音楽との出会い

音楽との出会い

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    音楽との出会い

 

1.鎮西学院コーラス部


1961年の春、鎮西学院の2年B組に転校生としてのスタートを切った。
父が日本キリスト教団の宣教師として沖縄に派遣されることになったので、兄がお世話になった鎮西に転校ということになった。飯塚市から布団と着物をチッキで送り、360円の切符を手に汽車に乗った。兄がコーラス部の後輩に、弟をよろしくと頼んでいたようで、3年になる先輩が色々と声をかけてくれて、自動的にコーラス部に入った。発声練習のコールユーブンゲンで声慣らしをし、詩篇98「新しき歌もて」と「進めわが同胞よ」のニ曲を練習して、長崎の平和記念公園にある会館でのコンクールに参加した。大村湾沿いを走る列車の最後尾に乗って、山側の黄金色のみかんばたけの中を長崎に行った。私の音楽体験の一歩だった。

 新しき歌もて minichapel  進めわが同胞よ minichapel  
     
     

 

2.関西学院グリークラブ 


 校内にある神学部成全寮に入つた。入学式の歓迎演奏で、高校で覚えた「進めわが同胞よ(ウボイ)」が歌われて、感動した。戦時中、チェコの軍艦が神戸で修理をしていたとき、兵士たちと関学グリーの交歓会が催され、チェコの兵士たちが歌ったその曲は、以来、関学の大事な持ち歌となった。国難から国を救う戦いの歌でチェコの歌と思われてきたが、後で、クロアチアの愛国歌だとわかった。YouTubeでクロアチアの人たちが熱烈な思いで歌っているのを見ることができる。

  進めわが同胞よ  
関西学院グリー   本場クロアチアの合唱 

 

3. 「ドイツミサ」
さて、寮の新入生歓迎会は庭に畑をつくり芋を植え付ける作業をした。その時、窓際のラジオから聞こえるすばらしい少年の合唱に釘づけなった。「これなんの歌ですか?」と聞くと木田さんがシューベルトの「ドイツミサ」と答えてくれた。都会には賢い人がいるもんだと思った。ドイツ・ドレスデンの聖十字架少年合唱団だった。お金を貯めて大阪日本橋の電気店街で小さなコンポを買い、また神戸三宮で、このレコードを買って何度も聞いた。

 
   ドイツミサ  
     
   ドイツミサ スイスブラスアンサンブル
 


楽譜は讃美歌二篇にあり田中彰寛訳で載っている。田中先生は文学部教授で、独書講読で神学生に教えるのが楽しみな、後で知ったのだが、父親が神学部の一回目の卒業生で牧師となり、先生は東大を出て関学の教師となった人で、神学部をこよなく愛していた。また、先生はアルバート・シユヴァヴィッアーの「原生林のはざまで」をテキストにドイツ語講読を教えていただいた。シユヴァヴィッアー熱烈なファンで、アフリカのランバレネまで行かれたんだといううわさも聞いた。その「ドイツミサ」はレコードが擦り切れるほど聞いて、私の好きな歌になった。

 

4.神戸栄光教会聖歌隊


大学院最終年度は、派遣神学生の行き先を神戸栄光教会に志願した。宮崎明治牧師は戦後鎮西学院宗教主事であった。その後、神戸栄光教会牧師となられた。先生は忙しそうで一度だけ、神学生を牧師館に招いて食事する時があった。私の仕事は教会学校の高等科の担当で、土曜日の週報箱に600ばかりの通信物を入れる仕事で、終わると三宮に繰り出してミンミンの餃子を食べるのが定番だった。水曜は祈祷会。聖歌隊の練習はいつだったか忘れたが、バッハの「クリスマスオラトリオ」の第一曲合唱の練習が始まり、指揮者の清水さんが日本語訳をカタカナで音符の下に書いて、「いざ歌え」と歌った。まだ楽器の準備はなく、電気オルガンの伴奏だった。
この年は春から大学の建物を封鎖した大学闘争が最高潮の時期だった。学生自治会が主催したもので、院生は卒業した身であったが、クラス会で二週間、寮の集会室で対応を議論した。それぞれに任地が決まっていることもあって、クラス会の結論は出さないことにして、解散した。
それから、私は学生会のバリケードの中に入れてもらって、寮から通い始めた。10時30分にチャペルで詩篇を読んで祈祷会をした。祭壇でなく、立って集まれる後ろの空間に十字架を移動して。続けた。自治会室は社会学部など他学部の学生も出入りして、セクトの活動をしている学生には、どんな運動理論なのかと尋ねて、勉強になった。被害者意識に立つよりも、毛沢東のわれらは資本主義に勝利しているという積極理論の方が、魅力的だった。

春の入試はなく、警察が入って、バリケードが解放された時、ブレイ宣教師が「暴力学生が、十字架を祭壇から引き摺り下ろしている」といっていたということを耳にした。わたしにはアルバイトもあって、あの時の記憶は混乱と不安いっぱいだった。そこをどうして福岡の春日東教会に赴任したのか、説明することは難しい。

    トマス教会合唱団 マタイ受難曲

5.1969年


 春日市(当時、筑紫郡春日町小倉字地蔵子) 現春日東教会に信徒伝道師として着任した。
現在、温暖化対策が急がれているが50年前はとても寒かった。なんだか鼻の具合が悪く、教会の表医師の紹介で春日原の末永耳鼻科に入院して,イカの骨のような鼻茸(鼻たけ)を鼻の穴からピンセットで引っ掛けて取り出す手術をした。次々に取り出され、12枚になった。びっくりしたが、その後空気が通って、ありがたかった。
しかし、鼻の状態はずっと蓄膿状態で、評判を聞いては耳鼻科で診てもらったがなんでもないと言われた。しかし、依然として蓄膿状態に苦しみ、とても歌を歌える状態ではなかった。40代の中頃、春日原の女医さんのところで、レントゲンをとると白い影があって、次の診察のとき、九州中央病院の先生を紹介していただいた。MRIで見るとうずらの卵の黄身の大きさのポリープが見られた。手術をお願いした。上顎洞篩骨洞というところ。部分麻酔が切れてとても痛かったが、緩やかに何年もかかって回復していった。
こういうことがあったあと、福岡バッハコレギウムに入れてもらって10年、歌いながらバッハに触れることができた。年に2回の演奏会のために、カンタータを2曲練習する。ゆったり感が良かった。金曜18時30分からの練習のために、日曜日の礼拝の準備を全て終わらせる習慣を身につけた。
 楽譜を見てその音を出せないので、鎌田さんにお願いして、カセットテープにバスパートをピアノで弾いて録音してもらい、車を運転するときに聞きながら覚えた。


その初期に出会った曲がBWW6番「泊まりませ、うちに」。エマオの2弟子に伴い歩く、復活のイエスを歌う曲で、夕日がだんだん沈んでいく、下降音型が印象的な曲です。それから10年間、カンタータ20曲あまりを練習した。一音をながーく歌うメリスマはなんとかできるが、どうしてもできない箇所が1~2箇所はあって、というのがバッハの魅力だと思う。追いかけ合うフーガの流れに入っていく、最初のタイミングなど。そばで上手く歌える人に感心していた。指揮者の武田又彦先生は、自転車で10分くらいの春日原に住んでいて、彼の演奏会の後、たびたびチェンバロ運びを手伝っていた、チェンバロはエレベーターの寸法に合わせて作られていた。風呂に入ってくつろいでいると電話がかかって手伝っていた。こういうふうに音楽に触れていた。

    復活祭カンタータ  BWV6 泊まりませ   

 

 55才になって、

子供の学齢期が終わり、65才の定年まで、わたしの母校鎮西学院の宗教主事になった。その後、定年後のわりかしフリーな年に、一年かぎりの聖歌隊を計画し、教授会で発表した。するとコミュニティサービスという授業にしたらという助言を得て、3月の入学者の面接の時に大学で何がしたいですか?と聞いて、三人ばかりスカウトし、学生3人、中国人留学生3人、フィリピン人1人、社会人学生3人、12人ばかり、コミュニティサービスの単位登録をし、諫早市民2人、教職員数人でスタートした。金曜日4限、4時30分から6時と、水曜の昼休みに練習した。一人くらいピアノ弾ける人がいるかもと思っていたら、いなかったので、あわてて、PCのピアノ音ソフトをさがし、クレッシェンドを使った。四つの声部をmp3 でつくり、メールで送り、自己練習を基本とした。集まって、四つのパートをそれぞれ歌い。ソプラノとアルトを合わせて、というように、最後に全体を合わせる。ここまでで90分たっぷりかかり、ひと月4回練習すると、結構満足な合唱になった。チャペルの時間に一曲歌った。
 最後にクリスマスに出演し、わたしの高校時代に出会った「新しき歌もて」詩篇98と「進めわが同胞よ(ウボイ)」を合唱できた。Youtubeにこの時の合唱を載せている。新しき歌もて900回、進めわが同胞よ1322回視聴があり、楽譜はどちらも男声合唱曲集1に収められている。

 これで音楽な人たちの中の私について、音楽と私の関わりについて記した。
なお、私の未来についてももう少し展望をのべておきたい。

 

6. 福岡市南区大橋


 さて、定年後2年を諫早で過ごしたが、福岡からくる子供たちが忙しい年齢になって、近くに住んで欲しいという事で、大家不動産の指導のもと、引っ越しの段取りと注意点を聞いて、家を売って、そのお金を賃貸の資金にと考え、福岡の家探しをはじめた。なかなか難しく、毎日iPadで家を探し、UR公団の空家も毎日見て、南区の大橋の団地が4階建てを平地にして、そこに14階建ての3棟、600戸ばかりのアーベインルネス(都市再生)に立て替えた、その2号棟を見学した。思ったより、西鉄の駅に近く、車はやめて、那珂川沿いに建つここに引っ越してきた。2DKと極端に狭いので、本や趣味的なものは、廃棄する仕事の人に頼んで、やってきた。ベットが二つ入る部屋の足元の2畳たらずの空間に、アングルを立てPCをおき、机を置いて、仕事場を作り、これまで殆ど活用していなかったデロンギのオイルヒーターを置いて、冬もなんとか快適に、江戸の職人のように、この空間をわが世界としてスタートし、5年になった。  
 これからさらに進むためには、仕事のプラットホームをしっかり作らなければと思った。webの作業に時間と労力を使いたくたいが、この際、サイトを根本から組み立て直し、いくつかのテキストファイルを流し込めば、きれいに成形されて出来上がる仕組みを作った。3月から3ヶ月もかかった。
これから、さらにバッハのカンタータ残り150曲に時間と力を注いで、aiの助けによって、新しいバッハの音楽を表現していこうと胸を膨らませている。そして、バッハが教会暦を拠り所に、毎日曜日の礼拝音楽15〜20分のために骨身を削ったように、私はバッハの作品に共鳴して日曜礼拝webを通して数人の人たちとの交流を励みにしています。
 これで音楽な人たちの一人、わたしの新しいスタートを祝したいと思います。皆さん期待と声援のほどをよろしくお願いいたします。
 最後に、今一番いい曲はこれです

  150 主を慕い仰ぐ 詩編25