へルマンの歌詞を使ったコラール

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へルマンの歌詞を使ったコラール

ヨハン・ヘルマン Jhohann Heerman(1585-1647) 作詞家

バッハが歌詞に用いた作者の一人、Johann Heermann(ヨハン・ヘルマン) 。「バッハCD全集」の訳と解説で見るようになった。 [※最近AIで、ヨハン・ヘルマンとでたので,こちらをこちらを採ることにしました。]

ヨハン・ヘルマンの歌詞を使った曲を6曲、解説付で下記でブログにした。ところが、

NAOX(https://ml.naxos.jp/opus/1018038 )によると
バッハは彼の歌詞から17曲を作り、6曲は2回,3回と書き直している。

時期はライプツィヒトマス教会音楽監督に就任する前1712年から1722年の10年間のことである。ワイマールとケーテンの領主に仕え宮廷音楽師だった時代に作った曲で使ったことがわかった。

* バッハがヘルマンの歌詞を使った曲 16曲
BWV86,24,156,163,71,136,194,148,102,107,45,25,199,13,5,45(作曲順)
* 二回また三回使った曲 5曲
156,148,102,199,13,(再編集)  5曲

——この中でわたしが訳した曲は、193 164  114   156   71  45   現在6曲

バッハは、ワイマール,またケーテンの宮廷音楽士だった時、

領主の指示により毎週一曲とか作曲演奏した。

バッハが用いたヘルマンの歌詞は、

罪をテーマにする特徴があり、200年前、宗教改革を指導したM.ルターの”人は「信仰によってのみ」罪から救われる”という大命題の下で、ドイツ福音主義教会(ルター派教会)はカトリック教会の縛りから独立を果たした。

ルター自身、カトリックの修行僧を経てキャリアを積んでいく中で,どうしても自身の解決できない問題に苦しんで、業(わざによって救われるのでなく「信仰のみ(sola fidei)によって救われる」という境地に至った。省みると、キリスト教の成立の理論を書き抜けたパウロの苦悩に と解決に直結している。この場合、罪は、人の神に対する「個人的な関係」の問題で,ヘルマンの罪を問う歌詞は個人的性格となっている。それはそれで、バッハを魅了する優れた作品と言える。

ところが、その後、ライプツィヒ市のトマス教会音楽監督の職について作られたカンタータは、個人的性格から一歩抜け出た、教会の会衆と一体になった「私たち」の、共同の信仰表明の性格を強く持っている。だから、この点で修正を必要とする。日曜礼拝は、当日の教会暦に指定された二つまた三つの聖句と讃美歌によりはじまり、説教の前後にカンタータが演奏され、共同の信仰の告白と賛美によって終わった。カンタータは最後のコラール、短い1分の凝縮し・解放される会衆賛歌によって完成された。礼拝から日常生活に、歌を!賛美を!という尽力が見られる。

AI チャットGT によるーーー名前の読み方

題  目

「ヨハン・ヘルマン (Johann Heermann 1585〜1647)歌詞を用いた バッハの曲について」

AIの回答

ヨハン・ヘルマン(Johann Heermann)は、17世紀ドイツの宗教的詩人であり、多くの讃美歌の歌詞を書きました。ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)は、バロック音楽の巨匠として知られており、多くの宗教曲や讃美歌に作曲を行いました。
バッハはヘルマンの詩を用いていくつかの曲を作曲しています。例えば、「主イエスを主として神霊の果実ならん」(”Herzliebster Jesu, was hast du verbrochen”)は、ヘルマンの詩に基づいて作曲されたバッハの作品の一つです。この作品はバッハの作品の中でもよく知られた讃美歌の作曲となっています。
バッハは宗教的な詩を用いた作品を多く残しており、その中にはヘルマンの詩を取り上げたものもあります。彼の曲はその詩の深い意味や感情を表現し、聴衆に宗教的なメッセージを伝える力強い作品となっている。 (20240223)

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バッハが目指した教会音楽

礼拝説教の前後に15〜20分のカンタータをトマーナコア(少年合唱団)の変声前の子供に歌えるように教え、トマス教会とニコライ教会とライプツィヒ大学チャペルに配置された。バッハはライプツィヒでの24年間をカンタータ作曲演奏に尽くした。

その前段階に当たるワイマールとケーテン時代(1714-1722)は、
宮廷楽師で制服を着て宮廷礼拝堂で演奏した.

この期間にヨハン・ヘルマンの歌詞がよく使われた。合唱団はなく、カンタータを全曲ソプラノソロ,あるいはバスのソロいうような出来上がりは、バッハにとっては満足なものではなかった。

ライプツィヒに移った1723年からは、これらの曲をもう一度、合唱も器楽も補充して、理想に近いカンタータ環境が出来たと言える。

そこに至る経過を見ると、バッハが何回か書き直した楽譜を、簡単にパロディ(模倣)といって済まされない問題がある。もちろんバッハは大いに楽しみ、充実した時だったと思う.

以下に6曲のヘルマンの歌詞を用いたバッハの曲を示します。

BWV199
わが心 血の海を泳ぐ

1714年8月12日ワイマール版
1723年8月8日 ライプツィヒ三位一体11主日
歌詞 G.C.レームス
使用コラール 「われいずこに逃れるべきや」(J.ヘルマン1630、3節)
ソプラノカンタータ
当日の福音書にある取税人の祈り「神よ、罪びとなるわれを憐れみたまえ」から作られ、前半は罪の意識にさいなまされる人間の悔恨、後半はキリストの十字架の傷に救いの慰めを見出した喜びを語る。合唱を欠き、全曲ソプラノだけが歌う限られたソプラノカンタータであるが、バッハは楽想の変化や、楽器の用法によって多彩な効果を達成している。(カンタータCD全集西原稔)

BWV163
人はそれぞれ 分に応じて
1715年11月24日 三位一体節後第23日曜日
マタイ2:15-22,フィリポ 3:17-21ワイマール1-5曲ーSalomon Franl,6曲Johann Heermann,
1715年8月1日、バッハの主君ワイマール公の甥であるヨハン・エルンスト公子が 病没した。この服喪期間、カンタータの演奏は休止され、この曲は、公子の服喪が明けた直後に演奏された。福音書の聖句「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」は、イエスをおとしめようとした律法学者が、ローマ帝国に税金を納めるべきか否か、という二者択一の問いに、持っている貨幣に何が刻まれているかとイエスが問い返し,皇帝の肖像が刻まれていることを確認して、皇帝のものは皇帝に返すべきだろう、神のものは神に返すべきだ。と答えた。皇帝に税を納めることは唯一の神礼拝に反するという、ユダヤ人律法学者の立場が崩された。この世に生きる限り、人はこの世に責任を持っている。分に応じた税金は払うべきという答えが導かれている。この意味で<各々に各々のものを>と訳されてきた表題を「人はそれぞれ分に応じて」とした。🔥エルンスト公子は楽才に優れ、バッハにも学んだが、わずか18歳で病没した。なお、独奏用の 「協奏曲」BWV592,595(オルガン協奏曲)982,983,987(チェンバロ協奏曲)は公子 の作品をバッハが編曲したもの。🌸    🌝    🔥

BWV114
愛するキリスト者よ雄々しくあれ
17241001三位一体17
エペソ4:1-6 およびルカ14:1-11の水腫の男の治癒
使用コラール ヨハス・ギーガスの全7曲の悔い改めの讃美歌(1561)による(バッハカンタータCD全集p160)
冒頭のコラール幻想曲,通奏低音のみでソプラノが歌う。第4曲、また第7曲で4部構成の終結コラールとした。水腫の男の治癒についてアリアの朗唱が定められた聖句を歌う。4声部のコラール合唱を、ホルン,フルート,オーボエ2本、弦楽器、通奏低音で補強した。バッハがトマスカントールに就任して2年目、ヨハネス・ギガス(1561年)による「6つの悔い改めの歌「誠実な愛するキリスト」の曲に合わせてうたわれている。

この讃美歌はキリスト者は罪をおかし、罰を受けるに値するという考えに焦点を当てており、朗唱した聖句とは遠い関係にある。

が、「seliger Tod(祝福された死)」で喜びに移る可能性を込めている。バッハはテキスト(聖書)から逸脱し、この罪深い水腫は死に向かい,あなたは死ぬでしょう。そしてアダムの例を引き、神のようになろうとする禁断の欲求による自己高揚によって生じる堕落を示している。
※本曲初演の二日前、大天使ミカエルの祝日にBWV130が初演された、この二曲の内容的関連も考慮される。

 


ヨハン・ヘルマンの歌詞を使ったほかのカンタータは下記

156 わが片足墓穴に着きて

17290123顕現節マタイ8:1~13
第1曲はシンフォニー、第2曲「病める体をまもなく沈めん」。
♪ 人が背負っている悩み、苦しみを「わが片足墓穴に着きて」 第3曲「わが悩みと苦痛・命も死も神の手の中にある」。第4曲「主のみ心こそ望みなれ」喜びの日も、苦しみの時も、死の時も、み心のなるように祈らせたまえ」。第5曲「霊とみ言葉の養いあれば、肉と魂の養いはわが受ける分です」。第6曲「生きるも死ぬも、願いは一つ」。 イエスは彼の切実な苦悩を受け止め、患部に手を差し伸べて、手を当てて!「清くなれ」といわれた。すると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。

71 神はわが王

1 神はわが王 合唱 2 わたしは今や80歳、なぜこんなに重荷を テノール
3.四重唱 4.アリア 5.アリア 6.あなたの鳩の魂を敵に与えないでください合唱 7.合唱 新しい治世に祝福の王冠あれ。
1707年 バッハはミュールハウゼン ブラウジス教会のオルガニストの任命を受けた。ところが、その三日後に大火が起こり、結婚したばかりの妻と引っ越した。ミュールハウゼン市はローマ帝国の直轄自由都市で、6人の市長と46人の参事会員が選ばれ、この中の二人の市長と14人の参事会員が1年任期で交代する時だった。火災の復興は手付かずのままだったが、バッハの初仕事になった参事会交代式は、議員たちに深い感銘を与え、議会は楽譜を200部印刷して謝意をあらわした。

45 人よ何が善いことか 17260811三一8ミカ6:8,マタイ7:22
コラール ヨハン・ヘルマン
ローマ8:12-17,マタイ7:15-23,山上の教えより
 説教後の第2部ーあなたの名において悪魔を追い出した。またあなたの名において良き業を行ったか?次のアリアはマタイ10:32の言い換えで,ヨハン・ヘルマンの讃美歌「おお神、誠実な神」(O Gott,du frommer Got:1630)の第2節。
カンタータは旧約聖書から始まりコラールに至る.福音書の言葉を中心にして、旧約・新約が対照的な構成になっている。

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さらに10曲
86,24,136,194,148,102,107,25,13,5(作曲順)
* 156,148,102,199,13,(リサイクル)

ヨハン・ヘルマン

Jhohann Heerman(1585-1647)

https://ml.naxos.jp/opus/1018038

ヨハネス・ギーガスによる讃美歌の最初の詩 エペソ4:1-6 ルカ14:1-11


ワイマール、ケーテン時代(宮廷楽師時代)

「小説バッハ」(フランク著、佐藤牧夫訳)より

「小説バッハ」を要約したものを作り、度々確かめています。その11と12で、最後のトマス教会音楽監督(カントール)の職を得るまでの9年間を外観できる。

なかでも、1717年10月31日宗教改革200年記念礼拝が、1日違いのワイマール公の誕生日30日と差し替えられるようになり、バッハの抗議に対して,楽士として従うようにという命令に納得できず、繰り返し辞職を申し込んで、4週間牢に閉じ込められた。

バッハは牢の中で,楽譜と原稿用紙を運ばせて、教会暦一年分の164のコラールを構想し、46曲が完成したという。バッハ32才の時でした。その後ケーテンで使え,ライプツィヒのトマス教会に向かいます。


「小説 バッハ」 ハンス・フランク 宮原牧夫訳 1960

-その11- ワイマールのバッハ  1714年から1723年

ワイマール、ケーテンからライプツィヒへ

29歳のバッハは、ワイマールのヴィルヘルム エルンスト公爵の宮廷礼拝堂オルガニスト、また制服を着た16人の劇団の音楽師として、これから9年間を過ごした。本書の著者は、バッハのこの時期の自由な創作活動を高く評価している。

1,俸給が上がったこと。85グルデンから、最終的には250グルデンに上がった。月に9つの新しいカンタータを演奏する義務を課せられたことなど。
バッハは北ドイツの巨匠ブクステフードの穏やかで深いオルガン音楽と、南ドイツの巨匠パッヘルベルの情感豊かで、軽快な音楽を総合した。またイタリアオペラの自由な表現も影響を与えた。
月に9つのカンタータを作る義務はバッハに一つの形式を生み出した。
それは、1,最初の合唱 親しまれているコラールのメロデイをソプラノが短い言葉で提示し、三部合唱が時間差をつけて追いかけて語り合い、綺麗な和音に組み上げられるフーガという形式、
2,聖書朗唱にはオペラの手法を取り入れ 話の進行を示し、
3,アリア 叙唱 オペラの自由にならい、テンポを変えたり、移調を加え、最初のテーマを繰り返して終わる。ダ・カーポを取り入れて、魅力的で、今でも電話の呼び出し音などでも親しまれているような、新しいアリアをつくりだした。
4,最後に、宗教改革を指導したマルチン ルターは、親しまれてきた民謡や、人の心情を歌うブルースのような、民衆のメロディーを採りいれて讃美歌のメロディーに変える会衆讃歌のコラール集を作った。このコラールでカンタータを締めくくった。
新しい音楽の創造に力を与えたもう一つの要素は、歌詞の言葉の力であつた。バッハが使った歌詞は主に3人の詩であった。その中のノイマイスターはライプツィヒ大学で神学をおさめた牧師であったが、途中から詩作の道に入り、毎日曜の礼拝に用いるカンタータの歌詞、7年分、350曲を印刷発行した。バッハはこ歌詞に多くを負っている。
ヴァイマール時代は、バッハの次のそのまた次の任地となった聖トマス教会音楽監督の長期間の任務を支える力を養った。

「小説 バッハ」 -その12- ワイマール時代 後半
ワイマール公は次代に席を譲ったが、身内の争いが絶えず、バッハにはどちらにもくみしないという態度を保てなくなった。1717年10月31日宗教改革200年記念祭の計画が、同月30日のヴァイマール公の誕生記念が主になっており、一音楽師の身分で働くことを求められたバッハは、辞任を繰り返し申し出、公は怒り哮り、バッハを牢にとじこめた。なんと4週間。日本でも最近そんなことありましたねぇ。
バッハは牢の中で曲想を思いつき、原稿楽譜を取り寄せ、長男のための練習曲「オルガン小曲集」を書き、また教会暦一年分、164曲のコラールを構想した。それは46曲完成した。牢の暗がりの中で。
解放されたバッハは32歳、妻と4人の子どもを連れて、新しい任地ケーテンに向かった。最後の任地ライプツィヒが少しずつ近くなってきました。


ヨハン・ヘルマン 人生  wikipediaより

毛皮職人の息子は、最初はフラウシュタットのラテン語学校に通い、1602 年から 1604 年まではブレスラウのエリザベートギムナジウムに通いました。その後、ストラスブール大学で神学を学び、1608 年にブリークで桂冠詩人の栄冠に輝きました。 1611 年から彼はグローガウ近くのケーベンで教区事務所を務めました。市の火災、疫病、戦争略奪、家族の苦しみ、そしてこの時期のシレジアを特徴づけた反宗教改革のため、彼は1638年には早くもケーベンでの職を放棄し、リッサに撤退しなければならなかった。

作曲家として、彼はマーティン・オピッツと彼の詩の改革に影響を受けています。彼の作品はアンドレアス・グリフィウス、パウル・ゲルハルトらに形成的な影響を与えました。彼は約400曲を書きました。ヘールマンは「苦難​​と苦闘の歌手であると同時に、折れない信仰の勇気の歌手」であると評されている[2]。

最初の出版物は、Devota musicacordis、Hauß-および Hertz-Musicaにあります。[3]「神よ、敬虔な神よ、最愛のイエスよ、何をしたのですか」や「イエス・クリステよ、真の光よ」などのコラールは、プロテスタントとカトリックの賛美歌本に取り入れられ、今日でも使用されています。また、「親愛なるイエス様、あなたはどんな法律を破りましたか?」の英語訳もいくつかあり、その中にはキャサリン・ウィンクワースによる1863 年の「親愛なるイエス様、あなたはどんな法律を破りましたか?」というタイトルのものもあります。 。 1724年にバッハのコラールカンタータ「悲しくなりたいのは何ですか」BWV 107の基礎となりました。

ヘールマンはまた、禁欲的な著作も出版した。 B. Heptalogus Christi (ベルリン、1856 年) および教訓詩: Praecepta Moraria et SententiaeおよびExercitium pietatis (ラテン語とドイツ語、Breslau 1886 年)、および詩集Teutsche Poemata (1640 年)。

・ビーレフェルト=ブラックヴェーデにある

ヨハン・ヘールマン・ハウス老人ホーム(1968年完成)は彼の名にちなんで名付けられた。[4]

・追悼の日
ドイツ福音教会:福音主義カレンダーの2月17日

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