本のひろば

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       本のひろば  
 

ようこそ本のひろばへ
必要な時、興味が湧いたとき
目を通したり読んだ本ですが、よく読んだときに
書き記したものをほり起こしてリサイクルしています。
最近は読むといえはPCや本を読むiPadで
紙の本はごく少なくなりました。
久しぶりの掲載して、気持ちを新たにしています。

 

 
 クララとお日さま カズオ・イシグロ
主人公AF(人工友達)のクララはもう1人のローザと、AFを販売する店のショーウィンドウで、パートナーとなる買い主を待っている。彼らは太陽光のような光を身に受けて生きている。ちょうど太陽電池で走る車に充電するように、高層ビルの谷間にさしてくる短時間の光でも身に浴びなければ生きていけない。店内のショーウインドウからみえる表通りには、すでにパートナーとなったAFと歩く人の姿が散見される。
母親と店を訪れたジヨジーは主人公クララを気に入ってくれたが、親との話がつくまで待っていてねと言って分かれたきり、現れない。その間、一緒に店に来たローザはパートナーとして引き取られていった
 
モ モ」ミヒャエル・エンデ 岩波書店 2005
ある少女が町はずれにある古代遺跡を住まいにし、町の人たちと交流し、様々な不思議なことが起こる。モモは人の心を聞き取る不思議な能力をもって、癒し、安らぎを与えてくれる。会う人は皆、モモのことを好きになっていく。ところでモモは「時間泥棒」と戦いとり戻そうとしている。例えば、私たちは働いて時給1500円に上げろとか、代価によって、心満たされ、癒やされたりはしない。半分は税金に抜かれるから。疲れと空虚感漂う時間泥棒に酷い目にあっている。と言うように読める。どろぼうに抜かれた時間と人生をとりもどす基本は、話して心を明け渡し、明け渡された心を、こころにつつむことではないでしょうか。一日中道路掃除をするペツポ爺さんは、大変でしょう、つまんないでしょうと言わんばかりの人たちに、そんなことはない「一掃き、ひと掃き心を込めてやっているのだよ」と言った。そのひと掃きに自分あけ渡したり、奪われたりはしていないベツポさんと言うように、現代の問題を深く掘り下げた作品です。
 
     
小説「1984」
若者に読まれているベストスセラー小説「1984年」に、真理省につとめ、歴史改ざんを仕事にする主人公が出てくる。気分悪くなるような話だった。1949年にジョージ オウエルが書いた未来が日本で現実となっている。ナチスに倣えといった首脳も最後の時を迎えている。するりと逃げられないように、屈服させられている司法も元気に活躍してほしい。お願いしたい。2018/03/06
 
     
小説「1984」
若者に読まれているベストスセラー小説「1984年」に、真理省につとめ、歴史改ざんを仕事にする主人公が出てくる。気分悪くなるような話だった。1949年にジョージ オウエルが書いた未来が日本で現実となっている。ナチスに倣えといった首脳も最後の時を迎えている。するりと逃げられないように、屈服させられている司法も元気に活躍してほしい。お願いしたい。2018/03/06
 
   
     
     
子宮の記憶  春秋社編集部  春秋社  19921120
アメリカのある臨床心理学者が心身に問題のある患者に催眠療法を行ううち、自分の生まれたときこのことを語る患者に出会った。心理学者はそれまで人にそうした記憶が残っているとは考えていなかったが、患者たちがあまりたびたび口にするのに興味をもった。記憶を取り戻した患者は、どうやら治癒に向かうらしかった。
 
     
胎児は学ぶ  エンゲル  大修館  19931120
26週から40週にかけて胎児が成熟していくのにともない、聴覚の刺激に対して胎児が反応するのは、「胎児の中枢神経系の機能がかんせいすること」を示す。(ガグノン他、1987)。すなわち、人間の近く・感覚は、お腹の中で発育している時期に形成されるのである。・・・新生児を二人の女性の間に顔を見られないようにして置き、同時に二人の女性が話しかけると、その子は母親の方を向く。つまり、新生児は明らかに母親の声を認識している。それは生まれる前から聞きなれた声だからである。
 
     
誕生の記憶  春秋社編集部  春秋社  19921120
アメリカのある臨床心理学者が心身に問題のある患者に催眠療法を行ううち、自分の生まれたときこのことを語る患者に出会った。心理学者はそれまで人にそうした記憶が残っているとは考えていなかったが、患者たちがあまりたびたび口にするのに興味をもった。記憶を取り戻した患者は、どうやら治癒に向かうらしかった。催眠下の患者たちは自分の誕生についてじつにこまごまと語った。
 
     
 記憶する心臓 ある心臓移植患者の手記 クレア・シルヴィア著
心臓移植後におこった数々の不思議な体験。生命の奥深い神秘に迫る衝撃のノンフィクション。
原発性肺高血圧症という難病におかされ、心肺同時移植手術を受けたクレアは、
手術後、自分の中に別の誰かが存在していると感じ始めた。
 
     

「アドルフに告ぐ」の中に挿入された話、ユダヤ難民が日本にたどり着き、日本から上海を経由してアメリカ・カナダへと通過したという話はフィクションではない。一九四一年七月から翌年5月まで、約11月の間に、四六六四人のユダヤ人難民がシベリア経由で日本にやってきた。横浜、神戸の在日ユダヤ人が中心と救援活動に奔走した。とくに、中田重治を中心とした東洋宣教会ホーリネス教会の関係者はユダヤ難民を親身に世話した。

当時、外交官としてリトアニアで任務に就いていた杉原千畝(すぎはらちうね)は六千枚の通過ビザを書いたという。ポーランドからリトアニアに逃れてきたユダヤ人難民のために、迫り来る危機のなか、領事館が閉鎖される直前まで、力をふりしぼってビザを書き続けた。また、リトアニアを去るときも、駅で汽車に乗ったあとからも懇願するユダヤ人のために書き続け、汽車の窓から手渡したという。そのビザはアメリカの南、メキシコ湾にある小さい島、オランダ領キュラソー島を目的地とする通過ビザであったので、「キュラソー・ビザ」と呼ばれる。キュラソー島は税関がなくビザを必要としない島である。窮余の一策を思いついて、このようなビザを発行した。杉原千畝氏は六千はビザを書いたという。このビザによって、そのなかの4664人が日本に来たということは、驚くべき奇跡である

 

 
     
ジョイ・コガワは、はじめ「OBASAN」(おばさん)という本を出版した。一九八三年、その本は発売されるとたちまちベストセラーになり、「カナダ文学賞」「全米図書賞」を受賞した。カナダ文学賞を受賞したとき、次のように語った。「私はこの本で、私にとって、ひじょうになつかしく、忘れることのできない人びとをとりあげました。日系カナダ人です。  
     
     
     

なぜわたしだけが苦しむのか
幼い息子が奇病にかかり十余年の命と宣告される。

理不尽と思える不幸にみまわれたラビ(ユダヤ敦の教師)が絶望の淵で問う。

神とは、人生とは、苦悩とは、祈りとは何か。自らの悲痛の体験をもとに旧約聖書を読み直し、学びとったことを透徹した理論と澄み切った感性で綴る。

人生の不幸を生き抜くための深い叡知と慰めに満ちた書。

 
     
     
荒れ野の40年―ウァイツゼッカー大統領演説全文
1985年、ヒトラー・ドイツ降伏40周年記念に際して、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは「荒れ野の四○年」と題して演説を行い、「救いの秘密は心に刻むことにこそある」といった。心に刻むことであって、「密封することではない」。この演説はドイツが進むべき方向を世界に示したもので、日本でも岩波ブックレットほかいくつかの翻訳出版がなされ、話題となった。荒れ野の40年とは旧約聖書の出エジプトの民がその不信仰と罪のゆえに、約束の地を目前にして、40年の間荒野を放浪した。ドイツの戦後40年を出エジプトの民にたとえたもので、歴史認識の基礎を解き明かしている。
 
     
 「人は成熟するにつれて若くなる」 ヘルマン ヘッセ
ナチスに反対して作家活動を攻撃され、スイスで過ごした。ノーベル賞を受けたが、心の病で苦しみ家庭的には幸福だったとは言えないが、今ヘッセが読まれているのは、心の苦しみを持つ人たちが、自分のことを分かってくれていると感じるからだ。人間の弱さと正直に向き合った、その生き方と文章は、今新たな光を浴びている。人はみな老いていく。夕日の暖かみのようなものが正当に評価されている。
 
     
「庭仕事の愉しみ」
同じくヘッセの「庭仕事の愉しみ」。心温まるスケッチが10数点はいっている。
庭仕事は瞑想である。草花や樹木が教えてくれる生命の秘密。文豪ヘッセが庭仕事を通して学んだ「自然と人生」の叡知を詩とエッセイに綴る。自筆水彩画を多数挿入。
庭にて/九月/幼年時代の庭/青春時代の庭/外界の内界
弟に/ボーデン湖のほとりで/花のいのち/嵐のあとの花/花々にも〔ほか〕
 
     
「戦争・ナチズム・教会」 河島幸夫著  1993、新教出版社
「人の生活に重大な影響を及ぼす」政治学を専攻する著者は、ドイツにおけるキリスト教、とりわけ戦時下の福音主義教会が歩んだ道を考察する。 特にヒトラーが「生きるに値しない命」として、20万人の障害者の「安楽死」抹殺を進めた時、患者を預かっていた福祉施設の指導者たちはどのように迎合したか、または抵抗したか。患者抹殺に手を貸したか、患者を守り抜いたか。施設「ベーテル」の抵抗の事例を詳細に検証している。
 
     
ヒトラーのもとで行われた、ユダヤ人虐殺と、これをひきおこしたすべてを第一の罪とすれば、「第二の罪」とは第一の罪をごまかし否定することである。ラルフ・ジョルダーノは彼の著「第二の罪」の中で右のように言っている。そして第二の罪は、今日にいたる戦後西ドイツの政治文化の本質的特徴だという。(同書9頁)ユダヤ人を母として生まれたジョルダーノは多感な少年時代をナチスの暴虐の中に耐え抜いて生きた。解放の暁にはドイツを離れようと堅く決心していたが、解放されてみると、この地に踏みとどまることになった。  
「死の日記」への序章   柳田邦男  新潮社 1986
自らがんによって死んでいった医師の手記を、柳田邦男が編集して生まれた「死の医学」。患者の立場から、病気を見つめ、患者中心の医療を訴える。ちょうど、エリザペス・キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」が発行された時代でもあり、自分の場合は死に至る人がたどる心の五段階が、順番どおりでなく入り混じるといって批判したりする。 かけがえのない人生の週末の瞬間は、病院の一室に閉じ込められ、「死」は日常化に切り離されようとしている。より深き生の充実のためにもっと「死」を思いたい命の刻む音を聴きながら自らの死をみつめ、記録して逝った精神科医西川喜作の模索のあとを辿りつつ思考する「死の医学」表紙扉より。
 
     
犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日
「脳が死んでも体で話しかけてくる」。
自ら命を絶った25歳の息子の脳死から腎提供に至る最後の11日を克明に綴った感動の手記。
冷たい夏の日の夕方、25歳の青年が自死を図った。意識が戻らないまま彼は脳死状態に。
生前、心を病みながらも自己犠牲に思いを馳せていた彼のため、父親は悩んだ末に臓器提供を決意する。医療や脳死問題にも造詣の深い著者が最愛の息子を喪って動揺し、苦しみ、生と死について考え抜いた11日間の感動の手記。
 
     
 精神病院の起源 小俣和一郎  講談社現代新書
ヒトラーに心酔したユング、ナチ党員だったハイデガー現代思想史上に輝かしい足跡を残した「知の寄与人たち」の知られざる暗部かいま明される。「アーリア人」人ユングーーーフロイトはユングのオカルト現象や宗教への興味に危険性を感じ、ユングはフロイトの性欲説一点張りの頑固さに辟易していた。 1913年、二人の対立は決定的となり、ユングはIPV会長を辞任するユングは「一種の心理的危機に落居の、第一世界大戦が終了するまでほとんど引きこもった生活を送っていた」と多くの評伝は伝えている。しかしながらまさにこの時期、永世中立国であるスイス国民のユングは、ドイツの敵国イギリス・フランス人捕虜収容所で衛生士官の軍務についていた。その時の写真には、生き生きとした表情のユングがはっきりと写し出されている。
 
     
 自然・人生・宗教」佐藤俊男<br>
「昨年、1997年3月31日、佐藤牧師は半世紀にわたって奉仕された福岡社家町教会を退任された。生死を分ける戦場(中国の山奥・ニューギニャの密林)での極限状態を生きき抜き、人間と宗教の問題を根底から見直してこられた先生によって、私たちはいわゆる教会という枠内での制約から離れた自由な雰囲気の中でキリスト教の本質について学ぶことができた。
また一哲学徒としての立場を固執してこられた滝沢克己教授(主に西田幾多郎、カール・バルトの研究)が、ご夫妻で受洗されたのもこのような雰囲気のもとであった。
 
     
 精神の遍歴 竹下夢ニ  関谷定夫著  東洋書林 2000
大正ロマンを代表する放浪の抒情詩人画家・竹久夢二は、徹底した民衆派の美人画家として、今日、多くの人びとを魅了している。その彼が女性遍歴でいろどられた頽廃画家というそしりを受けている反面、若き日に平民社に出入りし、反権力、反戦的社会主義者としてたえず特高からつけねらわれていたという経歴の持ち主だったことも、今ではよく知られている。筆者はつい最近まで夢二についてはほとんど無知に等しかったのであるが、ふとした動機から急に、彼の波瀾にみちた人生の軌跡を追わざるをえなくなった。
 
     
     
     
グスタフ・ユング (1875-1961)
スイスの心理学者。精神病理学者。コンスタンツ湖畔に牧師の子として生まれた。バーゼル大学で医学を学ぶ。一九〇六年以来フロイトと交流を深め、精神分析学会の初代会長となる。後にフロイトと別れ、分析的心理学派を作る。始めフロイトに共鳴したが、リビドーを性的なものに限定することに反対して広く心的エネルギーとみなし、性格を内向・外向の二型に分けたことは有名である。夢の解釈も過去の経験に限ることなく、未来を予告する働きを持つものとした。彼は無意識を、フロイトの個人的なものに対して元始よりの種族的な経験の集積とみなし、「集合的無意識」と名づけた。彼の深層心理学は神秘的な内容を含んで難解であるが、宗教心理学、牧会心理学にとって多くの有益な示唆を与えるものである。
 
     
「人間の大地」  犬養道子   中央公論社 1983年
国連の難民高等弁務官のスタッフとして長年難民問題に取り組んできたレポートである。
「難民」とは、犬養氏によると近代的意味でパスポートを持たない、政治的・経済的理由で、母国を離れた人である。聖書の主要人物も難民であったと指摘し、クリスチャンはとくに難民問題に理解を示してほしいと訴える。確かに、アブラハムもヤコブも、ヨセフもモーセも、そしてイエス・キリストも生まれてすぐエジプト逃避という難民体験をした
 
     
人生の短さについて 他二篇  文庫 セネカ, Lucius Annaeus Seneca, 茂手木 元蔵
出版社からの内容紹介セネカ(前5,4―後60年)はローマ帝政の初期というひどく剣呑な時代に生きた.事実,かつての教え子ネロ帝から謀反に加担したと疑われ,自殺を命じられるのである.良く生きれば人生は十分に長いと説く表題作,『心の平静について』『幸福な人生について』のいずれもが苦境にたちむかうストア哲学の英知に満ちている.
人生の短さについて 心の平静について 幸福な人生について
 
     
パット・ムーアは、三年間アメリカの老人を経験し小説「変装」を書いた。メーキャップ・アーティストの手を借りて、二六歳の顔を八五歳の老女に見せる扮装術を身につけた。喉のたるんだ肉、目尻の皺といった特殊メイクを彼女は買いこんだ。頭には白髪のかつらをかぶった。重い矯正靴を履き、白手袋をはめ、杖をつき、特殊なクレヨンで歯を汚した。田舎のストアで買った安物の部屋着とショールをまとった。老女であると実感できるように、関節炎を効果的にみせるために指にテープを巻き、膝の裏に副木を当てて動きを制限した。その変装は完璧だった。変装してアメリカ各地の街中を歩いた彼女は、いつも無視され、粗暴に扱われ、死ぬほどたたかれた。・・・・・  
     
「絶対音感」   最相葉月著
「絶対音感」とは自分の中に基準音をもっていることをさす。それはドレミの「ラ」の音を覚えていて、これを基準にどんな音もいいあてる。救急車の警笛や飛行機の爆音を音階で聞いてしまうという。モーツアルトやベートーヴェンは絶対音感をもっていた。だから、小さいときからして訓練して、絶対音感を身につけるという教育が日本で行われてきた時代がある。ヤマハ音楽教室などで行われた。 ところが、そこから生じる問題は音階が分かるが、意味や情緒がかけていく。 「公文式」の算数の練習が技術的にはすばらしく熟達していくとして、その問題や意味を問わないという、問題と似ている。 絶対音(基準音)が、ドイツやアメリカなど国によって微妙に違う、その違いが気になって吐き気を催すような違和感を持ってしまうという。 絶対音感とはなにか、考えさせる
 

「なぜわたしが」 エリカ・シューハート著 山城順訳

人生の危機(病、事故)にあった人が、自分の人生をどのように受け止め、克服しようとしたか。 またはできなかったか。 自らの体験を記した6千冊の書から、八つの局面を上り下りするらせん模様にあらわした危機対処理論。目次から、B6版電子書籍として読めるようにPDFにしています。iPadなどのタブレット、またPCでどうぞ。ダウンロードもできると思います。

 

 

 

 

 

 「ディアコニー」エーリッヒ・陪臚いちー著 山城順訳

ドイツのキリスト教(プロテスタント)社会福祉の歴史をイエスの時代にさかのぼり、宗教改革を経て、これを教会の宣教課題となし、内国伝道の一環とし、戦中戦後をどのように担ったかを、敬虔主義の立場から論じた。
目次から、A5版電子書籍として読めるようにPDFにしています。iPadなどのタブレット、またPCでどうぞ。ダウンロードもできると思います。

 
     
「生きるに値しない命」とは誰のことか ―ナチス安楽死思想の原典を読む
カール ビンディング , アルフレート ホッヘ , 森下 直貴 佐野 誠訳 窓社 (2001)
本書は、ナチス安楽死政策や、優生学運動・優生思想、安楽死問題・安楽死思想の研究と思索を一歩でも前進させるために編まれたものである。封印されてきた禁断の書、「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」の完訳。それを巡るナチス安楽死政策との結びつきを立証した論究と、ナチズムだけでなく安楽死一般の価値観に対峙する視点を探った考察を収録。
第1編 テキスト(法律家の見解医師による論評)
第2編 批判的評注(それはいかにして生まれ、利用されたか―法思想史的・歴史的観点から「生きている価値」とは何か―倫理学的考察)
 
     
子どもたちのホロコースト ローレル ホリディ、Laurel Holliday、 横山 緝子   小学館 1997
本書は、肉親と引き離された12歳から17歳の子どもたちが、ナチ占領下のチェコ、ハンガリー、ポーランド、リトアニアなどの強制収容所やゲットーなどで密かに記した日記を、編者が世界各国の資料館や図書館などから集めて編纂したものです。11人中5人の子どもたちはアウシュビィッツやポーランドの絶滅収容所で犠牲になりました。 子どもたちの日記には、ゲシュタポの絶え間ない嫌がらせに耐える毎日、生活必需品を手に入れる苦労、友だちや肉親が死の収容所に移されるのを目の当たりにする恐怖などが、生々しく率直に描かれています。
 
     
アドルフに告ぐ 手塚 治虫 、文藝春秋社、1958年
アドルフと呼ばれた三人の男を描く手塚治虫のまんがである。一人は在日ドイツ領事の息子 アドルフ・カウフマン、その友人でパン屋を父に持つユダヤ人アドルフ・カミル、二人は神戸で幼なじみであった。もう一人はナチスを率いたアドルフ・ヒトラー。この三人である。ヒトラーが政権をとり、ベルリンでオリンピックが開催された頃、数枚の秘密文書が日本に渡った。ユダヤ人を絶滅しようとしているヒトラー自身にユダヤ人の血が混じっていることを証明する文書だという。ヒトラーは1889年4月20日に生まれたが、その出生証明書には税関の検査官であるアロイス・ヒトラーと三度目の夫人であるクララとの間に生まれたことが記されている。また、ヒトラーの父方の祖父はフランケン・ベルガーと名乗る金持ちのユダヤ人であった。その息子は、召し使いとして働きにきた女性との間に子供を作った。マリア・アンナ・シックルグルーバーは四二才の時に私生児アロイス・シックルグルーバーを生んだ。ヒトラーの父親がこの人である。「あなたの血のはいったアドルフに一度あいに来てやって」と書かれた手紙は、アドルフ・ヒトラーがユダヤ人の孫に当たることを証明する書類として、ナチスが隠密裏に探していたものである。
 
     
夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録 (単行本)
V.E.フランクル(著, 霜山 徳爾(著 みすず書房 ,1985
ユダヤ人精神分析学者がみずからのナチス強制収容所体験をつづった本書は、わが国でも1956年の初版以来、すでに古典として読みつがれている。著者は悪名高いアウシュビッツとその支所に収容されるが、想像も及ばぬ苛酷な環境を生き抜き、ついに解放される。家族は収容所で命を落とし、たった1人残されての生還だったという。
 
     
それでも人生にイエスと言う V.E. フランクル, Viktor Emil Frankl 春秋社 1993
アウシュヴィッツ絶滅強制収容所から奇跡的に生還した著者が、解放直後の翌年に「それでも人生にイエスと言う」と話したことに私は衝撃を受けた。それが38年の年月を経て翻訳されたことも驚きであった。『夜と霧』の著者として、また実存分析を創始した精神医学者として知られるフランクル。第2次大戦中、ナチス強制収容所を体験をした。その後、人間の実存を見つめ、精神の尊厳を重視した独自の思想を展開した。
 
     
ナチスドイツと聴覚障害者―断種と「安楽死」政策を検証する (単行本)
中西 喜久司 (著)文理閣 (2002/10)
ナチスドイツがヨーロッパを戦禍に巻きこむとともに、600万人のユダヤ人を抹殺したことは、あまねく知られているが、同時に国内の35万人を超える心身障害者に断種手術や「安楽死」を施したことは、一部の識者以外あまり知られていない。本書は本邦はじめて紹介する資料を駆使し、ナチスの蛮行を検証するとともに、反戦・平和・人権と障害者問題について訴え、ネオ・ナチズムの台頭に警鐘を鳴らす。
 
     
第三帝国と安楽死―生きるに値しない生命の抹殺 エルンスト クレー著 松下正明訳 批評社 (1999/07)
病人の治療を使命としなければならない医者が、自らの職務として患者を殺害、それも治療の場としての精神病院でそれらが行われたという悲劇を論じる、ナチスによる安楽死問題の原典。ナチスドイツがヨーロッパを戦禍に巻きこむとともに、600万人のユダヤ人を抹殺したことは、あまねく知られているが、同時に国内の35万人を超える心身障害者に断種手術や「安楽死」を施したことは、一部の識者以外あまり知られていない。本書は本邦はじめて紹介する資料を駆使し、ナチスの蛮行を検証するとともに、反戦・平和・人権と障害者問題について訴え、ネオ・ナチズムの台頭に警鐘を鳴らす。
 
     
死ぬ瞬間」 死にゆく人々との対話
エリザベス・キューブラー・ロス  読売新聞社  1971年
死ぬ前に人間はなにを考えるか
死ぬ直前の心理は、恐怖か、迷いか、悔恨か。
死病にとりつかれた200人の絶望的人々に直接面接した「死に至る」深層心理の衝撃の記録。石、看護婦、宗教家、近親者など必読の書
 
     
「人生は廻る輪のように」  エリザベス・キューブラー・ロス  角川書店 1998年
本書は、キューブラー・ロスという たぐいまれな女性が20世紀を生きた稀有な愛とたたかいの記録である。すなわち、臓器移植、遺伝子治療、肉体の再生をもくるむ死体や脳の冷凍保存など、ひたすら「神への挑戦」に邁進する「人間の傲慢と愚劣の極み」とたたかいつづけた闘士の記録であり、侵略戦争、ナチズム、偏見、差別による犠牲者に身を挺して援助の子をミしのべた国際的ボランティアの記録であり、超一流の精神科医の臨床記録であり、科学技術と物質文明の時代から溝性の時代への移行期に生ミた科学者の観察記録であり、神秘家の修行の記録である。
 
     
戦争と罪責   野田正彰 岩波書店 (1998/08)
著者からの内容紹介
戦争の時代,そして戦後を通じて,日本人は「悲しむ力」を失い続けてきた.自己の行為に直面し,責任を感じる能力を取り戻すには,どうしたらいいのか.『喪の途上にて』で鋭い社会分析を行った精神医学者が,中国で残虐行為を行った旧兵士への徹底した聞き取りを通じて解明する,われわれの心の中の,欠落と抑圧の問題
 
     
ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングが「構造的暴力」を提起してから、平和学の対象領域は広がり、貧困や開発、ジェンダーといった日常生活に関わるテーマも含むようになった。[35]
わが国で平和学講座を開講している大学は国立26大学、私立58大学を数えている。平和記念館また資料館は全国49カ所に所在している。ノーベル平和賞受賞者は74人を数える。平和学はその取り組む課題と方法において、広く認知されてきている。
 
     
     

 

チャペルアワー

チャペルアワー

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チャペルアワー

 

  
238    10月20日

今日の言葉

 

大きな悲しみ  

ロマ書講解 ローマの信徒への手紙 9:1-18    

 


 

「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。
わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、
わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、
キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、
栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。
キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。

 

 

 

 

 

 

日の言葉はロマ書9章前半の「イスラエルの選び」です。
パウロがユダヤ人として生まれ祖国イスラエルで教育を受け
愛国者ユダヤ教徒として、新しく起こったキリスト教を撲滅する運動に
邁進していた頃の自分の考えや生き方を、
あたらしいイエスの考えと生き方に照らして、論じているところです。
ここで、「神に選ばれた民」はユダヤ人に限らず、
神が選んだ全ての人を含んだキリスト教徒を含んで
「イスラエル」と言っている点に注目しましょう。

(わたしが取り組んでいるJSバッハの曲のなかで、「イスラエル」と言う時、
ドイツのライプツィヒの教会員、またドイツのキリスト教徒をさしています。
と言うように、パウロの言葉は受け入れられてきました。

さて、
神に選ばれた民であるが故に、迫害され、殺害されるなど理解しがたい苦難を背負う。
なぜ、選びの民に生まれたのか。ユダヤ人はこういう。
選ばれた栄光には、苦しみも伴っているからです。
苦しみに会うと、人はなぜわたしが苦しむのか?と問う。
□選ぶというのは、私には何の決定権もない。選ぶ神様の方に、絶対的な権威がある。
真の権威が選んだのであれば、
選ばれた人は「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束」を与えられる。
それはすばらしいことで、一方的に神様から与えられる。
ところが、選ばれたものの栄光と同時に、もう一つの面、
選ばれたものの「使命」という責任がついてくる。

□ここにパウロが、2節でいう「深い哀しみ、絶え間ない心の痛み」がある。
ユダヤ教徒のユダヤ人は神に選ばれた民であるのに
「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束」(4節)にあぐらをかいて、
もう一つの面、「神の福音宣教」という「使命」をおろそかにしている。
そればかりか、ユダヤ人は約束の独り子イエス・キリストを
十字架につけて殺してしまった。
パウロ自身、この道を歩いていたユダヤ教のホープ、
若き指導者としてキリスト教を撲滅するリーダーとして
鮮烈なデビューをしていた。
その経験があるから言える。
キリスト教とユダヤ教の非常にややこしい関係を解くのは、
この当事者パウロであり、
キリストに出会って劇的な回心を体験した、パウロこそ、
この問題解明に責任を覚えたことはよくわかります。

□1976年ドイツを訪ねて3泊のお世話になった、
クリスチャン・トレブスト牧師は、わたしに
「あなたの問題は何か?」と問われて、
日本の教会は「戦争責任の告白に立って
在日朝鮮人差別問題と取り組むこと」と言いますと、
ドイツの教会が取り組む課題は、ユダヤ人問題だと言われました。
一例に、名訳といわれるマルチン・ルター訳の「聖書」が
教会で使われています。
あれは駄目なんだそうです。ドイツ人のルターが聖書の言葉を
ドイツ人の心で翻訳したもので、
ドイツ人には好まれても、ユダヤ人からみると
おかしなところがあるというのです。
では、誰のがいいのですか、と聞くと、マルチン・ブーバーの訳がいい。
ブーバーはユダヤ人ですから、聖書と言えば「新約」聖書はなく、
(旧約)聖書ですが、ユダヤ人の心で訳しているから。これがいいというのです。
そして、自分の姉さんがブーバーの家の近所に住んでいてお手伝いに行ったり、
親しくしていたと話していました。
 戦争の過ち、戦争責任といいますが、その作業の中から、
キリスト教とユダヤ教との共同の聖書研究や翻訳の試みが始まっています。
また、キリスト教ではカトリックとプロテスタントの共同訳が日本でもなされて、
対立は薄まり、いい感じになってきました。
キリスト教は世界に広まりました。そのイエスはユダヤ人でした。
ここにキリスト教とユダヤ教がもう一度顔をつきあわせて、
共存していく道を考えていく。そういう努力です。
 パウロは後に、神の計画、摂理ということを言う時、
ユダヤ人が自分の選ばれたことを忘れて、使命をおろそかにしている。
ここに、パウロの哀しみ、心の痛みがあります。
その分をキリスト教が替わりに担って、広めていく。
ユダヤ教を兄とすれば、弟はキリスト教です。
そのキリスト教の働きに、眼を開かれて、もう一度、自分の使命を取り戻す。
こうして、神の宣教は世界の果てにまで広められる。
こういう壮大な計画を、パウロは神の摂理の中に見ています。
 そして、パウロ自身は、ユダヤ教とキリスト教のつなぎ目をなしている。
このような考えを見いだすと、
本当にそのように進んでいるのかなぁと思うと、
国際政治レベルではそうなっていません。

「これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによる」(16節)
そして、最後に、神はエジプトの王ファラオさえ、
ご自分の計画のために選び、
起用する。エジプトの王を立てたのは、神であって、
「あなたによってわたしの力をあらわし、
私の名を全世界に告げ知らせるためである」(17節)
ヨブを苦しめたサタンも神の許しなしには、
ヨブを苦しめることは出来なかったのです。
サタンも神の支配の下にいる。
そういう考えです。
また、イエス・キリストの十字架と復活に表される、
神の贖ないと救いのために、ユダはイエスを裏切る。
そういう悪役が必要です。ユダは裁かれなければなりませんが、
神の壮大な計画のなかで、
ユダも福音宣教の一役を負わされていると
 「神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、
かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」。
エジプトの王ファラオは神がその心をかたくなにしたのです。
イスカリオテのユダにサタンを入れたのは神です。
そのようにかたくなな心にするのも神であり、
そのかたくなな心を救いの御業に用いられるのも神であります。(17節)
それは神の「名を全世界に告げ知らせる」目的に基づいて、なされると言う。

私たちの世界を見ると、ウクライナとイスラエル戦争に見られるアメリカです。
どの武器で、どこを攻撃する。アメリカもイギリスも、
情報を共有し、戦争のコマを動かしているようです。
つまりアメリカが世界を支配する神のような存在になっている。
日本はどっちもどっちと言って、喧嘩両成敗をする行司役を買って
小さなリーダーシップを狙っている。
R国大統領は身を隠し、C国の世界制覇は足元から崩れ、
世界は大規模な世代交代機を迎えています。
新しい科学技術が人類に奉仕するように用いられるならば、
戦後復興は急速に進められるでしょう。
無謀な貧富の格差がもたらしているアフリカからの「不法」移住者は
生まれ故郷に戻り、繁栄する国土を愛する民となる。
何を神の意思として受け止めるか、検証する国際的機関が成果を上げる。
そのような未来が待っているのではないでしょうか。
パウロが思った「新しいイスラエル」をこのように想定してはどうでしょうか。

今日の祈り
恵み深き天の神 暑さ寒さが混在する季節となり、
体調を崩したり、日常でない出来事に遭います
微妙な変化にも対応して、この時期を守られますように。
ウクライナの冬、イスラエルの人質の絶望感を耐える力を
与えてください。
祈りと願い 主イエスキリストのみなによつて祈ります。
アーメ


 
   
 
 

カンタータ2024

      🍅 カンタータ 2024年
    
    http://piqua-1.la.coocan.jp/Cantata.html
  BWV      曲    名 投稿日
                     
19
200 わたしは主の御名を言い表す 20241009
18
194 最高の願いを喜び祝い 20241009 
17 120 神よ、あなたはシオンの静けさの中で  市参事会議員交替式                  20240514
 16 29 われら神に感謝し 20240510
15 036 よろこび高く まいあがれ 202405
14 36a 喜び空に舞いあがれ 20240502
13 36b 喜びがわきあがり 20240503
12 36c 喜び高く舞いあがれ 20240422
11 195正しい人に光さし出で      結婚式カンタータ 20240408
10 84  わたしはわが幸に満ち足りている  20240330
9 007  キリストはヨルダン川に来たり  洗礼者ヨハネ  20240326
8 013  ため息も涙も数えきれない 20240319
7 049 行ってあなたを慕いあえぐ  20240308
6 009 私にきた救いは 20240308
5 186  魂よ怒ることなかれ 20240224
4 199  わが心 血の海を泳ぐ 20240208
3 163  人はそれぞれ分に応じて 20240127
2 114  ああ愛するキリスト者よ雄々しくあれ 20240121
1 089  いかにすべきかエフライムを 20240114
   
   

 

 
ミニチャペルの履歴

ミニチャペルの履歴

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       ミニチャペルの履歴    №  タイトル  日 付  視聴回数

9.PCが古くなってWindos11付中古のHueletpaccardを購入

8.新規ホームページができたので、他の二つを廃棄しようとおもったが、三つのサイトそれぞれに特徴があり、残して相互に活用することにした。
a.新ワードプレスを「minichap.com」(ミニチャップ・コム)として
 チャペルアワーを構成している。

b.ワードプレスお試しβ版を「blog 草の花」として残した。
c.旧FC.com「minichapel」 homopqgebuilderでつくった。        20240300

7.旧β版「ワードプレス」(Cocoon)を入れて再利用、ブログ用に使う。20230725

6.ホームページを新規「ワードプレス」(Twentyseventeen)に取り組み

20220805~20230605完成

5.福岡市南区大橋に転居、翌2019年1月より「わたしたちのミニチャペル」として再生。 スケッチ、カンタータ集、ホームページ更新 横巾750pxに拡大 -27.665

 20220602 

4.スマートフォン対応を考慮してリニューアル       27.665   27.665   

   20220204              

3.新規ドメイン minichapel.jp  1Gから10GにUP 容量を拡大 -20.161

  20211008 

2.アクセス  更新11.000アクセス。ーーーーーーーーーーーーーーー20200420
    大学に勤務した時代、アクセス回数 5554 回で休眠した。—–20200624      

1.春日東教会時代「ミニチャペルパルーシア」開設1980年代9.000回-   20200104

   
おはようバッハ 1-2

おはようバッハ 1-2

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おはようバッハ 1-2 おはようバッハ 1-2「わたしは今や80歳」 

旧約聖書のダビデの物語に、先代のサウル王の後継争いに巻き込まれたダビデが、

国境周辺を逃げ回っていたことがあります。

追跡する者がいれば、タビデを親身になって助けてくれた人もいました。
 やがて追求していたアブサロムが死に、ダビデはエルサレムに戻って王の地位を確立し、新時代を迎えた。 その時に、お世話になったバルジライに、エルサレムで一緒に暮らそう。こう言います。ところが、彼は「わたしは今や80歳、父と母の墓のあるこの的で死にたいのです。息子を連れて行ってください。」と丁寧に断った。この箇所をひいて、この曲を作りました。ここにもう一つのバッハとミユルハウゼン教会の事情がありました。  この曲は、バッハは1757月5月28日ミユルハウゼン市の聖ブラジス教会への正式な任命を受けた。 ところがその3日後にミユルハウゼン市の大火があり、400軒が火災に遭い、三つある教会の二つが炎上した。市長舎のモルタル塗りの屋根から出火したものだった。
 結婚したばかりのバッハは荷馬車を借りて引っ越してきました。 この混乱の中で、市の参事会議員たちは市の復興に尽くしたのでしょう。ミユルハウゼンは神聖ローマ帝国の直轄市で、6人の市長と高齢者と若者の46人が選ばれて一年任期で交代する。その交替式がバッハの初仕事になった。 大災害からの復興は至難の業でした。それに、若いバッハにとって、参事会議員の支持を受けることは、どこに行っても不可欠なことだったという事情も見えてきます。 本曲は、大きな感動が共有された。 その証に参事会は本曲の楽譜を200冊印刷して、関係者に配布され、現存する一曲です。
https://youtu.be/cADC61Oj_-o?si=DdQCRaEQkcAnSLKF
おはようバツハ-1

 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バッハの歌詞について 小島芙美子 東京藝術大学論文

バッハの歌詞について 小島芙美子 東京藝術大学論文

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バッハの歌詞作者 論文より  

 

バッハの歌詞作者 

                                 

小島芙美子 東京藝術大学 古楽研究科(バロック声楽)博士論文     J.S.バッハの
カンタータBWV51とBWV199における   技工的・劇的表現を巡って ー当時の女
性ソプラノ歌手の活躍の観点からー抜粋

ーーーーーーーーーーーー

ソロ・カンタータ ソプラノ. ソロ5曲 BWV199,52,82,84,51
199は、ワイマール、ケーテン,ライプツィヒで計4回再演された。
BWV82は1727年来6回の再演が行われている。

ソロ・カンタータ・アルト 5曲 BWV35 54 82 169 170

ソロ・カンタータ・テノール 1曲のみ BWV55

ソロ・カンタータ・バス BWV56 82

ワイマール時代(1708-1717) 毎週のカンタータ作成は, 福音書と使徒書簡の聖句
に添った台本を手元に準備することから始めた。
歌詞作者が確認できるのは

BWV199 Gottesfaliges Kirchen-opffer  (1717)

BWV84の歌詞はピカンダー Christian Friedrich HenriciPicander (1700-1764)

「1年分の日曜・祝日のためのカンタータ集」上記BWV199,52,84,51は、

16世紀、17世紀に作られたコラール歌詞が含まれている。 (1728)

レームスの詩 10曲 BWV13,16,32,35,54,110,151,170,199,57 。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※約200曲のカンタータを理解しようとする時、各日曜日に割り当てられた聖

句が表している、クリスマスの喜び、イエスの十字架によって想起される人の罪

と苦悩、復活の喜びと新生の希望など教会暦による区分が基本になっている。

 さらに、トマス教会での27年間礼拝説教の前・後に割り当てられた20~30分の

時間内で、歌詞の繰り返し、またフーガや、ダ・カーポによる時間の調整法はバ

ッハの音楽上の発展、作曲上の転機となったと言える。

わたしのささやかなカンタータ和訳による再現は、ただ日本語に転記するのでは

なく、教会暦に区分された聖書のことばの再現であり、バッハのカンタータで

は、歌詞作者とのコラボ、事情によってはトマスコアの合唱がなく、

ソプラノ、アルト、テノール、バスが合唱に変わるソロを歌っている.

というように、

ブログではできる限り区分して表現しようと思っています。

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229 8月18日 時が満ちて エフェソの信徒への手紙1:7-14

 一年で最も暑い日々になりました。
じっとしているだけなのに、我慢の限度を感じています。
みなさん、くれぐれもお大事にしてください。
 さて、今日はエフェソの信徒への手紙から、
パウロが書いた言葉です。

「わたしたちはこの みこころにおいて、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神のみこころに よるものです。
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、かしらであるキリストのもとに一つにまとめられます。」     エフェソの信徒への手紙‬ ‭1‬:‭7-14

‭‭

肉体を拘束され、牢獄の生活を強いられることになったパウロが、
そのとらわれの中でどのような事を考えていたか、
その事を知るのは驚異です。
というのは、パウロはローマで囚われ、獄中にいます。
肉体のとらわれの中で、精神のまったき自由を示しています。
それだけでなく、彼の信仰の完全なる花を開かせている。
それは見事な作品といえます。

 

パウロの生き様の見事さは、その矛盾に満ちた所にあると言えないでしょうか。
彼の矛盾の中に人間の真実が見られます。  
その矛盾とは、彼が言っているように、獄に捕らわれ、
拘束されているという、不名誉な、不自由の中にいて、
刑罰は肉体を苦しめて、精神も苦しめ、殺せると考えています。
ところがパウロは自分は自由を得ている。自由だというところです。
奪われているのに、多くのものを得ている。
精神の解放を覚えている.
なんと不思議なことが起こっているのでしょう。

わたしたちは自由を夢見ます。楽しみ、喜びを歓迎します。 
しかし精神的にはどうでしょうか。
物質的、肉体のゆたかさが必ずしも人を自由にしているとは思われない.
得ることをのみ求める、その人は失うことを心配する。
奪われることから身を守ろうとします。
しかし、パウロは奪われることの中に、与えられてきたものを見いだしています。
失ったものに愛情を覚えて、感謝しています。 
全てをなくしたとき、見えなかったものが見え始める経験もしています。
私たちもこのような経験に注目したい。
ここに獄中書簡を学ぶ意味があります。

神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる、と言う。
パウロが捕らわれた牢獄は、行動が制限されるくらいのゆるいものだったようです。
吉田松陰は捕らわれて山口県萩市で、牢に繋がれたと言われています。
そこに、しょういんを師と仰ぎ、教えを受けにきた人たちに、
さこくをやめて、若者を海外に送り出そうという「しょうかそん塾」をはじめ、
小さな一軒家から、世界を見渡す力を若者に与えていました。
人の出入りは自由だったようです。

パウロの囚われは、行動は制限されても、出入り自由でした。
このエフェソの信徒に当てた手紙はこうして書かれたものでした。
 
隠れていたものがあらわれ、あらわれていたものが隠れる。
「奥義」に触れるとき、隠れていたもの、見えなかったものが見える。
何が見えるか。見えたものによって、
それが真実であるかどうかが判明します。

 水野げんぞうさんの詩に、次のような言葉があります。
「自分の力では動けない、生きられないと 気づいた瞬間に」
という詩です。
「自分の力では動けない生きられないと 気づいた瞬間に 
わたしをしっかりささえていてくださった 
キリストの愛の み腕がはっきり見えてきた」。

水野さんが小学生の時、当時地域で流行った疫病になり、高熱が続き
熱が引いた時にはもの言うことも、身の回りのこともできなく、
母の世話なしには生きられない状態になった。
母が50おんのひょうを、指差して、瞬きによつて言葉を拾い、思いを表すようになった。
そのようにして書かれた詩です。

水野さんは、閉ざされた世界の中で、牧師の訪問を受け、
心の目が開かれて、これまで見えなかったものを見ると言う。
そういう感動と交流に満ちています。
聖書に出てくる「時が満ちる」とはある意味では、
「自分の力では動けない、生きられないと、気づいた瞬間」と
言えないでしょうか。

ある人は、「隠れた所」で神に出会うという秘義について
次のように言っています。
私たちは誰でも秘密をもっている。人に知られたくないところ。
言いたくない経験。二度と繰り返したくないような失敗。
そういう秘密をもっているものだ。私たちが神さまと出会うという時、
それは隠れた所に触れて、これを癒してくださる。
そのように出会ってくださる。(森有正)

イエス・キリストが神と共にいた場所。
そこは、ベツレヘムの馬小屋の 餌箱の中でした。
人里離れた山のなかで祈りました。
この世から見えないところで、病に苦しむ人を癒された時、
そこは神との出会いの場でありました。
 
神殿をさして、「強盗の巣」にしている、「白く塗られた墓だ という時、
そこに神はいない、と、イエスは批判された。
 それで教会の建物に神はいない、教会の外で出会うと言って、
教会を捨てた人がいます。
しかし、その神殿でイエスは教えられたのではないでしょうか。
ユダヤ教の会堂を借りて、福音は語られたのです。

隠れたものがあらわれるとき、あらわれていたものが隠れる。
神殿はイスラエルが神と出会う時、隠れていた神が顕れられた.
神と人との新しい出会いが始まった。
しかし、あらわれた神は、自分をかくすことによって、そのおくぎを保つ。
そして、私たちの隠れたところで、神は触れ、魂を解き放つ。
このような秘義またはおくぎに触れるのですが、
パウロはローマの牢獄のとらわれの中から、書き記し、伝えています。
パウロのおくぎに触れながら、神が私たちの隠れた所で出会ってくださる。
そういう経験を省み、またこの経験によって新たにされたいと願います。

今日の祈り
恵み深き天の神 7日の日々を守られて、ささやかな礼拝を捧げる。
このような感謝をありがたく思います。ウクライナとイスラエルが戦場になって、
世界が遠い昔に戻ったような、人をころす武器によって、一体何を守り、
どんな念願を果たそうとしているのでしょうか。
死ねばこの世で得たものは全てなくなるのに、
あまりにも多くの犠牲がこころを痛めます。
どうか、悲しみ、苦しむ人に、安らぎの時が来ますように。
願いと祈り しゅイエスキリストのみなによって ささげます。 アーメン

 

 

 

コラールの歌詞の起源  A.シュヴァイツアー

コラールの歌詞の起源  A.シュヴァイツアー

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コラールの歌詞の起源  A.シュヴァイツアー「コラール歌詞の起源」は、BachCantata Website(バッハ カンタータ ウェブサイト)」に掲載されたA.シュヴァイツアーの論文(1908)です。キリスト教の初期からバッハの時代まで、讃美歌の歌詞の歴史を記したものです。ドイツ語で書かれたものをGoogle翻訳を利用して、私の理解のために要約したものです。目次
1. 宗教改革以前の讃美歌
2. 最も古いイースターの讃美歌は12世紀までさかのぼる
3.14世紀と15世紀にそのような広まりを見せた神秘劇も、ドイツの讃美歌の受容を助けた。
4. 16世紀の改革は教会の扉をドイツの詩に開放した。
5. 最初のドイツの讃美歌集 宗教改革以降
6. ルターによる讃美歌
7. 前の時代からの遺産を継承発展する時期から創作へ
1.宗教改革以前の讃美歌
初期のキリスト教会では、イエスが弟子たちと賛美の歌を歌っていた。(ユダヤ教の)
初期のカトリック教会では会衆が礼拝中に歌に直接参加するのが習慣でした。その時、頌栄、アーメン、キリエ、そして讃美歌を歌っていました。6世紀の終わりと7世紀の初めにはアンブロシウスによって会衆が参加するようになっていた。
しかし、グレゴリウスの改革によって、讃美歌は会衆を代表して司祭が歌うようになりました。 (僧侶がお経を読むように)
ところが、ドイツでは、この改革は完全には実行されませんでした。彼らがキリエとアレルヤを歌う時、ドイツ語の詩を入れる習慣になりました。ドイツの讃美歌は礼拝奉仕の役割を獲得しました。こうして教会で歌われるすべての讃美歌の終わりのオブリガートを形成しました。これらの曲は「キリエの曲(Kirleisen)」と呼ばれていました。2.最も古いイースター讃美歌は12世紀までさかのぼります。「キリストは死からよみがえられた ハレルヤ
慰められるキリストを われらはみな喜びまつる キリエライス」3.14世紀と15世紀にそのような広まりを見せた神秘劇も、ドイツの讃美歌の受容を助けた。ラテン語とドイツ語が混在するクリスマスのゆりかごの歌には、非常に珍しい魅力があります。それらの詩は、想像できる最も原始的な種類のものです。言葉は、音や揺れるリズムよりも感覚的にまとめられています。それでも、彼らを取り巻く明るいクリスマスの魅力は、消えてしまった世代と同じように私たちに影響を与えます。バッハのオルガンコラールには、これらの古いクリスマスソングが2つあります。dulci jubiloでは、
Nun singet und seidfroh。
Unsers Herzens Wonne
Liegt in praesepio、
Und leuchtet als die Sonne
Matris ingremio。
Alpha et O、Alpha et O.(V、Nr。35。)Puer natus in Bethlehem、 In Bethlehem、 Unde gaudet Jerusalem、 Jerusalem。 ハレルヤ、ハレルヤ。 Ein Kind geborn zu Bethlehem、 Zu Bethlehem、 Des freuetsichエルサレム。 ハレルヤ、ハレルヤ。 Cognovit bos et asinus、 Asinus、 Quod Puer erat Dominus、 Dominus。 ハレウジャ、ハレルヤ。 Das Ochslein und das Eselein、 Eselein、 Erkannten Gott den Herren sein、ハレルヤ、ハレルヤ。 (V46)
やがて、ラテン語の讃美歌はドイツ語に翻訳され神聖な詩として受け入れられた。クレドー信仰告白箇条、十戒、十字架上の七つの言葉、また様々な詩篇も讃美歌の歌詞に組み込まれました。4.16世紀の改革は教会の扉をドイツの詩に開放した。
14世紀と15世紀のラテン語の讃美歌、詩篇、典礼の聖歌、聖書の断片は新しい教会のために修正し、変更し、改善し、新しい讃美歌に作り直された。5.最初のドイツの讃美歌集 宗教改革以降
1524年に
新しい讃美歌(Erfurt Enchiridion)が出版された。その26曲の中には、詩篇の8つのドイツ語訳がある。これには、詩篇130「深い淵からあなたを呼ぶ」(BWV131)など一連の讃美歌、2つのイースター讃美歌が含まれています。「キリストは死の縄目につかれた」(BWV4)と「死に勝利した我らの救い主イエスキリスト」、10戒の古い讃美歌、Paul Speratusによる3つの讃美歌、有名な「救いはわれらに来たり)」など。A 中世の聖歌
(1)イースターの讃美歌 「キリストはよみがえられた」
キリストは死の縄目につき(カンタータBWV 4)
ラテン語の讃美歌、詩篇、典礼の聖歌、聖書の断片。
(2)クリスマス
dulci jubilo(No.35)、ベツレヘムのプエルナトゥス(V、No.46)。
(3)「中世の曲-言い換え」
(十字架上の7つの言葉 V9)
ダイがGebot zehnダイheilgenをシンド(V、12号。、VI、番号19および20)。
ファーターアンサーIM Himmelreich(V、番号47及び48; VII、番号52および53) 。
WIR glauben全てeinenゴット(VII、番号60、61及び62)。
(4)讃美歌は、ラテン語から翻訳。
「われらキリストを褒めたたえ」、「キリストはよみがえられた」、「われら主なる神をほめ」、「来ませ 聖霊よ」、「今こそ来ませ異邦人の救い主」6.ルターによる讃美歌。
(1)翻訳。
イエス・キリストわれらの救い主なる神 情熱の讃美歌。VI30~33
クリスマスの讃美歌
「イエスキリストあなたを賛美」
(2)聖書を歌詞とした
「深い淵から私はあなたを呼ぶ」詩編130:(BWV 38)
「神はわがやぐら」詩篇46. (BWV 80)
「私は安らかに喜びを持ってかしこに行こう」シメオンの歌・ルカ2:29)
(3)オリジナル讃美歌
「われらの主キリストヨルダンから」(カンタータBWV 7 )
「天の高みから」「天から御使来る」7.前の時代からの遺産を継承発展する時期から
讃美歌を創造的に作るようになった。 16世紀末から
ドイツの詩全体が宗教的な道へと向かった。というのは
ドイツは30年戦争で、国が荒廃し、破滅の危機に瀕した。生き残ったほのは宗教であり、そのだった。詩はその懐に避難した。ドイツには、その切実な必要性から、世界で比較すものがないほどの宗教的な詩を生み出した、「詩篇の素晴らしささえ青ざめるほどです。」とシュヴァイツツアーは言っている。この時代の讃美歌は時代を写す鏡といえる。
1613年、疫病で荒廃したとき、ドイツの東部でV.ヘルベルガーは、「ヴァレットウィルイッヒディルゲベン、デュアルジファルシェウェルト」(VII50,51)を歌います。
M.リンカート(1586-1649)「今こそ、みな神に感謝しよう (nun danket alle Gott)」(VII43)は、1648年に平和の結論を鳴らしている間に作曲されました。ヨハン・リスト(1607-1667)は、658曲を作曲しました。他に讃美歌集で生き残った
パウル・フレミング(1609-1640)、
ヨハン・ヘルマン(1585-1647)、
およびシモン・ダッハ(1605-1659)がいます。また、これらの讃美歌作家の中には、フィリップ・ニコライ(1556-1698)とヨハン・フランク(1618-1677)の2人の神秘家がいた。
バッハは、ニコライの「明けの明星のいかに美しいかな」の歌詞でカンタータ(BWV 1)を書き、もう1つは彼の「起きよと呼ぶ声」の歌詞でBWV 140を書いた。
また、フランクの「イエス、わが喜び」の歌詞でモテットと2つのオルガンコラール(V31,V29)を作曲した。同じ詩人の「おお愛する魂よ自分を飾れ」(BWV180)を、またコラール幻想曲(VII49)をつくった。
しかし、感情の主観性と教訓的な視点が宗教詩に侵入し、それだけで教会の礼拝のための真の会衆の歌を作り出してきた素朴で単純な客観性を奪います。感情と言葉遣いが微細になって衰退期が始まっているとき、パウル・ゲルハルト(1607-1676)があらわれた。8.ゲルハルトからバッハへ
ゲルハルトは、この衰退を確認するかのように現れた。彼はルター派正統派の信者であり、驚くべき速さで真の改革をもたらした。
バッハはこのゲルハルトを崇拝者し、彼のカンタータの詩を繰り返し採用している。マタイ受難曲(BWV 244)では12曲のコラールの中で、「血潮滴る主のみかしら」の曲を5曲(15,17,44,52,62)で使用していることからわかります。
敬虔主義は確かにいくつかの精神的な詩を生み出しました。しかし、バッハにとって、それほど重要ではありません。バッハは、讃美歌の本の中から過去の豊富な歌詞を用いた。
彼が自由に使えた資料は、小さなエアフルト1524年の讃美歌集から26曲用いた。バブストの讃美歌集は初版では101曲、ベルリンでほぼ1世紀にわたって使用されていたクリューガー本は、初版(1640)では250曲、第44版(1736)では1300曲、リューネブルク(1686)に2000曲と増加している。ライプツィヒで保存されている目録から、ライプツイヒ讃美歌集の8巻がバッハの所有物であったことがわかります。しかし、18世紀の後半には、もうバッハのカンタータと、その熱気は存在しませんでした。歌詞を持ったさんびかは「讃美歌」とした。

マタイ受難曲 x

マタイ受難曲 x

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マタイ受難曲     BWV244 マタイ受難曲 全68曲                                                                        
    第一部  1-30
01.合唱  1
02.イエスを殺す計画 2-4b
03.ベタニヤで香油を注がれる 4c-8
04.最期の晩餐 9-13
05.オリブ山にて 14-17
06.ゲッセマネの祈り 18-25
07.捕縛 26-29
08.アリア 合唱 30
  第二部 31-68
 
09.大祭司の審問 31-37
10. ペトロの否認 38-40
11. ユダの最期 41-43a
12. 訊問 43b-50d
13. 判決 50e-54
14. 十字架 55-60
パロディ

パロディ

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パロディ

バッハは一度作った曲を再利用して別の曲を作っていた。

それはパロディと呼ばれている。

多い時は本BWV36「喜び高く舞いあがれ」のように1曲から計3曲も作った。

  この4曲は「パロディ」と記されている。

wikipediaによると「パロディ」は、他者の作品を模倣,作り替え、盗作,盗用、許可なき引用など、 著作権侵害という悪い意味で使われることが多い。

 バッハは自分の曲を盗作などしないけど,と思った。
そこで、パロディと扱われているBWV 36の4曲の一群を検証しようと思った。

BWV 36の原曲は失われて!ない。

が、a.b.c.で区別されている再利用した3曲を下記のように表にすると

次のようにほぼ原曲が見えてくる。

ーーーーーーーー

[ 36 喜び 高く舞いあがれ 全8曲 ] 不明

36a 喜び空に舞いあがれ   全9曲 結婚祝

36b 喜びがわきあがり    全8曲 就任祝

36c 喜び高く舞いあがれ 全9曲 誕生祝

ーーーーーーーーーー             ーーーーーーーーーー

問題はBWV 36の原曲が「ない」と言うこと。  晩年のバツハは眼の病気で二度手術をしたが、かえって死をはやめ、亡くなると、仕事場を次期カントールに明け渡さなければならず、楽譜,書籍一切が運び去られた。  ある人が肉屋の包み紙に使われていた楽譜を発見し、まとめて買い取った。(小説バッハ、フランク,佐藤牧夫訳,1971、音楽の友社)。

と言うように,散逸した楽譜は長年かかって集められたが、多くが失われた。

1723年にトマス教会カントルに就任したバッハは、最初に、3年間1サイクルとする教会暦により、彼のカンタータ形式(6~8曲、15~20分の持ち時間を説教の前と後に分ける形式)を確立し、3年分を作り,その後の基礎にした。

バッハは年間60曲のカンタータを作曲し,演奏した。すると、在職27年x60曲=1200曲となる。が、現存する220曲はあまりにも少なすぎる。

BWV 36 喜び高く舞い上がれは不明であるが、彼が再利用した曲をよく見比べると原曲の大半はわかる。

パロディとして作られたBWV a.b.c.三曲の共通項を3点ほど上げよう。
1.歌詞を抜いた各曲の楽譜は、ほぼ同一である。

2.構成:アリア 第3曲アリア、第5曲アリア、第7曲アリア

3. 朗唱:第2,4,6。朗唱は、結婚,就任、記念など目的が異なるので、いくつかのパターンで歌われる。

このように元曲を再利用して作られたことが認められる。

次に、失われたBWV 36を再建してみよう。


原曲

 0.BWV36  喜び高く舞い上がれ  (Schwingt freudig euch empor)

本曲BWV36は、原曲の所在は不明となっている。

構成 ————————-

共通の楽器: オーボエまたは,フルート、 1,2バイオリン ビオラ 通奏低音(ビオロンチェロまたはオルガン)
ボーカル:ソプラノ、アルト,テノール,バス

譜面: 共通楽譜 ————-
1、BWVa,b,c,の三曲は歌詞抜きの楽譜はほぼ同じ。

2.曲の構成 第1曲合唱、第2曲朗唱、第3曲アリア、第4曲朗唱、第5曲アリアと合唱、第6曲朗唱、第7曲合唱・コラール、第8曲合唱。は第9曲がある。

第1曲と第8曲は103小節の大きな大きな合唱である。
ここでにBWVa,b,c,の骨格がある。

2、第2曲、4、6曲の朗唱は、10小節、約1分の短いソロで、聖書のことば、誕生、結婚、就任などの内容をうたう。ギリシァ古典演劇に見られる口上や進行なとの伝統の形を継承している。

3、第3曲アリアは200小節、5~6分、「愛は優しく歩み寄り」など、
短い歌詞をフーガで繰り返し,それをさらにダ・カーポで繰り返し2倍にする。他に、第3曲、5曲、7曲、9曲。高音やメリスマなどソリストの技量が求められる。

4、第4曲朗唱、原曲BWV 36のように通常礼拝のカンタータは朗唱は教会暦に定められた聖句の中から歌詞を作る。1分未満、10数節。
————————————–

(以下、BWW36a,b,c,そして原曲の順)

  1.BWV36a   喜び高く空を舞う  (Steigt freudig in die Luft)
1726年11月30日
アンハルト・ケーテン候レオポルトの2番目の妻、候女シャーロット・フリーデリケ・アマリアの24歳の誕生祝。歌詞は、ピカンダーの1727年刊の著書「Ernst-Schertzhaffte und Satysche Gedichte,Teil1」の中の「Steigt freudig in die Luft.」
アンハルト・ケーテン 侯爵、侯女
 2.BWV36b   喜びが湧き上がり  (Die Freude reget sich)
1735年ライプツィヒ大学学長に就任したヨハン・フロレンス・リヴインス(Rivins)の就任祝

1723年に着任し、毎週のカンタータ作成と結婚式や葬儀のための作曲演奏と多忙であった。この仕事の上で、よき理解者と助けは命綱のように大事だったと思われる。このBWV 36の三曲のうちの2曲はそのような人脈の深さを感じることができる。Philuris (フィラリス)-Lyre lover (竪琴
愛好家)?Law lover

BWV36c  喜び高く舞い上がれ

1735年10月
すでに1730年にトーマ学校70代校長に就任していたヨハン・マティウス・ゲスナーの40歳の誕生祝
 3.BWV36  喜び高く舞い上がれ  (Schwingt freudig euch empor)

BWV36 喜び高く舞い上がれ

036_01-300x169.jpg 1736ライプツィヒ
待降節1
ローマ13:11-14
————————-
1725年の原曲を元に
歌詞台本;ピカンダー
1.3.5.7,パロディ)

1725年の待降節に「喜び高く舞い上がれ」はイエスの誕生を待ち望む人たちの舞い上がる喜びを表した曲である。この日,教会暦に指定されたイエスのエルサレム入城は受難節の記事であるが、ホサナの歓喜の声に迎えられるイエスは(マタイ21:1-9)、誕生を準備して待つ待降節第1日曜日の礼拝に用いられた。

これに、今こそきませ,異邦人の救い主(1524年ルター)よりコラール「いざ来ませ異邦人の救い主を」更に、「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」(ローマ :  )の聖句を朗唱。

「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。」(マタイ21:1-9)のイエスのエルサレム入城を待降節のイエス誕生のテーマに重ねている。

聖トマス教会

バッハの楽譜
トマス教会カントルになる前と後では、楽譜の書き方が違うのではないかと思うようになってきた。
ワイマールやケーテン時代に書いた祝祭曲やカンタータは、トマス教会音楽監督に落ち着いて、礼拝説教前後の合計15~25分の持ち時間で、1・合唱,2,朗唱,3,アリア、4,朗唱,5,アリア,5,コラールという定式では楽譜は新しい形式になっていった。それは、聖書解釈さえわかれば計画的にでき,扱いやすい。
しかし、教会外で演奏する式典,葬儀,追悼、就任式、マリアの祝日、ヨハネの洗礼、聖ミカエルの祝日、宗教改革記念日などは、短すぎたり、長すぎたりまちまちで,その半分は「世俗音楽」と言われている。また、トロンボーンの元祖トロンバや羊の角発祥のホルンの元祖コルノ・ダカッツチャなどが入り賑やかになる。しかし、通常の礼拝では、素朴なアンサンブルが組まれた。
「小説バッハ」によると,小さい頃父バッハの音楽を世俗音楽かどうかと議論する人たちがいて,家に帰って父に言うと、父は怒って、「世俗」とか「聖なる」って、今後言ってはならない、と強く言われた。それではなんと言えば、良いのですかと聞くと、「命の音楽(viva musicaだったか?)」というエピソードを書いていた。(「小説バッハ」フランク,佐藤牧夫訳 、音楽の友社,1971)本曲BWV36c ピカンダーの誕生祝いのカンタータは、は何度も書き直しただろう、 全120小節、約4分くらいの曲だが、4/4小節の流れの中に、「2/2拍子、テンポ110の小節に変則的に一つまた二つと挿入」されて、musescoreという楽譜作成ソフトは問題なく受け入れるが、次の日本語歌詞を歌わせる。段階で使うCeViO(チェビオ)は、4拍の中に2拍という変則的な挿入を拒否する。この原因がわかるのに二日かかり,その対策に1日かかった。3回諦めて、別の曲に変えようと決心して、夜中に、別の種類の楽譜で試してみてはと言う閃きがあり,Mxlミュージックファイルでやってみたり,またべつのcap.ファイルを試したがダメだった。最後に癖が強いMidiファイルに歌詞群をコピーして良かったので,ochestra群を分けてコピーしたら,うまくいったかもしれない。と言うのが昨夜の段階で,今朝どうだったか確かめることにしている。聴いてみると前よりスッキリしていい音になっているので、成功であって欲しいと言うところです。