉を語り、
新しいキリスト教の進む道に信仰と希望と愛をかざしたのも
自身の弱さ体験からだったと言えます。
恵み深い天の神 やっと穏やかな秋の気配を感じて ホッとしています。
ヤコブの物語を通して、ヤボクの橋を渡って、心の体も一新される
深い罪の自覚とその精算の戦いを思いました。
刻印された肉体の棘を勲章として受け止め直した人たちに倣い
日々を歩ませてください。
感謝と願いを主イエスキリストのみ名によつて祈ります。
アーメン
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