木ノ脇悦郎先生追悼
木ノ脇悦郎先生 6月5日逝去、
8月3日福岡女学院エリザベス・リー・ホールにて、記念会が開かれた。
私は炎暑のなか、体調低下のため、欠席となり、
私の文書を読んでいただくことになりました。
参加できなかったひとのため読んで頂ければと思い、
私のブログに掲載しました。
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木ノ脇悦郎先生 感謝を込めて
神学部に入り、特に成全寮での生活は、6年間の学びに肉がついたと思えるような大事な時間でした。
いろんなタイプの人が集まった二つ上のクラスは、わたしにとって魅力的でした。そのクラスの木ノ脇先生との出会いも、その後長く続き、私の春日東教会での31年は木ノ脇先生に彩られていたと思い感謝です.
ある日、福岡女学院の長い廊下で西垣先生と出会い、後任を探しているんだけ。ど、と聞かれ、木ノ脇先生の名前を言い、どんな人?、学生にとっていい人です。と答えました。まもなく、福岡女学院聖書科の教師として引っ越してこられ、春日東教会は温かさに溢れました.ひ
九州教区通信の委員をした時、奄美地区の取材を企画して、一週間現地訪問をしました。結論として、奄美地区の人たちが教区の集会に船を乗り継いできている。飛行機で来れるようにと要望して、実現したので、奄美地区の皆さんには感謝されました。
その時、名瀬教会の雨宮恵牧師は、木ノ脇先生の義兄に当たる丸山牧師の喜界教会、らい療養所佳南園石原牧師、瀬戸内教会佐藤俊一牧師の4ヶ所での伝道集会を計画してくださり、九州教区通信に報告しました。その途中、南端の瀬戸内古仁屋で文房具店をしていたお母さんが亡くなられて、弔問に連れて行ってもらいました。
戦後長い間、米軍の管理下にあった時代、この環境から飛び出したいと思った人たちの中に木ノ脇先生はおられました。まさに、わたしは木ノ脇ランドを巡っているようでした。
先生が哲学史の一科目で留年した時のことを、他に何もすることなく、一緒にいる下級生に負けてなるものかという思いで、一念発起してラテン語を勉強を始めた。その一年間の話は印象的でした.
それから、エラスムスの新約聖書ラテン語訳の各書の序文[エンキリディオン]を取り上げて、毎年キリスト教歴史学会で発表され、その前にどんな発表になるのかを私が聞き、福岡が会場になった時は聴講に行きました。エラスムス研究は荒井献先生に評価され、博士論文となり神学部の宝といえます。研究対象のエラスムスの生涯と、先生の人生には共通するものがあると思います。
ある時、先生が先生のお子さんと私の子と一緒に英語を教えようと言われ、じゃ私は宗教教育をと言って、その年のクリスマス礼拝ではアンサンブル、夜はキャロルでは道元さんの夜空になり響くフルートと一緒に回ったことでした。
先生が関学神学部に行かれた時は歓送会を開き、喜んで送り出しました。
私は子育てが終わった55歳で、春日東教会での31年を離れ、母校鎮西学院宗教主事として15年務めました。
その間、福岡女学院に戻られた木ノ脇先生に鎮西学院の理事として助けてもらい、更に交友をいただきました。
この不思議な出会いと交友を与えてくださった神様にはつきぬ感謝をささげます。
2024年7月1日 山城 順 記