カンタータ2024🔼
🥕カンタータ2024
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🥕カンタータ2024
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🍅 ミニチャペルの履歴 № タイトル 日 付 視聴回数 |
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9.PCが古くなってWindos11付中古のHueletpaccardを購入 |
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8.新規ホームページができたので、他の二つを廃棄しようとおもったが、三つのサイトそれぞれに特徴があり、残して相互に活用することにした。 |
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7.旧β版「ワードプレス」(Cocoon)を入れて再利用、ブログ用に使う。20230725 |
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6.ホームページを新規「ワードプレス」(Twentyseventeen)に取り組み 20220805~20230605完成 |
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5.福岡市南区大橋に転居、翌2019年1月より「わたしたちのミニチャペル」として再生。 スケッチ、カンタータ集、ホームページ更新 横巾750pxに拡大 -27.665 20220602 |
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4.スマートフォン対応を考慮してリニューアル 27.665 27.665 20220204 |
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3.新規ドメイン minichapel.jp 1Gから10GにUP 容量を拡大 -20.161 20211008 |
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2.アクセス 更新11.000アクセス。ーーーーーーーーーーーーーーー20200420 |
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1.春日東教会時代「ミニチャペルパルーシア」開設1980年代9.000回- 20200104 |
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バッハの歌詞作者 論文より
バッハの歌詞作者
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小島芙美子 東京藝術大学 古楽研究科(バロック声楽)博士論文 J.S.バッハの
カンタータBWV51とBWV199における 技工的・劇的表現を巡って ー当時の女
性ソプラノ歌手の活躍の観点からー抜粋
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ソロ・カンタータ ソプラノ. ソロ5曲 BWV199,52,82,84,51
199は、ワイマール、ケーテン,ライプツィヒで計4回再演された。
BWV82は1727年来6回の再演が行われている。
ソロ・カンタータ・アルト 5曲 BWV35 54 82 169 170
ソロ・カンタータ・テノール 1曲のみ BWV55
ソロ・カンタータ・バス BWV56 82
ワイマール時代(1708-1717) 毎週のカンタータ作成は, 福音書と使徒書簡の聖句
に添った台本を手元に準備することから始めた。
歌詞作者が確認できるのは
BWV199 Gottesfaliges Kirchen-opffer (1717)
BWV84の歌詞はピカンダー Christian Friedrich HenriciPicander (1700-1764)
「1年分の日曜・祝日のためのカンタータ集」上記BWV199,52,84,51は、
16世紀、17世紀に作られたコラール歌詞が含まれている。 (1728)
レームスの詩 10曲 BWV13,16,32,35,54,110,151,170,199,57 。
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※約200曲のカンタータを理解しようとする時、各日曜日に割り当てられた聖
句が表している、クリスマスの喜び、イエスの十字架によって想起される人の罪
と苦悩、復活の喜びと新生の希望など教会暦による区分が基本になっている。
さらに、トマス教会での27年間礼拝説教の前・後に割り当てられた20~30分の
時間内で、歌詞の繰り返し、またフーガや、ダ・カーポによる時間の調整法はバ
ッハの音楽上の発展、作曲上の転機となったと言える。
わたしのささやかなカンタータ和訳による再現は、ただ日本語に転記するのでは
なく、教会暦に区分された聖書のことばの再現であり、バッハのカンタータで
は、歌詞作者とのコラボ、事情によってはトマスコアの合唱がなく、
ソプラノ、アルト、テノール、バスが合唱に変わるソロを歌っている.
というように、
ブログではできる限り区分して表現しようと思っています。
コラールの歌詞の起源 A.シュヴァイツアー 「コラール歌詞の起源」は、BachCantata Website(バッハ カンタータ ウェブサイト)」に掲載されたA.シュヴァイツアーの論文(1908)です。キリスト教の初期からバッハの時代まで、讃美歌の歌詞の歴史を記したものです。ドイツ語で書かれたものをGoogle翻訳を利用して、私の理解のために要約したものです。 目次 |
マタイ受難曲 BWV244 マタイ受難曲 全68曲 | ||
第一部 1-30 | ||
01.合唱 1 | ||
02.イエスを殺す計画 2-4b | ||
03.ベタニヤで香油を注がれる 4c-8 | ||
04.最期の晩餐 9-13 | ||
05.オリブ山にて 14-17 | ||
06.ゲッセマネの祈り 18-25 | ||
07.捕縛 26-29 | ||
08.アリア 合唱 30 | ||
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09.大祭司の審問 31-37 | ||
10. ペトロの否認 38-40 | ||
11. ユダの最期 41-43a | ||
12. 訊問 43b-50d | ||
13. 判決 50e-54 | ||
14. 十字架 55-60 |
パロディ
バッハは一度作った曲を再利用して別の曲を作っていた。
それはパロディと呼ばれている。
多い時は本BWV36「喜び高く舞いあがれ」のように1曲から計3曲も作った。
この4曲は「パロディ」と記されている。
wikipediaによると「パロディ」は、他者の作品を模倣,作り替え、盗作,盗用、許可なき引用など、 著作権侵害という悪い意味で使われることが多い。
バッハは自分の曲を盗作などしないけど,と思った。
そこで、パロディと扱われているBWV 36の4曲の一群を検証しようと思った。
BWV 36の原曲は失われて!ない。
が、a.b.c.で区別されている再利用した3曲を下記のように表にすると
次のようにほぼ原曲が見えてくる。
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[ 36 喜び 高く舞いあがれ 全8曲 ] 不明
36a 喜び空に舞いあがれ 全9曲 結婚祝
36b 喜びがわきあがり 全8曲 就任祝
36c 喜び高く舞いあがれ 全9曲 誕生祝
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問題はBWV 36の原曲が「ない」と言うこと。 晩年のバツハは眼の病気で二度手術をしたが、かえって死をはやめ、亡くなると、仕事場を次期カントールに明け渡さなければならず、楽譜,書籍一切が運び去られた。 ある人が肉屋の包み紙に使われていた楽譜を発見し、まとめて買い取った。(小説バッハ、フランク,佐藤牧夫訳,1971、音楽の友社)。
と言うように,散逸した楽譜は長年かかって集められたが、多くが失われた。
1723年にトマス教会カントルに就任したバッハは、最初に、3年間1サイクルとする教会暦により、彼のカンタータ形式(6~8曲、15~20分の持ち時間を説教の前と後に分ける形式)を確立し、3年分を作り,その後の基礎にした。
バッハは年間60曲のカンタータを作曲し,演奏した。すると、在職27年x60曲=1200曲となる。が、現存する220曲はあまりにも少なすぎる。
BWV 36 喜び高く舞い上がれは不明であるが、彼が再利用した曲をよく見比べると原曲の大半はわかる。
パロディとして作られたBWV a.b.c.三曲の共通項を3点ほど上げよう。
1.歌詞を抜いた各曲の楽譜は、ほぼ同一である。
2.構成:アリア 第3曲アリア、第5曲アリア、第7曲アリア
3. 朗唱:第2,4,6。朗唱は、結婚,就任、記念など目的が異なるので、いくつかのパターンで歌われる。
このように元曲を再利用して作られたことが認められる。
次に、失われたBWV 36を再建してみよう。
原曲
0.BWV36 喜び高く舞い上がれ (Schwingt freudig euch empor) |
本曲BWV36は、原曲の所在は不明となっている。
構成 ————————-
共通の楽器: オーボエまたは,フルート、 1,2バイオリン ビオラ 通奏低音(ビオロンチェロまたはオルガン)
ボーカル:ソプラノ、アルト,テノール,バス
譜面: 共通楽譜 ————-
1、BWVa,b,c,の三曲は歌詞抜きの楽譜はほぼ同じ。
2.曲の構成 第1曲合唱、第2曲朗唱、第3曲アリア、第4曲朗唱、第5曲アリアと合唱、第6曲朗唱、第7曲合唱・コラール、第8曲合唱。は第9曲がある。
第1曲と第8曲は103小節の大きな大きな合唱である。
ここでにBWVa,b,c,の骨格がある。
2、第2曲、4、6曲の朗唱は、10小節、約1分の短いソロで、聖書のことば、誕生、結婚、就任などの内容をうたう。ギリシァ古典演劇に見られる口上や進行なとの伝統の形を継承している。
3、第3曲アリアは200小節、5~6分、「愛は優しく歩み寄り」など、
短い歌詞をフーガで繰り返し,それをさらにダ・カーポで繰り返し2倍にする。他に、第3曲、5曲、7曲、9曲。高音やメリスマなどソリストの技量が求められる。
4、第4曲朗唱、原曲BWV 36のように通常礼拝のカンタータは朗唱は教会暦に定められた聖句の中から歌詞を作る。1分未満、10数節。
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(以下、BWW36a,b,c,そして原曲の順)
1.BWV36a 喜び高く空を舞う (Steigt freudig in die Luft) |
1726年11月30日 アンハルト・ケーテン候レオポルトの2番目の妻、候女シャーロット・フリーデリケ・アマリアの24歳の誕生祝。歌詞は、ピカンダーの1727年刊の著書「Ernst-Schertzhaffte und Satysche Gedichte,Teil1」の中の「Steigt freudig in die Luft.」 アンハルト・ケーテン 侯爵、侯女 |
2.BWV36b 喜びが湧き上がり (Die Freude reget sich) |
1735年ライプツィヒ大学学長に就任したヨハン・フロレンス・リヴインス(Rivins)の就任祝 |
1723年に着任し、毎週のカンタータ作成と結婚式や葬儀のための作曲演奏と多忙であった。この仕事の上で、よき理解者と助けは命綱のように大事だったと思われる。このBWV 36の三曲のうちの2曲はそのような人脈の深さを感じることができる。Philuris (フィラリス)-Lyre lover (竪琴
愛好家)?Law lover
BWV36c 喜び高く舞い上がれ
1735年10月 すでに1730年にトーマ学校70代校長に就任していたヨハン・マティウス・ゲスナーの40歳の誕生祝 |
3.BWV36 喜び高く舞い上がれ (Schwingt freudig euch empor) |
1736ライプツィヒ 待降節1 ローマ13:11-14 ————————- 1725年の原曲を元に 歌詞台本;ピカンダー 1.3.5.7,パロディ) |
1725年の待降節に「喜び高く舞い上がれ」はイエスの誕生を待ち望む人たちの舞い上がる喜びを表した曲である。この日,教会暦に指定されたイエスのエルサレム入城は受難節の記事であるが、ホサナの歓喜の声に迎えられるイエスは(マタイ21:1-9)、誕生を準備して待つ待降節第1日曜日の礼拝に用いられた。
これに、今こそきませ,異邦人の救い主(1524年ルター)よりコラール「いざ来ませ異邦人の救い主を」更に、「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」(ローマ : )の聖句を朗唱。
「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。」(マタイ21:1-9)のイエスのエルサレム入城を待降節のイエス誕生のテーマに重ねている。
バッハの楽譜 トマス教会カントルになる前と後では、楽譜の書き方が違うのではないかと思うようになってきた。 ワイマールやケーテン時代に書いた祝祭曲やカンタータは、トマス教会音楽監督に落ち着いて、礼拝説教前後の合計15~25分の持ち時間で、1・合唱,2,朗唱,3,アリア、4,朗唱,5,アリア,5,コラールという定式では楽譜は新しい形式になっていった。それは、聖書解釈さえわかれば計画的にでき,扱いやすい。 しかし、教会外で演奏する式典,葬儀,追悼、就任式、マリアの祝日、ヨハネの洗礼、聖ミカエルの祝日、宗教改革記念日などは、短すぎたり、長すぎたりまちまちで,その半分は「世俗音楽」と言われている。また、トロンボーンの元祖トロンバや羊の角発祥のホルンの元祖コルノ・ダカッツチャなどが入り賑やかになる。しかし、通常の礼拝では、素朴なアンサンブルが組まれた。 「小説バッハ」によると,小さい頃父バッハの音楽を世俗音楽かどうかと議論する人たちがいて,家に帰って父に言うと、父は怒って、「世俗」とか「聖なる」って、今後言ってはならない、と強く言われた。それではなんと言えば、良いのですかと聞くと、「命の音楽(viva musicaだったか?)」というエピソードを書いていた。(「小説バッハ」フランク,佐藤牧夫訳 、音楽の友社,1971)本曲BWV36c ピカンダーの誕生祝いのカンタータは、は何度も書き直しただろう、 全120小節、約4分くらいの曲だが、4/4小節の流れの中に、「2/2拍子、テンポ110の小節に変則的に一つまた二つと挿入」されて、musescoreという楽譜作成ソフトは問題なく受け入れるが、次の日本語歌詞を歌わせる。段階で使うCeViO(チェビオ)は、4拍の中に2拍という変則的な挿入を拒否する。この原因がわかるのに二日かかり,その対策に1日かかった。3回諦めて、別の曲に変えようと決心して、夜中に、別の種類の楽譜で試してみてはと言う閃きがあり,Mxlミュージックファイルでやってみたり,またべつのcap.ファイルを試したがダメだった。最後に癖が強いMidiファイルに歌詞群をコピーして良かったので,ochestra群を分けてコピーしたら,うまくいったかもしれない。と言うのが昨夜の段階で,今朝どうだったか確かめることにしている。聴いてみると前よりスッキリしていい音になっているので、成功であって欲しいと言うところです。 |
結婚式カンタータ 34a,120a,195,196,197,202,210,216
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同じテーマで書いた文章を、ボタンひとつであっけなく消してしまった時の残念無念、そろそろ残念な気持ちが薄れてきたようで,勇気を出して、心機一転,もう一度書いてみようと思います。
このテーマは牧師時代の、日曜日の礼拝順序と集会等の案内報告、教会員の消息など「週報」に書いて,
印刷して、玄関のボックスに入れて日曜日を迎えるという、ガリ版印刷の31年間から始まるものです。
一枚の週報を作るために印刷メディアがどんなに変ってきたかを思えば、よくもまあ,と思うほどで、
ガリ版」から,現在のPCとプリンターに至るまでの記憶をたどります。
ロウを塗った紙をヤスリの上に乗せて、鉄筆でロウをはがし、そのうえからローラーにつけたインクで、下に置いた紙に写して印刷します。ロウの紙には一面に線が引いてあり、四つのマス目に一文字書くようになっています。ここで字を書くのが下手な私は苦労するわけです.どうしたら、上手く描けるのか。
人が書いたものを、あんなにかけたらいいのに、と羨ましく思い、KW先生は本当に上手でした。私が見たガリ版文字の中で最高でした。
その四角形四マスを縦,横三分の一を偏に、縦のかんむりを三分の一にすれば、より綺麗に書けるなど、いろいろ考えました.
万国博覧会が終わって、経済は上り坂、高度成長期のスタートラインくらいだったのか、輪転機印刷機が出て,輪転機から印刷物が高速で出来上がり、大いに時間短縮になりました。が,ムラなく仕上がるためには要領が入りました。また,その頃はA4よりも一回り小さいB5でした。B5はとにかく、その半分のB6版と小さくなると,紙が離れなくてトラブルが起こり,対処するのに手間がかかるようになりました.
アメリカ製のデュプロは用紙に鉛筆や活字で叩いてカーボンを塗りつけて、揮発油で溶かして輪転印刷するというもので、カラーでした。
4.アルバイト
教会に来るようになったKBさん。鹿児島出身で、東京に出てデュプロ事務機に勤め、ノーハウを得て福岡で店を持つことになった。私も週に一日手伝いに行くようになり、飛び込みでレターケースを売るようにと言われて、ちょっとどうかなとも思ったけれど、使いそうな店に飛び込みで何軒か尋ねたが、一台も売れなかった。
高度成長期に入って、大型店が建つようになったが,職を失う人も結構いて、長崎県から職探しにきた青年を教会に泊めて話をきいたことがある。
私も思うようにはできなくて店の手伝いは立ち消えになった。
けれども、KBさんは下取りした印刷機類を月賦で譲ってくれることになり,それから色々な事務機を下取り機械で経験することになった。教会には、事務機費を出してもらう余裕はなかったので、月賦代金を支払う関係が、旧印刷機時代が終わるまで続いた。
縦横6ミリくらいの鉛の棒、標準漢字の数はあったと思う,逆さま文字を見て字を選び、うらがわのテコで打ち出して、蝋を敷いた紙や改良された用紙に文字を打ち出して、輪転機印刷をする。印刷会社で作っていた印刷物が個人でできるようになった。裏返し文字でも覚えてしまったが,目が疲れた。
そのうち、文字をプリントした文字板を張り、正面から見える文字はありがたかった.教会の週報も活版文字で見れるようになった。印刷収入を考えたが、中古品なので絶えず修理をしながら、せまりくる時間と戦い、何をしてるんだろうかと自問しながら、軌道には乗れなかったなぁ。
春日東教会
25周年記念誌
1984.4.5
印刷したものは
週報印刷 一年 51 (週) x 50枚、説教(毎年-前期•後期)、誕生カード、クリスマスカード,総会資料
教科書:福岡女学院短大,大学,のちに西南学院大学ー毎年テーマを変えて教科書を作り500円で販売した。
大学闘争でいつまでも古いノートを読んで授業する老教師が槍玉に上げられて,授業管理は私学補助金と引きかに文科省の手に渡った。それで批判側にいた私は教科書は自分の手でという思いを,無理しながら保っていた。
前期・後期 毎年新課題で
九州教区事務所 主事を数年 教会,牧師住所録 教区,教団、県庁宗教法人課、手続き書式等
B4からA4へ
6.ワープロからコンピュータへ 1980年代 ——–
コンピュータは、ワープロも、八つの点(ドット)で文字を作っていた。それでは使い物にならなかった.また20 万円という金額を生まれたてのワープロに使うわけには行かなかった。エプソンやアップルも試してみたが、毎年2回ほど新製品を出すPCには、振り回されたという記憶しかない。
12インチのフロッピーディスクが3000円もしていたなんて、書いておかなければ忘れてしまいます。
7. WWW ネットワーク 1980年代末世界を一回りするネットワークは、情報を パッケージに集めて送る方法がアメリカ軍事情報の関係で開発された、
コンピュータの役割が世界を繋ぎ、隣の家にいるかのような近さに変わっていった.
私は1980年代の末に、アサヒネットに入り、メールとホームページを始めた。時代はどんどん変わっていった。当初から長い間,スマートフォンの普及までーホームページを見てくれる人はいなかった。が、自分の書庫としても絶えず、書き込んでいた。それが今chapblogとなって、再生しています。8. そしてオープンソース
アップル、マイクロソフトは一時代を作りあげ、大きな存在だった.この生き方に意義を持つ人たちがその何倍も多くいるようだ.スエーデンなど北欧の学生たちが始めた、データを公開し,共有してコンピュータを作り上げた.無料の「オープンソース」のシステムやソフトがあっというまにひろがり、毎年更新して法外利益を得てきた巨大な会社が終焉を迎えている。どんな強靭なシステムを作っても穴・バグか見つかり攻撃してくるからである.オーブソースは秘密にするものがないので、攻撃しても利益にはならないようだ.
今回一年半かかったホームページとブログは、オープンソースで、秘密なし,平等,自由、つまり個人のプライバシーを基本的に守る。こういう思想によって、できた。利用者が増加している。
春日東教会
40周年記念誌
1999.3.1
現在
私が使っているオープンソースのシステムは、このwordpresでつくった。
Libera Officeはオープンソフトで、マイクロソフトオフィスのワード,エクセル、パワーポイントと同じシステムを、無料で提供している。
私が職場で使っていたOfficeは2003年でサポート終了となり、買い替えなければ,動かない。
データも全て無効となった.マイクロソフトというシステムソフトは完成度を極め、もう開発するところは無くなってしまった.年間契約とか、月割,日割りとあらゆる手で集金組織に成り果てた。それでも、穴を見つけて攻撃され,対応に苦慮している。
動画制作のOpenshotも助かっている.それゆえに、日々、内容が充実した作品を見て、作りに精進しようという気持ちを強めている.
このオープンななかまたちが世界中で縦横に通じる通信時代を開いてくれる。そのように,期待し,確信している。
わたしもwordpressの恩恵を受けて、世界に翼を広げて交信したいものです。