コラールの歌詞の起源  A.シュヴァイツアー

コラールの歌詞の起源  A.シュヴァイツアー

 

コラールの歌詞の起源  A.シュヴァイツアー

「コラール歌詞の起源」は、BachCantata Website(バッハ カンタータ ウェブサイト)」に掲載されたA.シュヴァイツアーの論文(1908)です。キリスト教の初期からバッハの時代まで、讃美歌の歌詞の歴史を記したものです。ドイツ語で書かれたものをGoogle翻訳を利用して、私の理解のために要約したものです。

目次
1. 宗教改革以前の讃美歌
2. 最も古いイースターの讃美歌は12世紀までさかのぼる
3.14世紀と15世紀にそのような広まりを見せた神秘劇も、ドイツの讃美歌の受容を助けた。
4. 16世紀の改革は教会の扉をドイツの詩に開放した。
5. 最初のドイツの讃美歌集 宗教改革以降
6. ルターによる讃美歌
7. 前の時代からの遺産を継承発展する時期から創作へ
1.宗教改革以前の讃美歌
初期のキリスト教会では、イエスが弟子たちと賛美の歌を歌っていた。(ユダヤ教の)
初期のカトリック教会では会衆が礼拝中に歌に直接参加するのが習慣でした。その時、頌栄、アーメン、キリエ、そして讃美歌を歌っていました。6世紀の終わりと7世紀の初めにはアンブロシウスによって会衆が参加するようになっていた。
しかし、グレゴリウスの改革によって、讃美歌は会衆を代表して司祭が歌うようになりました。 (僧侶がお経を読むように)
ところが、ドイツでは、この改革は完全には実行されませんでした。彼らがキリエとアレルヤを歌う時、ドイツ語の詩を入れる習慣になりました。ドイツの讃美歌は礼拝奉仕の役割を獲得しました。こうして教会で歌われるすべての讃美歌の終わりのオブリガートを形成しました。これらの曲は「キリエの曲(Kirleisen)」と呼ばれていました。2.最も古いイースター讃美歌は12世紀までさかのぼります。「キリストは死からよみがえられた ハレルヤ
慰められるキリストを われらはみな喜びまつる キリエライス」3.14世紀と15世紀にそのような広まりを見せた神秘劇も、ドイツの讃美歌の受容を助けた。ラテン語とドイツ語が混在するクリスマスのゆりかごの歌には、非常に珍しい魅力があります。それらの詩は、想像できる最も原始的な種類のものです。言葉は、音や揺れるリズムよりも感覚的にまとめられています。それでも、彼らを取り巻く明るいクリスマスの魅力は、消えてしまった世代と同じように私たちに影響を与えます。バッハのオルガンコラールには、これらの古いクリスマスソングが2つあります。dulci jubiloでは、
Nun singet und seidfroh。
Unsers Herzens Wonne
Liegt in praesepio、
Und leuchtet als die Sonne
Matris ingremio。
Alpha et O、Alpha et O.(V、Nr。35。)Puer natus in Bethlehem、 In Bethlehem、 Unde gaudet Jerusalem、 Jerusalem。 ハレルヤ、ハレルヤ。 Ein Kind geborn zu Bethlehem、 Zu Bethlehem、 Des freuetsichエルサレム。 ハレルヤ、ハレルヤ。 Cognovit bos et asinus、 Asinus、 Quod Puer erat Dominus、 Dominus。 ハレウジャ、ハレルヤ。 Das Ochslein und das Eselein、 Eselein、 Erkannten Gott den Herren sein、ハレルヤ、ハレルヤ。 (V46)
やがて、ラテン語の讃美歌はドイツ語に翻訳され神聖な詩として受け入れられた。クレドー信仰告白箇条、十戒、十字架上の七つの言葉、また様々な詩篇も讃美歌の歌詞に組み込まれました。4.16世紀の改革は教会の扉をドイツの詩に開放した。
14世紀と15世紀のラテン語の讃美歌、詩篇、典礼の聖歌、聖書の断片は新しい教会のために修正し、変更し、改善し、新しい讃美歌に作り直された。5.最初のドイツの讃美歌集 宗教改革以降
1524年に
新しい讃美歌(Erfurt Enchiridion)が出版された。その26曲の中には、詩篇の8つのドイツ語訳がある。これには、詩篇130「深い淵からあなたを呼ぶ」(BWV131)など一連の讃美歌、2つのイースター讃美歌が含まれています。「キリストは死の縄目につかれた」(BWV4)と「死に勝利した我らの救い主イエスキリスト」、10戒の古い讃美歌、Paul Speratusによる3つの讃美歌、有名な「救いはわれらに来たり)」など。A 中世の聖歌
(1)イースターの讃美歌 「キリストはよみがえられた」
キリストは死の縄目につき(カンタータBWV 4)
ラテン語の讃美歌、詩篇、典礼の聖歌、聖書の断片。
(2)クリスマス
dulci jubilo(No.35)、ベツレヘムのプエルナトゥス(V、No.46)。
(3)「中世の曲-言い換え」
(十字架上の7つの言葉 V9)
ダイがGebot zehnダイheilgenをシンド(V、12号。、VI、番号19および20)。
ファーターアンサーIM Himmelreich(V、番号47及び48; VII、番号52および53) 。
WIR glauben全てeinenゴット(VII、番号60、61及び62)。
(4)讃美歌は、ラテン語から翻訳。
「われらキリストを褒めたたえ」、「キリストはよみがえられた」、「われら主なる神をほめ」、「来ませ 聖霊よ」、「今こそ来ませ異邦人の救い主」6.ルターによる讃美歌。
(1)翻訳。
イエス・キリストわれらの救い主なる神 情熱の讃美歌。VI30~33
クリスマスの讃美歌
「イエスキリストあなたを賛美」
(2)聖書を歌詞とした
「深い淵から私はあなたを呼ぶ」詩編130:(BWV 38)
「神はわがやぐら」詩篇46. (BWV 80)
「私は安らかに喜びを持ってかしこに行こう」シメオンの歌・ルカ2:29)
(3)オリジナル讃美歌
「われらの主キリストヨルダンから」(カンタータBWV 7 )
「天の高みから」「天から御使来る」7.前の時代からの遺産を継承発展する時期から
讃美歌を創造的に作るようになった。 16世紀末から
ドイツの詩全体が宗教的な道へと向かった。というのは
ドイツは30年戦争で、国が荒廃し、破滅の危機に瀕した。生き残ったほのは宗教であり、そのだった。詩はその懐に避難した。ドイツには、その切実な必要性から、世界で比較すものがないほどの宗教的な詩を生み出した、「詩篇の素晴らしささえ青ざめるほどです。」とシュヴァイツツアーは言っている。この時代の讃美歌は時代を写す鏡といえる。
1613年、疫病で荒廃したとき、ドイツの東部でV.ヘルベルガーは、「ヴァレットウィルイッヒディルゲベン、デュアルジファルシェウェルト」(VII50,51)を歌います。
M.リンカート(1586-1649)「今こそ、みな神に感謝しよう (nun danket alle Gott)」(VII43)は、1648年に平和の結論を鳴らしている間に作曲されました。ヨハン・リスト(1607-1667)は、658曲を作曲しました。他に讃美歌集で生き残った
パウル・フレミング(1609-1640)、
ヨハン・ヘルマン(1585-1647)、
およびシモン・ダッハ(1605-1659)がいます。また、これらの讃美歌作家の中には、フィリップ・ニコライ(1556-1698)とヨハン・フランク(1618-1677)の2人の神秘家がいた。
バッハは、ニコライの「明けの明星のいかに美しいかな」の歌詞でカンタータ(BWV 1)を書き、もう1つは彼の「起きよと呼ぶ声」の歌詞でBWV 140を書いた。
また、フランクの「イエス、わが喜び」の歌詞でモテットと2つのオルガンコラール(V31,V29)を作曲した。同じ詩人の「おお愛する魂よ自分を飾れ」(BWV180)を、またコラール幻想曲(VII49)をつくった。
しかし、感情の主観性と教訓的な視点が宗教詩に侵入し、それだけで教会の礼拝のための真の会衆の歌を作り出してきた素朴で単純な客観性を奪います。感情と言葉遣いが微細になって衰退期が始まっているとき、パウル・ゲルハルト(1607-1676)があらわれた。8.ゲルハルトからバッハへ
ゲルハルトは、この衰退を確認するかのように現れた。彼はルター派正統派の信者であり、驚くべき速さで真の改革をもたらした。
バッハはこのゲルハルトを崇拝者し、彼のカンタータの詩を繰り返し採用している。マタイ受難曲(BWV 244)では12曲のコラールの中で、「血潮滴る主のみかしら」の曲を5曲(15,17,44,52,62)で使用していることからわかります。
敬虔主義は確かにいくつかの精神的な詩を生み出しました。しかし、バッハにとって、それほど重要ではありません。バッハは、讃美歌の本の中から過去の豊富な歌詞を用いた。
彼が自由に使えた資料は、小さなエアフルト1524年の讃美歌集から26曲用いた。バブストの讃美歌集は初版では101曲、ベルリンでほぼ1世紀にわたって使用されていたクリューガー本は、初版(1640)では250曲、第44版(1736)では1300曲、リューネブルク(1686)に2000曲と増加している。ライプツィヒで保存されている目録から、ライプツイヒ讃美歌集の8巻がバッハの所有物であったことがわかります。しかし、18世紀の後半には、もうバッハのカンタータと、その熱気は存在しませんでした。歌詞を持ったさんびかは「讃美歌」とした。

マタイ受難曲 x

マタイ受難曲 x

マタイ受難曲     BWV244 マタイ受難曲 全68曲                                                                        
    第一部  1-30
01.合唱  1
02.イエスを殺す計画 2-4b
03.ベタニヤで香油を注がれる 4c-8
04.最期の晩餐 9-13
05.オリブ山にて 14-17
06.ゲッセマネの祈り 18-25
07.捕縛 26-29
08.アリア 合唱 30
  第二部 31-68
 
09.大祭司の審問 31-37
10. ペトロの否認 38-40
11. ユダの最期 41-43a
12. 訊問 43b-50d
13. 判決 50e-54
14. 十字架 55-60
パロディ

パロディ

パロディ

バッハは一度作った曲を再利用して別の曲を作っていた。

それはパロディと呼ばれている。

多い時は本BWV36「喜び高く舞いあがれ」のように1曲から計3曲も作った。

  この4曲は「パロディ」と記されている。

wikipediaによると「パロディ」は、他者の作品を模倣,作り替え、盗作,盗用、許可なき引用など、 著作権侵害という悪い意味で使われることが多い。

 バッハは自分の曲を盗作などしないけど,と思った。
そこで、パロディと扱われているBWV 36の4曲の一群を検証しようと思った。

BWV 36の原曲は失われて!ない。

が、a.b.c.で区別されている再利用した3曲を下記のように表にすると

次のようにほぼ原曲が見えてくる。

ーーーーーーーー

[ 36 喜び 高く舞いあがれ 全8曲 ] 不明

36a 喜び空に舞いあがれ   全9曲 結婚祝

36b 喜びがわきあがり    全8曲 就任祝

36c 喜び高く舞いあがれ 全9曲 誕生祝

ーーーーーーーーーー             ーーーーーーーーーー

問題はBWV 36の原曲が「ない」と言うこと。  晩年のバツハは眼の病気で二度手術をしたが、かえって死をはやめ、亡くなると、仕事場を次期カントールに明け渡さなければならず、楽譜,書籍一切が運び去られた。  ある人が肉屋の包み紙に使われていた楽譜を発見し、まとめて買い取った。(小説バッハ、フランク,佐藤牧夫訳,1971、音楽の友社)。

と言うように,散逸した楽譜は長年かかって集められたが、多くが失われた。

1723年にトマス教会カントルに就任したバッハは、最初に、3年間1サイクルとする教会暦により、彼のカンタータ形式(6~8曲、15~20分の持ち時間を説教の前と後に分ける形式)を確立し、3年分を作り,その後の基礎にした。

バッハは年間60曲のカンタータを作曲し,演奏した。すると、在職27年x60曲=1200曲となる。が、現存する220曲はあまりにも少なすぎる。

BWV 36 喜び高く舞い上がれは不明であるが、彼が再利用した曲をよく見比べると原曲の大半はわかる。

パロディとして作られたBWV a.b.c.三曲の共通項を3点ほど上げよう。
1.歌詞を抜いた各曲の楽譜は、ほぼ同一である。

2.構成:アリア 第3曲アリア、第5曲アリア、第7曲アリア

3. 朗唱:第2,4,6。朗唱は、結婚,就任、記念など目的が異なるので、いくつかのパターンで歌われる。

このように元曲を再利用して作られたことが認められる。

次に、失われたBWV 36を再建してみよう。


原曲

 0.BWV36  喜び高く舞い上がれ  (Schwingt freudig euch empor)

本曲BWV36は、原曲の所在は不明となっている。

構成 ————————-

共通の楽器: オーボエまたは,フルート、 1,2バイオリン ビオラ 通奏低音(ビオロンチェロまたはオルガン)
ボーカル:ソプラノ、アルト,テノール,バス

譜面: 共通楽譜 ————-
1、BWVa,b,c,の三曲は歌詞抜きの楽譜はほぼ同じ。

2.曲の構成 第1曲合唱、第2曲朗唱、第3曲アリア、第4曲朗唱、第5曲アリアと合唱、第6曲朗唱、第7曲合唱・コラール、第8曲合唱。は第9曲がある。

第1曲と第8曲は103小節の大きな大きな合唱である。
ここでにBWVa,b,c,の骨格がある。

2、第2曲、4、6曲の朗唱は、10小節、約1分の短いソロで、聖書のことば、誕生、結婚、就任などの内容をうたう。ギリシァ古典演劇に見られる口上や進行なとの伝統の形を継承している。

3、第3曲アリアは200小節、5~6分、「愛は優しく歩み寄り」など、
短い歌詞をフーガで繰り返し,それをさらにダ・カーポで繰り返し2倍にする。他に、第3曲、5曲、7曲、9曲。高音やメリスマなどソリストの技量が求められる。

4、第4曲朗唱、原曲BWV 36のように通常礼拝のカンタータは朗唱は教会暦に定められた聖句の中から歌詞を作る。1分未満、10数節。
————————————–

(以下、BWW36a,b,c,そして原曲の順)

  1.BWV36a   喜び高く空を舞う  (Steigt freudig in die Luft)
1726年11月30日
アンハルト・ケーテン候レオポルトの2番目の妻、候女シャーロット・フリーデリケ・アマリアの24歳の誕生祝。歌詞は、ピカンダーの1727年刊の著書「Ernst-Schertzhaffte und Satysche Gedichte,Teil1」の中の「Steigt freudig in die Luft.」
アンハルト・ケーテン 侯爵、侯女
 2.BWV36b   喜びが湧き上がり  (Die Freude reget sich)
1735年ライプツィヒ大学学長に就任したヨハン・フロレンス・リヴインス(Rivins)の就任祝

1723年に着任し、毎週のカンタータ作成と結婚式や葬儀のための作曲演奏と多忙であった。この仕事の上で、よき理解者と助けは命綱のように大事だったと思われる。このBWV 36の三曲のうちの2曲はそのような人脈の深さを感じることができる。Philuris (フィラリス)-Lyre lover (竪琴
愛好家)?Law lover

BWV36c  喜び高く舞い上がれ

1735年10月
すでに1730年にトーマ学校70代校長に就任していたヨハン・マティウス・ゲスナーの40歳の誕生祝
 3.BWV36  喜び高く舞い上がれ  (Schwingt freudig euch empor)

BWV36 喜び高く舞い上がれ

036_01-300x169.jpg 1736ライプツィヒ
待降節1
ローマ13:11-14
————————-
1725年の原曲を元に
歌詞台本;ピカンダー
1.3.5.7,パロディ)

1725年の待降節に「喜び高く舞い上がれ」はイエスの誕生を待ち望む人たちの舞い上がる喜びを表した曲である。この日,教会暦に指定されたイエスのエルサレム入城は受難節の記事であるが、ホサナの歓喜の声に迎えられるイエスは(マタイ21:1-9)、誕生を準備して待つ待降節第1日曜日の礼拝に用いられた。

これに、今こそきませ,異邦人の救い主(1524年ルター)よりコラール「いざ来ませ異邦人の救い主を」更に、「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」(ローマ :  )の聖句を朗唱。

「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。」(マタイ21:1-9)のイエスのエルサレム入城を待降節のイエス誕生のテーマに重ねている。

聖トマス教会

バッハの楽譜
トマス教会カントルになる前と後では、楽譜の書き方が違うのではないかと思うようになってきた。
ワイマールやケーテン時代に書いた祝祭曲やカンタータは、トマス教会音楽監督に落ち着いて、礼拝説教前後の合計15~25分の持ち時間で、1・合唱,2,朗唱,3,アリア、4,朗唱,5,アリア,5,コラールという定式では楽譜は新しい形式になっていった。それは、聖書解釈さえわかれば計画的にでき,扱いやすい。
しかし、教会外で演奏する式典,葬儀,追悼、就任式、マリアの祝日、ヨハネの洗礼、聖ミカエルの祝日、宗教改革記念日などは、短すぎたり、長すぎたりまちまちで,その半分は「世俗音楽」と言われている。また、トロンボーンの元祖トロンバや羊の角発祥のホルンの元祖コルノ・ダカッツチャなどが入り賑やかになる。しかし、通常の礼拝では、素朴なアンサンブルが組まれた。
「小説バッハ」によると,小さい頃父バッハの音楽を世俗音楽かどうかと議論する人たちがいて,家に帰って父に言うと、父は怒って、「世俗」とか「聖なる」って、今後言ってはならない、と強く言われた。それではなんと言えば、良いのですかと聞くと、「命の音楽(viva musicaだったか?)」というエピソードを書いていた。(「小説バッハ」フランク,佐藤牧夫訳 、音楽の友社,1971)本曲BWV36c ピカンダーの誕生祝いのカンタータは、は何度も書き直しただろう、 全120小節、約4分くらいの曲だが、4/4小節の流れの中に、「2/2拍子、テンポ110の小節に変則的に一つまた二つと挿入」されて、musescoreという楽譜作成ソフトは問題なく受け入れるが、次の日本語歌詞を歌わせる。段階で使うCeViO(チェビオ)は、4拍の中に2拍という変則的な挿入を拒否する。この原因がわかるのに二日かかり,その対策に1日かかった。3回諦めて、別の曲に変えようと決心して、夜中に、別の種類の楽譜で試してみてはと言う閃きがあり,Mxlミュージックファイルでやってみたり,またべつのcap.ファイルを試したがダメだった。最後に癖が強いMidiファイルに歌詞群をコピーして良かったので,ochestra群を分けてコピーしたら,うまくいったかもしれない。と言うのが昨夜の段階で,今朝どうだったか確かめることにしている。聴いてみると前よりスッキリしていい音になっているので、成功であって欲しいと言うところです。
参事会議員交替式

参事会議員交替式

参事会議員交替式

参事会議員の交替式カンタータ

ミュールハウゼン時代 (1707-1708 )1曲

BWV71 神はわが王

 

———————————————-

ライプツィヒ時代  (1723〜1750年) 5曲

BWV29 われら神に感謝
BWV 69 わが魂よ主をたたえよ
BWV119 エルサレムよ主をほめよ
BWV120 見よ、賛美はシオンにて
BWV193 シオンの門よヤコブの住まいを

 

 

 

1.参事会議員 選挙 #ミュールハウゼン #ローマ教皇直轄領 1707-1708 バッハ18才、17070529ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストに任命を受けた。その3日後、大火が起こり,400軒が燃え、三つある教会の中のブラウジス教会も延焼した。 この騒動の中、結婚したばかりのマリア・バルバラと引っ越してきた。ミュールハウゼンは神聖ローマ帝国の自由都市であり,6人の市長と46人の参事会員が選ばれ,この中の2人の市長(1人は副市長)と14人の参事会員が一年任期で交代するシステムであった。 大火のあと復興計画も手付かずの時なのに、参事会員交替式が火災に遭わなかったもう一つの教会を会場にして、祝祭カンタータ「神はわが王」BWV71演奏が行われた。一同は満足と勇気をもらった。本楽譜は後日200部印刷され関係者に配布された。

この曲の第2曲アリアーコラールでテノール「わたしは今や80才、なぜこんなに重荷を背負わなければならないのか。わたしは望む、私の町で父と母の墓のそばで死ぬことを」、ついでソプラノが「わたしはこの世でわたしをより高めようとして,患難辛苦を乗り越え、歳月を超えてきたように、罪と恥から身を守るために、忍耐を重ね,誇らしく白髪となった」。と歌っている。 新任の46名と退任の46名ー列席の年老いた人たちを勇気づけたこれらの言葉は、旧約聖書のダビデ王の 故事から取られている。ダビデは王になる前、身内の裏切りに合い、国境地帯を逃げ回っていた時、助けてもらったバルジライの恩を、王になってエルサレムの宮殿ができるから一緒に暮らそうという。パルジライは丁重に断って、わたしはもう80際になる。亡き父と母のそばで暮らしたい、と。(サム下19:36) 若いバッハにとって、交替する48人の参事会議員の労苦を労い、新任の48に希望と勇気を与える音楽となっている。後に、その楽譜は200部印刷された配られたことで、バッハの思いは十分に伝わったことを示している。

1.参事会議員 選挙 #ミュールハウゼン #ローマ教皇直轄領

1707-1708
バッハ18才、17070529ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストに任命を受けた。その3日後、大火が起こり,400軒が燃え、三つある教会の中のブラウジス教会も延焼した。
この騒動の中、結婚したばかりのマリア・バルバラと引っ越してきた。

ミュールハウゼンは神聖ローマ帝国の自由都市であり,6人の市長と46人の参事会員が選ばれ,この中の2人の市長(1人は副市長)と14人の参事会員が一年任期で交代するシステムであった。
大火のあと復興計画も手付かずの時なのに、参事会員交替式が火災に遭わなかったもう一つの教会を会場にして行われ,祝祭カンタータ「神はわが王」BWV71演奏が行われた。一同は満足と勇気をもらった。

この曲の第2曲アリア・コラールでテノール「わたしは今や80才、なぜこんなに重荷を背負わなければならないのか。わたしは望む、私の町で父と母の墓のそばで死ぬことを」、ついでソプラノが「わたしはこの世でわたしをより高めようとして,患難辛苦を乗り越え、歳月を超えてきたように、罪と恥から身を守るために、忍耐を重ね,誇らしく白髪となった」。と歌っている。
新任の46名と退任の46名、列席した人たちは感銘を受け,勇気づけた、歌詞の言葉は言葉は、旧約聖書のダビデ王の故事から取られている。ダビデは王になる前、身内の裏切りに合い、国境地帯を逃げ回っていた時、助けてもらったバルジライの恩を、王になってエルサレムの宮殿ができるから一緒に暮らそうという。バルジライは丁重に断って、わたしはもう80歳になります。亡き父と母のそばで暮らしたいのです、と言った。(サム下19:36)
若いバッハにとって、交替する46人の参事会議員の労苦を労い、新任の46人にあとを頼むという、感銘深い音楽となった。後に、その楽譜は200部印刷されて配られたことで、参議会議員交替式の意義を伝えている。
(1723〜1750

 

69 わが魂よ主をたたえよ1725年8月15日 初演
1748年8月26日
マルコ7:31-37 耳の聞こえない者の癒し
2コリント3:4-11
パート譜で残っていた楽譜をバッハは晩年に改作し1748年の参市参事会員新任式の礼拝で演奏した。わが魂よ主をたたえよ BWV69 全6曲
参事会員新任式
1.合唱
2.朗唱 ソプラノ
3.アリア アルト
4.朗唱 テノール
5.アリア バス
6.コラール 合唱1.合唱
わが魂よ主をたたえよ
主があたえたすべての恵みを忘れるな。(詩編103:2)
71 神はわが王ダビデは40才になった息子アブサロムの裏切りにあい、亡命生活をしていた頃、ダビデを匿ってくれた富裕なバルジライに助けられた。やがてアブサロムが戦死し、エルサレムに帰還する時が来た。ダビデは大変世話になったバルジライを連れて帰り一緒に住もうと言った。しかし、「バルシライはわたしはもう80歳になります。父母の墓のそばで暮らしたいのです。自分の代わりに息子をを連れ行ってくださいと言って固辞した。」サムエル記下 19:33-38
このエピソードをバッハは本曲BWV 71「神はわが王」の第2曲に取り入れた。
バッハは、1702年、22才の12月に、ミュールハウゼン市ブラウジス教会オルガニストの任命を受けた。ところが、その三日後に400軒が被災する大火が起こり、しかも市長宅のモルタル塗りの屋根から出火した。三つある教会の二つも被害を受けた。その渦中にバッハは結婚したばかりの妻と引っ越してきた。大変な年明けとなり、2月4日に市の新参事会員の就任式が行われた。このために「神はわが王」BWV 71を作曲、演奏した。初仕事でした。バッハは次のように作曲した。
第1曲テーマ「神はわが王」 神の意を受けた神聖ローマ帝国直轄自由都市 ミュールハウゼンの行政を司る 46人の参事の中の12人と 2人の市長 (1人は副市長)が 一年任期の交替で就任する。その就任式の祝祭カンタータです。大火の後で復興計画もままならぬこの時に、就任式は延期にはせず、被災しなかった3番目の教会で行われました。
第2曲の歌詞を、今日の言葉、ダビデの話の一節から、ダビデの苦境を助けたバルシライの言葉を歌い、そのままミュールハウゼン市の火災に対処した、高齢の参事官の苦労に感謝を表しています。
祝祭は壮大な曲によって活気に満ちた。楽器が、3トランペット ティンパニ 2フルート 3弦 2オーボエ、ファゴット 2フルートとチェロ、オルガン それに4声部の合唱。これほど大規模なバッハの祝祭カンタータはほかにないそうです。
最後の第7曲 合唱
「新しい治世に それぞれの道で祝福の王冠あれ。安心、平和、福祉に常に満たされ、
幸福、救済がなされ、治世が守られるように。新しい治世に 喜び、救い、偉大な勝利がありますように。国中の町や村にも、日々新たにヨゼフ王※が喜ばれんことを。」
119エルサレムよ主をほめよバッハの仕事は毎日曜日の礼拝にカンタータを演奏することだった。トマス教会は朝、昼、夕3回の礼拝があり、50メートルばかり離れた隣のニコライ教会の礼拝に少年の中から指揮者と数人を選んで送り、またライプツィヒ大学教会の式典などの責任があった。
通常の礼拝は年間50回ほどあり、そのほかにクリスマス、受難、復活、聖霊降臨、宗教改革記念日、マリアの祝日、大天使ミカエルの祝日、それに結婚式、葬儀などの祝祭カンタータがあり、祝祭はフルオーケストラがついた。
193シオンの門よヤコブの住まいを
結婚式カンタータ

結婚式カンタータ

  

正しい人に光さし出で BWV195

しりぞけ物悲しい影       BWV202

喜び高く舞い上がれ      BWV 36c

尊きレオポルト殿下よ    BWV 173a

クォドリベット

      シャガール

結婚式カンタータ 34a,120a,195,196,197,202,210,216

 

       正しい人に光さし出で BWV19
初期稿は1741年9月11日に挙行された、法律顧問でナウムブルグ市長であったG.H.Bingとトマス教会の牧師の娘エレオノーラ・シュッツ(ハインリッヒ・シュッツの姪)の結婚式で演奏されたと推定される。歌詞は、新郎新婦を暗示する表現を用いているが、本曲は「正義(Gerechtigkeit)」ということばから新郎が法律家であったことがうかがえるとしている。(バッハCD全集、坂崎 紀) 「正しい人」

(Gerechten義しい人たち)について 本曲に4回でてくる。初期稿は1741年9月11日に挙行された、法律顧問でナウムブルグ市長であったG.H.Bingとトマス教会の牧師の娘エレオノーラ・シュッツ(ハインリッヒ・シュッツの姪)の結婚式で演奏されたと推定される。
歌詞は、新郎新婦を暗示する表現を用いているが、本曲は「正義(Gerechtigkeit)」ということばから新郎が法律家であったことがうかがえるとしている。(バッハCD全集、坂崎 紀) 「正しい人」(Gerechten義しい人たち)について 本曲に4回でてくる。「義しい」は神に,道徳的、法律的正しさというより、神に対する誠実、おそれ敬う敬虔からでてくる態度や行為と考えられている。新郎と新婦は、神の前に誓いを立て、結んだ契りを、神は祝福して、結婚生活をスタートして、終わりの完成に導く。歌詞からこういう内容を読み取ることができる。

しりぞけ物悲しい影よ BWV202

成立年代は不明で、親しい知人の結婚式を祝うための作品であったと考えられている。全9曲からなり、ギリシャ神話を題材にした上品な作品で、ソプラノ用の独唱曲であることから、数多くのソプラノ歌手が挑戦してきた作品である。

成立年代は不明で、親しい知人の結婚式を祝うための作品であったと考えられている。全9曲からなり、ギリシャ神話を題材にした上品な作品で、ソプラノ用の独唱曲であることから、数多くのソプラノ歌手が挑戦してきた作品である。 成立はもっと古く、ケーテン時代(1717年 – 1723年)に遡るといわれている。さらに遡ってヴァイマル時代の作品である可能性を示唆する学者もいる。 (wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

ガリ版から www.ネットワークへ

ガリ版から www.ネットワークへ

ガリ版から www.ネットワークへ

同じテーマで書いた文章を、ボタンひとつであっけなく消してしまった時の残念無念、そろそろ残念な気持ちが薄れてきたようで,勇気を出して、心機一転,もう一度書いてみようと思います。

このテーマは牧師時代の、日曜日の礼拝順序と集会等の案内報告、教会員の消息など「週報」に書いて,
印刷して、玄関のボックスに入れて日曜日を迎えるという、ガリ版印刷の31年間から始まるものです。
一枚の週報を作るために印刷メディアがどんなに変ってきたかを思えば、よくもまあ,と思うほどで、
ガリ版」から,現在のPCとプリンターに至るまでの記憶をたどります。

1.ガリ版 1969年スタート——

ロウを塗った紙をヤスリの上に乗せて、鉄筆でロウをはがし、そのうえからローラーにつけたインクで、下に置いた紙に写して印刷します。ロウの紙には一面に線が引いてあり、四つのマス目に一文字書くようになっています。ここで字を書くのが下手な私は苦労するわけです.どうしたら、上手く描けるのか。

人が書いたものを、あんなにかけたらいいのに、と羨ましく思い、KW先生は本当に上手でした。私が見たガリ版文字の中で最高でした。
その四角形四マスを縦,横三分の一を偏に、縦のかんむりを三分の一にすれば、より綺麗に書けるなど、いろいろ考えました.

2.印刷輪転機

万国博覧会が終わって、経済は上り坂、高度成長期のスタートラインくらいだったのか、輪転機印刷機が出て,輪転機から印刷物が高速で出来上がり、大いに時間短縮になりました。が,ムラなく仕上がるためには要領が入りました。また,その頃はA4よりも一回り小さいB5でした。B5はとにかく、その半分のB6版と小さくなると,紙が離れなくてトラブルが起こり,対処するのに手間がかかるようになりました.

  1. 3.デュプロ

アメリカ製のデュプロは用紙に鉛筆や活字で叩いてカーボンを塗りつけて、揮発油で溶かして輪転印刷するというもので、カラーでした。

4.アルバイト

教会に来るようになったKBさん。鹿児島出身で、東京に出てデュプロ事務機に勤め、ノーハウを得て福岡で店を持つことになった。私も週に一日手伝いに行くようになり、飛び込みでレターケースを売るようにと言われて、ちょっとどうかなとも思ったけれど、使いそうな店に飛び込みで何軒か尋ねたが、一台も売れなかった。

高度成長期に入って、大型店が建つようになったが,職を失う人も結構いて、長崎県から職探しにきた青年を教会に泊めて話をきいたことがある。
私も思うようにはできなくて店の手伝いは立ち消えになった。
けれども、KBさんは下取りした印刷機類を月賦で譲ってくれることになり,それから色々な事務機を下取り機械で経験することになった。教会には、事務機費を出してもらう余裕はなかったので、月賦代金を支払う関係が、旧印刷機時代が終わるまで続いた。

5.活字活版印刷

縦横6ミリくらいの鉛の棒、標準漢字の数はあったと思う,逆さま文字を見て字を選び、うらがわのテコで打ち出して、蝋を敷いた紙や改良された用紙に文字を打ち出して、輪転機印刷をする。印刷会社で作っていた印刷物が個人でできるようになった。裏返し文字でも覚えてしまったが,目が疲れた。
そのうち、文字をプリントした文字板を張り、正面から見える文字はありがたかった.教会の週報も活版文字で見れるようになった。印刷収入を考えたが、中古品なので絶えず修理をしながら、せまりくる時間と戦い、何をしてるんだろうかと自問しながら、軌道には乗れなかったなぁ。

春日東教会

25周年記念誌

1984.4.5

印刷したものは
週報印刷 一年 51 (週) x 50枚、説教(毎年-前期•後期)、誕生カード、クリスマスカード,総会資料
教科書:福岡女学院短大,大学,のちに西南学院大学ー毎年テーマを変えて教科書を作り500円で販売した。

大学闘争でいつまでも古いノートを読んで授業する老教師が槍玉に上げられて,授業管理は私学補助金と引きかに文科省の手に渡った。それで批判側にいた私は教科書は自分の手でという思いを,無理しながら保っていた。
前期・後期 毎年新課題で
九州教区事務所 主事を数年 教会,牧師住所録 教区,教団、県庁宗教法人課、手続き書式等
B4からA4へ

6.ワープロからコンピュータへ 1980年代 ——–
コンピュータは、ワープロも、八つの点(ドット)で文字を作っていた。それでは使い物にならなかった.また20 万円という金額を生まれたてのワープロに使うわけには行かなかった。エプソンやアップルも試してみたが、毎年2回ほど新製品を出すPCには、振り回されたという記憶しかない。
12インチのフロッピーディスクが3000円もしていたなんて、書いておかなければ忘れてしまいます。

7. WWW ネットワーク 1980年代末世界を一回りするネットワークは、情報を      パッケージに集めて送る方法がアメリカ軍事情報の関係で開発された、
コンピュータの役割が世界を繋ぎ、隣の家にいるかのような近さに変わっていった.
私は1980年代の末に、アサヒネットに入り、メールとホームページを始めた。時代はどんどん変わっていった。当初から長い間,スマートフォンの普及までーホームページを見てくれる人はいなかった。が、自分の書庫としても絶えず、書き込んでいた。それが今chapblogとなって、再生しています。8. そしてオープンソース

アップル、マイクロソフトは一時代を作りあげ、大きな存在だった.この生き方に意義を持つ人たちがその何倍も多くいるようだ.スエーデンなど北欧の学生たちが始めた、データを公開し,共有してコンピュータを作り上げた.無料の「オープンソース」のシステムやソフトがあっというまにひろがり、毎年更新して法外利益を得てきた巨大な会社が終焉を迎えている。どんな強靭なシステムを作っても穴・バグか見つかり攻撃してくるからである.オーブソースは秘密にするものがないので、攻撃しても利益にはならないようだ.
今回一年半かかったホームページとブログは、オープンソースで、秘密なし,平等,自由、つまり個人のプライバシーを基本的に守る。こういう思想によって、できた。利用者が増加している。

春日東教会

40周年記念誌

1999.3.1

現在

私が使っているオープンソースのシステムは、このwordpresでつくった。
Libera Officeはオープンソフトで、マイクロソフトオフィスのワード,エクセル、パワーポイントと同じシステムを、無料で提供している。
私が職場で使っていたOfficeは2003年でサポート終了となり、買い替えなければ,動かない。
データも全て無効となった.マイクロソフトというシステムソフトは完成度を極め、もう開発するところは無くなってしまった.年間契約とか、月割,日割りとあらゆる手で集金組織に成り果てた。それでも、穴を見つけて攻撃され,対応に苦慮している。

動画制作のOpenshotも助かっている.それゆえに、日々、内容が充実した作品を見て、作りに精進しようという気持ちを強めている.
このオープンななかまたちが世界中で縦横に通じる通信時代を開いてくれる。そのように,期待し,確信している。
わたしもwordpressの恩恵を受けて、世界に翼を広げて交信したいものです。

いかりチャンネル

いかりチャンネル

       飯山陽(いいやまあかり)    20231124

 この二、三日YouTube、1日6時間半?見てるよ!いいのってiPadで注意を受けた。
 えっ?と我に帰ると飯山陽の発信を一通り見ようとしていた。

 

イスラエルとハマスとの、ガザで起こっている衝撃報道に触れて、なんか変だとは思っていた。
イスラエルの歴史学者ユバル・ノア・ハラリさんの緊急取材(どこの局か覚えていない)インタヴューを見て、「イスラエルはガザの人たちと戦っているのではなく、ハマスのテロと戦っている。」このことを知ってほしいという苦渋の言葉が記憶に残っていた。彼の身内も連行されているとか。そのくらいの認識だった。

 

 さて、この一週間も経っていない間に、飯山陽が発信するハマスをめぐる中東問題の構造がわかってきた。
彼女がいうには、イスラム教の世界を正しく理解し、対立している西欧資本主義諸国(日本も別枠?で入っている)の 、石油利権をめぐる枠組みを知らなければならない。

 

 さらに、イスラム教自体は宗教なので、テロは行わないが、ハマスに武器と多額の資金援助をしている。(発信している報道でハマス幹部が超高価な高層ビルに住んで贅沢な生活をしている映像を見せている)テロと指定された組織である。彼らがガザのパレスチナ住民を盾に取って、病院の地下に拠点を作っている。このハマスをイスラエルは殲滅しなければ、問題は解決しないと言っている。
加えて言えば、イスラエルの富豪が所有している、日本で作った「自動車運搬船」襲撃、拿捕は、これまたハマスと同じイラン資金によって活動を始めた「フーシ」派によるものだそうだ。
これらの現場がユダヤ教、キリスト教、イスラム教発生の舞台ーアブラハム、ヨセフーモーセのエジプトからシナイ半島の南端ーそして今のパレスチナ、イスラエルと重なっているとは!

 

 三宗教の存在理由が問われているのではないかと思われる。
これらの問題の理解にはアラビア語の日常会話ができて、事態を間違いなく理解して交渉できる人材が不可欠となる。この意味で、シリアまたエジプトで生活し、通訳をしていた飯山陽さんの発言は問題を正確に伝えている。彼女の10冊ばかりの著作が、Amazonで総合一位!。女性の購読者が多いそうだ。
政治の無限の弱体化の中で、変化の兆しを感じているのはこうした女性たちではないだろうか。

福岡バッハコレギウム 最終演奏会

福岡バッハコレギウム 最終演奏会

福岡バッハコレギウム 最終演奏会

その時はついに来たりて、
福岡バッハコレギウム最終演奏会
この日だけは伺って挨拶を交わしたい。
思い出いっぱいありがとう。

 前日に出かける準備をして寝たが、

朝起きると左目が出血して,

半分以上真っ赤になっている。

痛くも痒くもない。

ネットには治療法はなく、

自然治癒を待つのみとあった。

これはちょっと見る人が驚くかも。

と思って、断念した。

10年余りの記憶を、

ブログにとどめておこう。

Bach就任300年

Bach就任300年

Bach就任300年 JSバッハ トマス教会カントル就任300年記念行事
 
https://youtu.be/uejrik8FX9Y

 Bach for Future(未来へ向かうバッハ)というテーマのもと、

6月8日、1723年就任にちなみ17時23分前夜祭を開演、18日まで、世界から40の団体が集まり 150回のコンサートが開かれた。


 日頃、Youtubでお目にかかっいる団体と指揮者と合唱団、ソリストが出演していた。
YouTubeを通して見るJSバッハとトマナコア、またいく人かの愛好者たちについて、わたしはYouTubeを見るようになってたった5年ばかりなのに、驚くべき成長、変革を感じてきた。

 その一番は本拠地のトマナコアであり、スイスのバッハ財団は急速に成長した。オランダの「オールオブバッハ」の100年は驚嘆する。新旧交代がうまくできてよかった。CDを通して出会ったヘルムート・リリンクはお疲れ様の引退をした。そして鈴木雅明率いる日本バッハコレギウムは跡継ぎがついている。

 1.スイス・ガレンのルツさんのバッハ財団、20年というから、わたしはyoutubeで見るようになった5年前くらいから急速に成長、洗練されたと驚くとともに古参になって、逆に伸びしろがなくなった寂しさを感じている。

 2.この間に、トマーナコア(トマス教会少年合唱団)はG.C.ビラーさんが亡くなって、ライゼさんが就任してあっという間に別の特色を出して「成功」している。
ビラーさんは生粋のトマーナで、戦争、ナチズム、東ドイツの悪夢の時代から回復する使命をもって、彼が受けたトマーナの純粋な生命を蘇えらせようとするかのように、力を尽くしていたことを強く感じる人でした。
ナチズムの時代の指揮者ギュンター ラミンの演奏と説明の中に、トマーナの少年たちを郊外施設に退避させ、ヒトラーユーゲントに連れて行かれないような抵抗をした(成功したか否かは覚えてないが)というエピソードを読んでため息をついた。また、トマーナコアが、1980年代に日本公演で福岡にも来た時、福岡の少年が(その中に木の脇道元さんも)参加したことで記憶に残っている、その時の指揮者ヨアヒム ロッチェが東ドイツ崩壊に伴う、密告者告発の「シュタージ」で逮捕されたというニュースを、天神の紀伊國屋書店で立ち読みした音楽雑誌の中に見つけた時、ショックだった。その後任であっただけにビラーさんの純粋な生き様に惹かれたが、もっと活躍できる年齢(私より若干年下)だっただけに残念です。Youtubeで演奏録を視聴できるのはありがたいです。

 3.ライゼさんはその後任にあたる。スイス生れ、カトリックで、教会音楽分野で少年合唱団の指揮者、舞台音楽等幅広い研鑽を積んだ実力者で、今回の300年行事の責任を負った。コロナ禍が長引く中、会衆がいない演奏録画放映が続いた。自ずと少人数で間隔をとった演奏。また世界各地から大勢参加したweb合唱もコロナ禍ならではのことで、若い人が参加しやすく、新しい試みに意欲的。

 4.次に、2013年にバッハの全曲演奏「オール オブ バッハ」を目指して100年の歴史をもつオランダ・バッハ協会の「オール オブ バッハ」、その中に2018年から加わり、指揮者を務めている佐藤俊介の活躍とみなさんの成長と老若の入れ替わりがすごい。(2019年来日公演) 市民社会が特徴なオランダの人たちらしく、「みんなで」作り上げている感が伝わって、その意味で好感が持てる。

  5.隠退したヘルムート.リリンク。
福岡バッハコレギウムにいた10数年、リーダーの武田又彦先生にリリンクの名前を聞いて「カンタータ全集」CDを聴くようになった。武田先生は、リリンクの日本でのセミナーで、指揮法を学んで、セミナーの最後に模擬演奏の指揮者に選ばれたそうで、私は好感を持っていた。ところが、youtubeでリリンクの演奏を見ていた人が「嫌だ、ミリタリー音楽みたい」と書き付けているのをみて、びっくりした。マタイ受難曲の冒頭合唱で(後に、ベートーヴェンがバッハにヒントを得て「運命」(第5番)の冒頭に用いたといわれる「デインパニの連打」を、「軍隊音楽 嫌い」と書き込んだ評に衝撃を受けた。
マタイ受難曲は神学生の最終年度に神戸栄光教会のクリスマスに清水さん率い聖歌隊に入れてもらって歌った。バッハの初体験でした。楽譜にカタカナで「イザウタエ」というように書き込んであった。その「命令形」に、私は遭遇したのです。はたと考えて、「さあ歌おう」(lets sing)みたいな使役動詞を使った「私をして歌わせたまえ」みたいな感じではどうだろうか。・・・こんなふうに考えさせられた、今もそう考えている一件でした。

 6.最後に、日本バッハ・コレギウム(BCJ)は、300年記念のフィナーレに選ばれて、ロ短調ミサを演奏。鈴木雅明先生のライフワークの頂点であり、日本のバッハ運動と芸大に設置されたバイブオルガン学科は新しい使命に向かっていく。喜びに満ちた美しいひとときでした。コロナ禍の長いトンネルからいきなり花が咲いたような10日間だったですね。おめでとうございます。
同記念行事は7月24日配信

参考
「音楽な人たち」

木ノ脇悦郎先生追悼

木ノ脇悦郎先生追悼

 

木ノ脇悦郎先生 6月5日逝去、
8月3日福岡女学院エリザベス・リー・ホールにて、記念会が開かれた。

私は炎暑のなか、体調低下のため、欠席となり、

私の文書を読んでいただくことになりました。

参加できなかったひとのため読んで頂ければと思い、

私のブログに掲載しました。

ーーーーーーーーーーーー

 木ノ脇悦郎先生 感謝を込めて

神学部に入り、特に成全寮での生活は、6年間の学びに肉がついたと思えるような大事な時間でした。
いろんなタイプの人が集まった二つ上のクラスは、わたしにとって魅力的でした。そのクラスの木ノ脇先生との出会いも、その後長く続き、私の春日東教会での31年は木ノ脇先生に彩られていたと思い感謝です.

 
ある日、福岡女学院の長い廊下で西垣先生と出会い、後任を探しているんだけ。ど、と聞かれ、木ノ脇先生の名前を言い、どんな人?、学生にとっていい人です。と答えました。まもなく、福岡女学院聖書科の教師として引っ越してこられ、春日東教会は温かさに溢れました.ひ
 九州教区通信の委員をした時、奄美地区の取材を企画して、一週間現地訪問をしました。結論として、奄美地区の人たちが教区の集会に船を乗り継いできている。飛行機で来れるようにと要望して、実現したので、奄美地区の皆さんには感謝されました。

 

 その時、名瀬教会の雨宮恵牧師は、木ノ脇先生の義兄に当たる丸山牧師の喜界教会、らい療養所佳南園石原牧師、瀬戸内教会佐藤俊一牧師の4ヶ所での伝道集会を計画してくださり、九州教区通信に報告しました。その途中、南端の瀬戸内古仁屋で文房具店をしていたお母さんが亡くなられて、弔問に連れて行ってもらいました。
 戦後長い間、米軍の管理下にあった時代、この環境から飛び出したいと思った人たちの中に木ノ脇先生はおられました。まさに、わたしは木ノ脇ランドを巡っているようでした。

 

 先生が哲学史の一科目で留年した時のことを、他に何もすることなく、一緒にいる下級生に負けてなるものかという思いで、一念発起してラテン語を勉強を始めた。その一年間の話は印象的でした.
 それから、エラスムスの新約聖書ラテン語訳の各書の序文[エンキリディオン]を取り上げて、毎年キリスト教歴史学会で発表され、その前にどんな発表になるのかを私が聞き、福岡が会場になった時は聴講に行きました。エラスムス研究は荒井献先生に評価され、博士論文となり神学部の宝といえます。研究対象のエラスムスの生涯と、先生の人生には共通するものがあると思います。

 

 ある時、先生が先生のお子さんと私の子と一緒に英語を教えようと言われ、じゃ私は宗教教育をと言って、その年のクリスマス礼拝ではアンサンブル、夜はキャロルでは道元さんの夜空になり響くフルートと一緒に回ったことでした。
 先生が関学神学部に行かれた時は歓送会を開き、喜んで送り出しました。
 私は子育てが終わった55歳で、春日東教会での31年を離れ、母校鎮西学院宗教主事として15年務めました。

 

 その間、福岡女学院に戻られた木ノ脇先生に鎮西学院の理事として助けてもらい、更に交友をいただきました。
この不思議な出会いと交友を与えてくださった神様にはつきぬ感謝をささげます。

 

2024年7月1日 山城 順 記