今日の言葉に、神の子イエス・キリストの福音の「初め」とあります。
この「初め」は、創世記の冒頭にある「『初めに』神は天と地を創造された」
とほぼ同じ意味をもつ初めです。
新しい時が始まる。しかも、この初めは目標をもった初めです。
自分の目標、または使命に目覚め、そこに向かって邁進する。
充実した、みなぎった時が始まる。こういう初めです。
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この意味で「初めに神は天と地を創造された」という創世記の言葉を読むと、
「初め」とは天地の創造がその完成に向かって
歩みを始めた時であることが分かります。
その初め、出発点が定められました。
「初心忘るべからず」と言いますが、
神が天地を創造した目的を、
人類が、そして私が、あなたが初めて自覚した時、
新しく始まった時のことを忘れてはなりません。
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ところで、本当は神が天地を造ったのではなく、
蛋白質から出来たと、進化論は説明をします。
それはそれでよいのです。進化論はなんら間違いはない。
始まりの前は、目的を持たない果てしない、
何億年という時間がありました。
進化論では、初めも終わりも、目的もなくて、
ただ進化があってよいのです。
しかし、聖書は言う。その時間に初めが定められた。
目的に向かって進む始まりが与えられたのです。
これが新しい時です。
神が初めを定めたのですが、神が定めた初めを、
人が知った時でもあります。
その初めを忘れてはなりません。
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では、天地創造の目的とはなんでしょうか。
天地の創造はいまも続いていて、やがて完成する。
別の言葉で言えば、終わりの時がくる。
完成の時がくる、「終末」がくる。
終末はしばしば誤解されて、滅びとか破壊が強調されます。
もし人が目的を知っているならば、地球が滅びるとか、
戦争だとか飢餓だとか、災害だとか、カタストロフだといいます。
ドイツの福祉の中でカタストロフ支援というスローガンがあります。
災害支援のことです。改善したり、支援するものと受け取られる。
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天地創造が夢見る完成とは何か。
聖書には次のように示されます。
すべての被造物が、創造者である神を誉め称えるにようになる。
すべてのものが真の神をほめたたえる。ここに天地創造は完成する。
聖書の最後に「黙示録」という書物がありますが、
黙示録は終わりのことを繰り返し語っています。
その一部を7章9節から12節に見ると次のようにあります。
「この後、わたしが見ていると、
見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、
だれにも数えきれないほどの大群衆が、
白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、
玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。』
また、天使たちは皆、玉座、長老たち、
そして四つの生き物を囲んで立っていたが、
玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、
こう言った。『アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、
世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。』」
すべてのものが真の神をほめたたえる。
ここに天地創造は完成する。つまり神の国が実現する。
□ 私たちは初めと終わりの、中間の時を生きています。
すると、今示された天地創造の完成のために、
しなければならないことが山ほどあるということになります。
天地の完成から見ると、まだまだ不十分であり、全く未熟です。
しなければならないことが山ほど残されています。
これが聖書が、特に天地創造の物語が、私たちに示している初めです。つまり、始まりも終わりもない、果てしない時に、初めが定められた。目的をもつ時間が始まったのです。
□ さて、今日の最初の言葉に戻ります「イエス・キリストの福音の初め」に、
イエスは「神の国」を教えました。
私たちの生活が神の国を見上げ、向かっている。
神の国の民、神の子に近づいている。
このような教えを聞くと、私も神の国の住民のようになりたい。
ならなければならないと言う、。
私たちは目的をもつ初めを定められるのです。
この世が神の国になって天地創造が完成する。
神の国が来る。終わりの日には、この世が神の国になる。
だとすれば、それは喜ばしい福音であります。喜びに満ちた知らせです。
そして、イエス自身の中に初めがあり終わりがある。
黙示録二一章六節によるとイエスの言葉として次のようにあります。
「わたしはアルファであり、オメガである。
初めであり、終わりである。
渇いている者には、命の泉から価なしに飲ませよう。」。
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ここで、
初めと終わりとは遠くかけ離れているのではない。
初めの中に終わりが含まれている。
終わりの時はその初めを含み持っている。
こう考える。
イエスは神の国を種蒔きの例えで教えられました。
種の中にすでに実りがある。
種の中に終わりの完成が含まれている。
そのように、イエス・キリストという人生の中に、
その誕生、クリスマスの中に
初めがあり終わりがあります。
馬小屋でお生まれになったその生まれには、
すでに十字架で亡くなられる終わりが暗示されている。
そして、そのイエスが一度は死んだがよみがえって今尚生きている。
そして、私たちの人生を伴い歩いて下さっている。
こういうイエスご自身の初めがあり
十字架の中に復活という完成がある、目標がある。
イエスの人生をこのように見ることによって、
実は、私たちの人生そのものが教えられています。
ところが、問題は、自分の怠慢のために
種から芽がはえでて、よい実を結ぶべばよいですが、
なかなか良い実にならないという悩みや苦しみを覚えます。
あるいは病気や事故のために、思わぬ不幸のために、思ったように行かない。
そういう苦しみを通ります。
しかし、だからと言って、
初めの約束がなくなることはありません。
消え入りそうなともしひが、風が止むと、
再び燃え上がろように、その時を待っている。
クリスマスの、ファンタジーに満ちた初めの時を
はらいつぱい吸い込んで、
クリスマスシーズンを過ごしましょう。
今日の祈り
恵み深い天の神 アドヴェントを迎えて、馬小屋に生まれ、貧しき憂い、
生きる悩み、つぶさになめたイエスの温もりを 感じる日々を感謝します。
この時、イエスと同じような目に遭っているイスラエルとウクライナの戦渦にある人たちに 真っ当な命の保障と、生きるために必要な 糧を備えて
ください。政治に携わるものが国のために、国民の幸福のみを念じて仕事に
つきますように。願いと祈りをしゅイエスキリストのみ名によっていのります。アーメン
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