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カンタータ2024🔼

カンタータ2024🔼

 

  🥕カンタータ2024

      🍅 カンタータ 
     2024年
    
     
     
42 22  イエスは弟子たちを集めて言われた
1107
41 147 心と口と行いと命で
1107
40 23  あなたはまことの神、ダビデの子
1105
39 29 われら神に感謝し
1101
38 27  終わりの時を誰が知る
1031
37 20  おお永遠雷のことば
1030
36 08  愛する神 私はいつ死ぬのでしょうか
1108
35 19 かくて戦いがおこり
1104
34 50 今や、我らの神の救いと力と支配は 1102
33 49 行ってあなたを慕い求める 11102
32 80 神は高きやぐら
1028
31 26 人の命はいかに儚くむなしいことか
1026
30 18 天から雪降り、雨下り
1025
29 31 天は笑い地は歓喜する
1025
28 13 ため息も涙も数えきれない
1024
27  7  われらの主キリストはヨルダン川に来たり 1024
26 10.わが心は主をあがめ
1022
25   5 どこにわたしは逃れるべきか
1021
24   3 ああ神よ多くの思い煩い
1104
23   2 ああ神よ天からみて
1027
22 200 わたしは主の御名を言い表す
1009
21 194 最高の願いを喜び祝い
1009
20 198 王妃よ、なお一条の光を  
19 197 神はわれらのよりどころ  
18 162 私は婚礼に出る今  
17 120 神よ、あなたはシオンの静けさの中で  参事会交替式 0514
 16  29 われら神に感謝し 0510
15 036 よろこび高く まいあがれ 0405
14 36a 喜び空に舞いあがれ 05
13 36b 喜びがわきあがり 0503
12 36c 喜び高く舞いあがれ 0422
11 195 ただしい人に光さし出で         結婚式カンタータ  
10 84  わたしはわが幸に満ち足りている  0330
9 007 主キリストヨルダン川に来たり  洗礼者ヨハネ記念日  0326
8 013 ため息も涙も数えきれない 0319
7 049 行ってあなたを慕いあえぐ  0308
6 009 私にきた救いは 0308
5 186  魂よ怒ることなかれ 0224
4 199 わが心 血の海を泳ぐ 0208
3 163 人はそれぞれ分に応じて 0127
2 114  ああ愛するキリスト者よ雄々しくあれ 0121
1 089 いかにすべきかエフライムを 0114

🌸🌺🌼🌝🌿🪴🎋🔥🌈🍎🍇🍅🥕🥯

ミニチャペルの履歴

ミニチャペルの履歴

   🍅

  ミニチャペルの履歴    №  タイトル  日 付  視聴回数

9.PCが古くなってWindos11付中古のHueletpaccardを購入

8.新規ホームページができたので、他の二つを廃棄しようとおもったが、三つのサイトそれぞれに特徴があり、残して相互に活用することにした。
a.新ワードプレスを「minichap.com」(ミニチャップ・コム)として
 チャペルアワーを構成している。

b.ワードプレスお試しβ版を「blog 草の花」として残した。
c.旧FC.com「minichapel」 homopqgebuilderでつくった。        20240300

7.旧β版「ワードプレス」(Cocoon)を入れて再利用、ブログ用に使う。20230725

6.ホームページを新規「ワードプレス」(Twentyseventeen)に取り組み

20220805~20230605完成

5.福岡市南区大橋に転居、翌2019年1月より「わたしたちのミニチャペル」として再生。 スケッチ、カンタータ集、ホームページ更新 横巾750pxに拡大 -27.665

 20220602 

4.スマートフォン対応を考慮してリニューアル       27.665   27.665   

   20220204              

3.新規ドメイン minichapel.jp  1Gから10GにUP 容量を拡大 -20.161

  20211008 

2.アクセス  更新11.000アクセス。ーーーーーーーーーーーーーーー20200420
    大学に勤務した時代、アクセス回数 5554 回で休眠した。—–20200624      

1.春日東教会時代「ミニチャペルパルーシア」開設1980年代9.000回-   20200104

   
おはようバッハ 1-2

おはようバッハ 1-2

 

おはようバッハ 1-2 おはようバッハ 1-2「わたしは今や80歳」 

旧約聖書のダビデの物語に、先代のサウル王の後継争いに巻き込まれたダビデが、

国境周辺を逃げ回っていたことがあります。

追跡する者がいれば、タビデを親身になって助けてくれた人もいました。
 やがて追求していたアブサロムが死に、ダビデはエルサレムに戻って王の地位を確立し、新時代を迎えた。 その時に、お世話になったバルジライに、エルサレムで一緒に暮らそう。こう言います。ところが、彼は「わたしは今や80歳、父と母の墓のあるこの的で死にたいのです。息子を連れて行ってください。」と丁寧に断った。この箇所をひいて、この曲を作りました。ここにもう一つのバッハとミユルハウゼン教会の事情がありました。  この曲は、バッハは1757月5月28日ミユルハウゼン市の聖ブラジス教会への正式な任命を受けた。 ところがその3日後にミユルハウゼン市の大火があり、400軒が火災に遭い、三つある教会の二つが炎上した。市長舎のモルタル塗りの屋根から出火したものだった。
 結婚したばかりのバッハは荷馬車を借りて引っ越してきました。 この混乱の中で、市の参事会議員たちは市の復興に尽くしたのでしょう。ミユルハウゼンは神聖ローマ帝国の直轄市で、6人の市長と高齢者と若者の46人が選ばれて一年任期で交代する。その交替式がバッハの初仕事になった。 大災害からの復興は至難の業でした。それに、若いバッハにとって、参事会議員の支持を受けることは、どこに行っても不可欠なことだったという事情も見えてきます。 本曲は、大きな感動が共有された。 その証に参事会は本曲の楽譜を200冊印刷して、関係者に配布され、現存する一曲です。
https://youtu.be/cADC61Oj_-o?si=DdQCRaEQkcAnSLKF
おはようバツハ-1

 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バッハの歌詞について 小島芙美子 東京藝術大学論文

バッハの歌詞について 小島芙美子 東京藝術大学論文

バッハの歌詞作者 論文より  

 

バッハの歌詞作者 

                                 

小島芙美子 東京藝術大学 古楽研究科(バロック声楽)博士論文     J.S.バッハの
カンタータBWV51とBWV199における   技工的・劇的表現を巡って ー当時の女
性ソプラノ歌手の活躍の観点からー抜粋

ーーーーーーーーーーーー

ソロ・カンタータ ソプラノ. ソロ5曲 BWV199,52,82,84,51
199は、ワイマール、ケーテン,ライプツィヒで計4回再演された。
BWV82は1727年来6回の再演が行われている。

ソロ・カンタータ・アルト 5曲 BWV35 54 82 169 170

ソロ・カンタータ・テノール 1曲のみ BWV55

ソロ・カンタータ・バス BWV56 82

ワイマール時代(1708-1717) 毎週のカンタータ作成は, 福音書と使徒書簡の聖句
に添った台本を手元に準備することから始めた。
歌詞作者が確認できるのは

BWV199 Gottesfaliges Kirchen-opffer  (1717)

BWV84の歌詞はピカンダー Christian Friedrich HenriciPicander (1700-1764)

「1年分の日曜・祝日のためのカンタータ集」上記BWV199,52,84,51は、

16世紀、17世紀に作られたコラール歌詞が含まれている。 (1728)

レームスの詩 10曲 BWV13,16,32,35,54,110,151,170,199,57 。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※約200曲のカンタータを理解しようとする時、各日曜日に割り当てられた聖

句が表している、クリスマスの喜び、イエスの十字架によって想起される人の罪

と苦悩、復活の喜びと新生の希望など教会暦による区分が基本になっている。

 さらに、トマス教会での27年間礼拝説教の前・後に割り当てられた20~30分の

時間内で、歌詞の繰り返し、またフーガや、ダ・カーポによる時間の調整法はバ

ッハの音楽上の発展、作曲上の転機となったと言える。

わたしのささやかなカンタータ和訳による再現は、ただ日本語に転記するのでは

なく、教会暦に区分された聖書のことばの再現であり、バッハのカンタータで

は、歌詞作者とのコラボ、事情によってはトマスコアの合唱がなく、

ソプラノ、アルト、テノール、バスが合唱に変わるソロを歌っている.

というように、

ブログではできる限り区分して表現しようと思っています。

コラールの歌詞の起源  A.シュヴァイツアー

コラールの歌詞の起源  A.シュヴァイツアー

 

コラールの歌詞の起源  A.シュヴァイツアー

「コラール歌詞の起源」は、BachCantata Website(バッハ カンタータ ウェブサイト)」に掲載されたA.シュヴァイツアーの論文(1908)です。キリスト教の初期からバッハの時代まで、讃美歌の歌詞の歴史を記したものです。ドイツ語で書かれたものをGoogle翻訳を利用して、私の理解のために要約したものです。

目次
1. 宗教改革以前の讃美歌
2. 最も古いイースターの讃美歌は12世紀までさかのぼる
3.14世紀と15世紀にそのような広まりを見せた神秘劇も、ドイツの讃美歌の受容を助けた。
4. 16世紀の改革は教会の扉をドイツの詩に開放した。
5. 最初のドイツの讃美歌集 宗教改革以降
6. ルターによる讃美歌
7. 前の時代からの遺産を継承発展する時期から創作へ
1.宗教改革以前の讃美歌
初期のキリスト教会では、イエスが弟子たちと賛美の歌を歌っていた。(ユダヤ教の)
初期のカトリック教会では会衆が礼拝中に歌に直接参加するのが習慣でした。その時、頌栄、アーメン、キリエ、そして讃美歌を歌っていました。6世紀の終わりと7世紀の初めにはアンブロシウスによって会衆が参加するようになっていた。
しかし、グレゴリウスの改革によって、讃美歌は会衆を代表して司祭が歌うようになりました。 (僧侶がお経を読むように)
ところが、ドイツでは、この改革は完全には実行されませんでした。彼らがキリエとアレルヤを歌う時、ドイツ語の詩を入れる習慣になりました。ドイツの讃美歌は礼拝奉仕の役割を獲得しました。こうして教会で歌われるすべての讃美歌の終わりのオブリガートを形成しました。これらの曲は「キリエの曲(Kirleisen)」と呼ばれていました。2.最も古いイースター讃美歌は12世紀までさかのぼります。「キリストは死からよみがえられた ハレルヤ
慰められるキリストを われらはみな喜びまつる キリエライス」3.14世紀と15世紀にそのような広まりを見せた神秘劇も、ドイツの讃美歌の受容を助けた。ラテン語とドイツ語が混在するクリスマスのゆりかごの歌には、非常に珍しい魅力があります。それらの詩は、想像できる最も原始的な種類のものです。言葉は、音や揺れるリズムよりも感覚的にまとめられています。それでも、彼らを取り巻く明るいクリスマスの魅力は、消えてしまった世代と同じように私たちに影響を与えます。バッハのオルガンコラールには、これらの古いクリスマスソングが2つあります。dulci jubiloでは、
Nun singet und seidfroh。
Unsers Herzens Wonne
Liegt in praesepio、
Und leuchtet als die Sonne
Matris ingremio。
Alpha et O、Alpha et O.(V、Nr。35。)Puer natus in Bethlehem、 In Bethlehem、 Unde gaudet Jerusalem、 Jerusalem。 ハレルヤ、ハレルヤ。 Ein Kind geborn zu Bethlehem、 Zu Bethlehem、 Des freuetsichエルサレム。 ハレルヤ、ハレルヤ。 Cognovit bos et asinus、 Asinus、 Quod Puer erat Dominus、 Dominus。 ハレウジャ、ハレルヤ。 Das Ochslein und das Eselein、 Eselein、 Erkannten Gott den Herren sein、ハレルヤ、ハレルヤ。 (V46)
やがて、ラテン語の讃美歌はドイツ語に翻訳され神聖な詩として受け入れられた。クレドー信仰告白箇条、十戒、十字架上の七つの言葉、また様々な詩篇も讃美歌の歌詞に組み込まれました。4.16世紀の改革は教会の扉をドイツの詩に開放した。
14世紀と15世紀のラテン語の讃美歌、詩篇、典礼の聖歌、聖書の断片は新しい教会のために修正し、変更し、改善し、新しい讃美歌に作り直された。5.最初のドイツの讃美歌集 宗教改革以降
1524年に
新しい讃美歌(Erfurt Enchiridion)が出版された。その26曲の中には、詩篇の8つのドイツ語訳がある。これには、詩篇130「深い淵からあなたを呼ぶ」(BWV131)など一連の讃美歌、2つのイースター讃美歌が含まれています。「キリストは死の縄目につかれた」(BWV4)と「死に勝利した我らの救い主イエスキリスト」、10戒の古い讃美歌、Paul Speratusによる3つの讃美歌、有名な「救いはわれらに来たり)」など。A 中世の聖歌
(1)イースターの讃美歌 「キリストはよみがえられた」
キリストは死の縄目につき(カンタータBWV 4)
ラテン語の讃美歌、詩篇、典礼の聖歌、聖書の断片。
(2)クリスマス
dulci jubilo(No.35)、ベツレヘムのプエルナトゥス(V、No.46)。
(3)「中世の曲-言い換え」
(十字架上の7つの言葉 V9)
ダイがGebot zehnダイheilgenをシンド(V、12号。、VI、番号19および20)。
ファーターアンサーIM Himmelreich(V、番号47及び48; VII、番号52および53) 。
WIR glauben全てeinenゴット(VII、番号60、61及び62)。
(4)讃美歌は、ラテン語から翻訳。
「われらキリストを褒めたたえ」、「キリストはよみがえられた」、「われら主なる神をほめ」、「来ませ 聖霊よ」、「今こそ来ませ異邦人の救い主」6.ルターによる讃美歌。
(1)翻訳。
イエス・キリストわれらの救い主なる神 情熱の讃美歌。VI30~33
クリスマスの讃美歌
「イエスキリストあなたを賛美」
(2)聖書を歌詞とした
「深い淵から私はあなたを呼ぶ」詩編130:(BWV 38)
「神はわがやぐら」詩篇46. (BWV 80)
「私は安らかに喜びを持ってかしこに行こう」シメオンの歌・ルカ2:29)
(3)オリジナル讃美歌
「われらの主キリストヨルダンから」(カンタータBWV 7 )
「天の高みから」「天から御使来る」7.前の時代からの遺産を継承発展する時期から
讃美歌を創造的に作るようになった。 16世紀末から
ドイツの詩全体が宗教的な道へと向かった。というのは
ドイツは30年戦争で、国が荒廃し、破滅の危機に瀕した。生き残ったほのは宗教であり、そのだった。詩はその懐に避難した。ドイツには、その切実な必要性から、世界で比較すものがないほどの宗教的な詩を生み出した、「詩篇の素晴らしささえ青ざめるほどです。」とシュヴァイツツアーは言っている。この時代の讃美歌は時代を写す鏡といえる。
1613年、疫病で荒廃したとき、ドイツの東部でV.ヘルベルガーは、「ヴァレットウィルイッヒディルゲベン、デュアルジファルシェウェルト」(VII50,51)を歌います。
M.リンカート(1586-1649)「今こそ、みな神に感謝しよう (nun danket alle Gott)」(VII43)は、1648年に平和の結論を鳴らしている間に作曲されました。ヨハン・リスト(1607-1667)は、658曲を作曲しました。他に讃美歌集で生き残った
パウル・フレミング(1609-1640)、
ヨハン・ヘルマン(1585-1647)、
およびシモン・ダッハ(1605-1659)がいます。また、これらの讃美歌作家の中には、フィリップ・ニコライ(1556-1698)とヨハン・フランク(1618-1677)の2人の神秘家がいた。
バッハは、ニコライの「明けの明星のいかに美しいかな」の歌詞でカンタータ(BWV 1)を書き、もう1つは彼の「起きよと呼ぶ声」の歌詞でBWV 140を書いた。
また、フランクの「イエス、わが喜び」の歌詞でモテットと2つのオルガンコラール(V31,V29)を作曲した。同じ詩人の「おお愛する魂よ自分を飾れ」(BWV180)を、またコラール幻想曲(VII49)をつくった。
しかし、感情の主観性と教訓的な視点が宗教詩に侵入し、それだけで教会の礼拝のための真の会衆の歌を作り出してきた素朴で単純な客観性を奪います。感情と言葉遣いが微細になって衰退期が始まっているとき、パウル・ゲルハルト(1607-1676)があらわれた。8.ゲルハルトからバッハへ
ゲルハルトは、この衰退を確認するかのように現れた。彼はルター派正統派の信者であり、驚くべき速さで真の改革をもたらした。
バッハはこのゲルハルトを崇拝者し、彼のカンタータの詩を繰り返し採用している。マタイ受難曲(BWV 244)では12曲のコラールの中で、「血潮滴る主のみかしら」の曲を5曲(15,17,44,52,62)で使用していることからわかります。
敬虔主義は確かにいくつかの精神的な詩を生み出しました。しかし、バッハにとって、それほど重要ではありません。バッハは、讃美歌の本の中から過去の豊富な歌詞を用いた。
彼が自由に使えた資料は、小さなエアフルト1524年の讃美歌集から26曲用いた。バブストの讃美歌集は初版では101曲、ベルリンでほぼ1世紀にわたって使用されていたクリューガー本は、初版(1640)では250曲、第44版(1736)では1300曲、リューネブルク(1686)に2000曲と増加している。ライプツィヒで保存されている目録から、ライプツイヒ讃美歌集の8巻がバッハの所有物であったことがわかります。しかし、18世紀の後半には、もうバッハのカンタータと、その熱気は存在しませんでした。歌詞を持ったさんびかは「讃美歌」とした。

マタイ受難曲 x

マタイ受難曲 x

マタイ受難曲     BWV244 マタイ受難曲 全68曲                                                                        
    第一部  1-30
01.合唱  1
02.イエスを殺す計画 2-4b
03.ベタニヤで香油を注がれる 4c-8
04.最期の晩餐 9-13
05.オリブ山にて 14-17
06.ゲッセマネの祈り 18-25
07.捕縛 26-29
08.アリア 合唱 30
  第二部 31-68
 
09.大祭司の審問 31-37
10. ペトロの否認 38-40
11. ユダの最期 41-43a
12. 訊問 43b-50d
13. 判決 50e-54
14. 十字架 55-60
パロディ

パロディ

パロディ

バッハは一度作った曲を再利用して別の曲を作っていた。

それはパロディと呼ばれている。

多い時は本BWV36「喜び高く舞いあがれ」のように1曲から計3曲も作った。

  この4曲は「パロディ」と記されている。

wikipediaによると「パロディ」は、他者の作品を模倣,作り替え、盗作,盗用、許可なき引用など、 著作権侵害という悪い意味で使われることが多い。

 バッハは自分の曲を盗作などしないけど,と思った。
そこで、パロディと扱われているBWV 36の4曲の一群を検証しようと思った。

BWV 36の原曲は失われて!ない。

が、a.b.c.で区別されている再利用した3曲を下記のように表にすると

次のようにほぼ原曲が見えてくる。

ーーーーーーーー

[ 36 喜び 高く舞いあがれ 全8曲 ] 不明

36a 喜び空に舞いあがれ   全9曲 結婚祝

36b 喜びがわきあがり    全8曲 就任祝

36c 喜び高く舞いあがれ 全9曲 誕生祝

ーーーーーーーーーー             ーーーーーーーーーー

問題はBWV 36の原曲が「ない」と言うこと。  晩年のバツハは眼の病気で二度手術をしたが、かえって死をはやめ、亡くなると、仕事場を次期カントールに明け渡さなければならず、楽譜,書籍一切が運び去られた。  ある人が肉屋の包み紙に使われていた楽譜を発見し、まとめて買い取った。(小説バッハ、フランク,佐藤牧夫訳,1971、音楽の友社)。

と言うように,散逸した楽譜は長年かかって集められたが、多くが失われた。

1723年にトマス教会カントルに就任したバッハは、最初に、3年間1サイクルとする教会暦により、彼のカンタータ形式(6~8曲、15~20分の持ち時間を説教の前と後に分ける形式)を確立し、3年分を作り,その後の基礎にした。

バッハは年間60曲のカンタータを作曲し,演奏した。すると、在職27年x60曲=1200曲となる。が、現存する220曲はあまりにも少なすぎる。

BWV 36 喜び高く舞い上がれは不明であるが、彼が再利用した曲をよく見比べると原曲の大半はわかる。

パロディとして作られたBWV a.b.c.三曲の共通項を3点ほど上げよう。
1.歌詞を抜いた各曲の楽譜は、ほぼ同一である。

2.構成:アリア 第3曲アリア、第5曲アリア、第7曲アリア

3. 朗唱:第2,4,6。朗唱は、結婚,就任、記念など目的が異なるので、いくつかのパターンで歌われる。

このように元曲を再利用して作られたことが認められる。

次に、失われたBWV 36を再建してみよう。


原曲

 0.BWV36  喜び高く舞い上がれ  (Schwingt freudig euch empor)

本曲BWV36は、原曲の所在は不明となっている。

構成 ————————-

共通の楽器: オーボエまたは,フルート、 1,2バイオリン ビオラ 通奏低音(ビオロンチェロまたはオルガン)
ボーカル:ソプラノ、アルト,テノール,バス

譜面: 共通楽譜 ————-
1、BWVa,b,c,の三曲は歌詞抜きの楽譜はほぼ同じ。

2.曲の構成 第1曲合唱、第2曲朗唱、第3曲アリア、第4曲朗唱、第5曲アリアと合唱、第6曲朗唱、第7曲合唱・コラール、第8曲合唱。は第9曲がある。

第1曲と第8曲は103小節の大きな大きな合唱である。
ここでにBWVa,b,c,の骨格がある。

2、第2曲、4、6曲の朗唱は、10小節、約1分の短いソロで、聖書のことば、誕生、結婚、就任などの内容をうたう。ギリシァ古典演劇に見られる口上や進行なとの伝統の形を継承している。

3、第3曲アリアは200小節、5~6分、「愛は優しく歩み寄り」など、
短い歌詞をフーガで繰り返し,それをさらにダ・カーポで繰り返し2倍にする。他に、第3曲、5曲、7曲、9曲。高音やメリスマなどソリストの技量が求められる。

4、第4曲朗唱、原曲BWV 36のように通常礼拝のカンタータは朗唱は教会暦に定められた聖句の中から歌詞を作る。1分未満、10数節。
————————————–

(以下、BWW36a,b,c,そして原曲の順)

  1.BWV36a   喜び高く空を舞う  (Steigt freudig in die Luft)
1726年11月30日
アンハルト・ケーテン候レオポルトの2番目の妻、候女シャーロット・フリーデリケ・アマリアの24歳の誕生祝。歌詞は、ピカンダーの1727年刊の著書「Ernst-Schertzhaffte und Satysche Gedichte,Teil1」の中の「Steigt freudig in die Luft.」
アンハルト・ケーテン 侯爵、侯女
 2.BWV36b   喜びが湧き上がり  (Die Freude reget sich)
1735年ライプツィヒ大学学長に就任したヨハン・フロレンス・リヴインス(Rivins)の就任祝

1723年に着任し、毎週のカンタータ作成と結婚式や葬儀のための作曲演奏と多忙であった。この仕事の上で、よき理解者と助けは命綱のように大事だったと思われる。このBWV 36の三曲のうちの2曲はそのような人脈の深さを感じることができる。Philuris (フィラリス)-Lyre lover (竪琴
愛好家)?Law lover

BWV36c  喜び高く舞い上がれ

1735年10月
すでに1730年にトーマ学校70代校長に就任していたヨハン・マティウス・ゲスナーの40歳の誕生祝
 3.BWV36  喜び高く舞い上がれ  (Schwingt freudig euch empor)

BWV36 喜び高く舞い上がれ

036_01-300x169.jpg 1736ライプツィヒ
待降節1
ローマ13:11-14
————————-
1725年の原曲を元に
歌詞台本;ピカンダー
1.3.5.7,パロディ)

1725年の待降節に「喜び高く舞い上がれ」はイエスの誕生を待ち望む人たちの舞い上がる喜びを表した曲である。この日,教会暦に指定されたイエスのエルサレム入城は受難節の記事であるが、ホサナの歓喜の声に迎えられるイエスは(マタイ21:1-9)、誕生を準備して待つ待降節第1日曜日の礼拝に用いられた。

これに、今こそきませ,異邦人の救い主(1524年ルター)よりコラール「いざ来ませ異邦人の救い主を」更に、「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」(ローマ :  )の聖句を朗唱。

「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。」(マタイ21:1-9)のイエスのエルサレム入城を待降節のイエス誕生のテーマに重ねている。

聖トマス教会

バッハの楽譜
トマス教会カントルになる前と後では、楽譜の書き方が違うのではないかと思うようになってきた。
ワイマールやケーテン時代に書いた祝祭曲やカンタータは、トマス教会音楽監督に落ち着いて、礼拝説教前後の合計15~25分の持ち時間で、1・合唱,2,朗唱,3,アリア、4,朗唱,5,アリア,5,コラールという定式では楽譜は新しい形式になっていった。それは、聖書解釈さえわかれば計画的にでき,扱いやすい。
しかし、教会外で演奏する式典,葬儀,追悼、就任式、マリアの祝日、ヨハネの洗礼、聖ミカエルの祝日、宗教改革記念日などは、短すぎたり、長すぎたりまちまちで,その半分は「世俗音楽」と言われている。また、トロンボーンの元祖トロンバや羊の角発祥のホルンの元祖コルノ・ダカッツチャなどが入り賑やかになる。しかし、通常の礼拝では、素朴なアンサンブルが組まれた。
「小説バッハ」によると,小さい頃父バッハの音楽を世俗音楽かどうかと議論する人たちがいて,家に帰って父に言うと、父は怒って、「世俗」とか「聖なる」って、今後言ってはならない、と強く言われた。それではなんと言えば、良いのですかと聞くと、「命の音楽(viva musicaだったか?)」というエピソードを書いていた。(「小説バッハ」フランク,佐藤牧夫訳 、音楽の友社,1971)本曲BWV36c ピカンダーの誕生祝いのカンタータは、は何度も書き直しただろう、 全120小節、約4分くらいの曲だが、4/4小節の流れの中に、「2/2拍子、テンポ110の小節に変則的に一つまた二つと挿入」されて、musescoreという楽譜作成ソフトは問題なく受け入れるが、次の日本語歌詞を歌わせる。段階で使うCeViO(チェビオ)は、4拍の中に2拍という変則的な挿入を拒否する。この原因がわかるのに二日かかり,その対策に1日かかった。3回諦めて、別の曲に変えようと決心して、夜中に、別の種類の楽譜で試してみてはと言う閃きがあり,Mxlミュージックファイルでやってみたり,またべつのcap.ファイルを試したがダメだった。最後に癖が強いMidiファイルに歌詞群をコピーして良かったので,ochestra群を分けてコピーしたら,うまくいったかもしれない。と言うのが昨夜の段階で,今朝どうだったか確かめることにしている。聴いてみると前よりスッキリしていい音になっているので、成功であって欲しいと言うところです。
結婚式カンタータ

結婚式カンタータ

  

正しい人に光さし出で BWV195

しりぞけ物悲しい影       BWV202

喜び高く舞い上がれ      BWV 36c

尊きレオポルト殿下よ    BWV 173a

クォドリベット

      シャガール

結婚式カンタータ 34a,120a,195,196,197,202,210,216

 

       正しい人に光さし出で BWV19
初期稿は1741年9月11日に挙行された、法律顧問でナウムブルグ市長であったG.H.Bingとトマス教会の牧師の娘エレオノーラ・シュッツ(ハインリッヒ・シュッツの姪)の結婚式で演奏されたと推定される。歌詞は、新郎新婦を暗示する表現を用いているが、本曲は「正義(Gerechtigkeit)」ということばから新郎が法律家であったことがうかがえるとしている。(バッハCD全集、坂崎 紀) 「正しい人」

(Gerechten義しい人たち)について 本曲に4回でてくる。初期稿は1741年9月11日に挙行された、法律顧問でナウムブルグ市長であったG.H.Bingとトマス教会の牧師の娘エレオノーラ・シュッツ(ハインリッヒ・シュッツの姪)の結婚式で演奏されたと推定される。
歌詞は、新郎新婦を暗示する表現を用いているが、本曲は「正義(Gerechtigkeit)」ということばから新郎が法律家であったことがうかがえるとしている。(バッハCD全集、坂崎 紀) 「正しい人」(Gerechten義しい人たち)について 本曲に4回でてくる。「義しい」は神に,道徳的、法律的正しさというより、神に対する誠実、おそれ敬う敬虔からでてくる態度や行為と考えられている。新郎と新婦は、神の前に誓いを立て、結んだ契りを、神は祝福して、結婚生活をスタートして、終わりの完成に導く。歌詞からこういう内容を読み取ることができる。

しりぞけ物悲しい影よ BWV202

成立年代は不明で、親しい知人の結婚式を祝うための作品であったと考えられている。全9曲からなり、ギリシャ神話を題材にした上品な作品で、ソプラノ用の独唱曲であることから、数多くのソプラノ歌手が挑戦してきた作品である。

成立年代は不明で、親しい知人の結婚式を祝うための作品であったと考えられている。全9曲からなり、ギリシャ神話を題材にした上品な作品で、ソプラノ用の独唱曲であることから、数多くのソプラノ歌手が挑戦してきた作品である。 成立はもっと古く、ケーテン時代(1717年 – 1723年)に遡るといわれている。さらに遡ってヴァイマル時代の作品である可能性を示唆する学者もいる。 (wikipediaより)

 

 

 

   

 

 

 

 

 
     
 
   

 


 

 

 
ガリ版から www.ネットワークへ

ガリ版から www.ネットワークへ

ガリ版から www.ネットワークへ

同じテーマで書いた文章を、ボタンひとつであっけなく消してしまった時の残念無念、そろそろ残念な気持ちが薄れてきたようで,勇気を出して、心機一転,もう一度書いてみようと思います。

このテーマは牧師時代の、日曜日の礼拝順序と集会等の案内報告、教会員の消息など「週報」に書いて,
印刷して、玄関のボックスに入れて日曜日を迎えるという、ガリ版印刷の31年間から始まるものです。
一枚の週報を作るために印刷メディアがどんなに変ってきたかを思えば、よくもまあ,と思うほどで、
ガリ版」から,現在のPCとプリンターに至るまでの記憶をたどります。

1.ガリ版 1969年スタート——

ロウを塗った紙をヤスリの上に乗せて、鉄筆でロウをはがし、そのうえからローラーにつけたインクで、下に置いた紙に写して印刷します。ロウの紙には一面に線が引いてあり、四つのマス目に一文字書くようになっています。ここで字を書くのが下手な私は苦労するわけです.どうしたら、上手く描けるのか。

人が書いたものを、あんなにかけたらいいのに、と羨ましく思い、KW先生は本当に上手でした。私が見たガリ版文字の中で最高でした。
その四角形四マスを縦,横三分の一を偏に、縦のかんむりを三分の一にすれば、より綺麗に書けるなど、いろいろ考えました.

2.印刷輪転機

万国博覧会が終わって、経済は上り坂、高度成長期のスタートラインくらいだったのか、輪転機印刷機が出て,輪転機から印刷物が高速で出来上がり、大いに時間短縮になりました。が,ムラなく仕上がるためには要領が入りました。また,その頃はA4よりも一回り小さいB5でした。B5はとにかく、その半分のB6版と小さくなると,紙が離れなくてトラブルが起こり,対処するのに手間がかかるようになりました.

  1. 3.デュプロ

アメリカ製のデュプロは用紙に鉛筆や活字で叩いてカーボンを塗りつけて、揮発油で溶かして輪転印刷するというもので、カラーでした。

4.アルバイト

教会に来るようになったKBさん。鹿児島出身で、東京に出てデュプロ事務機に勤め、ノーハウを得て福岡で店を持つことになった。私も週に一日手伝いに行くようになり、飛び込みでレターケースを売るようにと言われて、ちょっとどうかなとも思ったけれど、使いそうな店に飛び込みで何軒か尋ねたが、一台も売れなかった。

高度成長期に入って、大型店が建つようになったが,職を失う人も結構いて、長崎県から職探しにきた青年を教会に泊めて話をきいたことがある。
私も思うようにはできなくて店の手伝いは立ち消えになった。
けれども、KBさんは下取りした印刷機類を月賦で譲ってくれることになり,それから色々な事務機を下取り機械で経験することになった。教会には、事務機費を出してもらう余裕はなかったので、月賦代金を支払う関係が、旧印刷機時代が終わるまで続いた。

5.活字活版印刷

縦横6ミリくらいの鉛の棒、標準漢字の数はあったと思う,逆さま文字を見て字を選び、うらがわのテコで打ち出して、蝋を敷いた紙や改良された用紙に文字を打ち出して、輪転機印刷をする。印刷会社で作っていた印刷物が個人でできるようになった。裏返し文字でも覚えてしまったが,目が疲れた。
そのうち、文字をプリントした文字板を張り、正面から見える文字はありがたかった.教会の週報も活版文字で見れるようになった。印刷収入を考えたが、中古品なので絶えず修理をしながら、せまりくる時間と戦い、何をしてるんだろうかと自問しながら、軌道には乗れなかったなぁ。

春日東教会

25周年記念誌

1984.4.5

印刷したものは
週報印刷 一年 51 (週) x 50枚、説教(毎年-前期•後期)、誕生カード、クリスマスカード,総会資料
教科書:福岡女学院短大,大学,のちに西南学院大学ー毎年テーマを変えて教科書を作り500円で販売した。

大学闘争でいつまでも古いノートを読んで授業する老教師が槍玉に上げられて,授業管理は私学補助金と引きかに文科省の手に渡った。それで批判側にいた私は教科書は自分の手でという思いを,無理しながら保っていた。
前期・後期 毎年新課題で
九州教区事務所 主事を数年 教会,牧師住所録 教区,教団、県庁宗教法人課、手続き書式等
B4からA4へ

6.ワープロからコンピュータへ 1980年代 ——–
コンピュータは、ワープロも、八つの点(ドット)で文字を作っていた。それでは使い物にならなかった.また20 万円という金額を生まれたてのワープロに使うわけには行かなかった。エプソンやアップルも試してみたが、毎年2回ほど新製品を出すPCには、振り回されたという記憶しかない。
12インチのフロッピーディスクが3000円もしていたなんて、書いておかなければ忘れてしまいます。

7. WWW ネットワーク 1980年代末世界を一回りするネットワークは、情報を      パッケージに集めて送る方法がアメリカ軍事情報の関係で開発された、
コンピュータの役割が世界を繋ぎ、隣の家にいるかのような近さに変わっていった.
私は1980年代の末に、アサヒネットに入り、メールとホームページを始めた。時代はどんどん変わっていった。当初から長い間,スマートフォンの普及までーホームページを見てくれる人はいなかった。が、自分の書庫としても絶えず、書き込んでいた。それが今chapblogとなって、再生しています。8. そしてオープンソース

アップル、マイクロソフトは一時代を作りあげ、大きな存在だった.この生き方に意義を持つ人たちがその何倍も多くいるようだ.スエーデンなど北欧の学生たちが始めた、データを公開し,共有してコンピュータを作り上げた.無料の「オープンソース」のシステムやソフトがあっというまにひろがり、毎年更新して法外利益を得てきた巨大な会社が終焉を迎えている。どんな強靭なシステムを作っても穴・バグか見つかり攻撃してくるからである.オーブソースは秘密にするものがないので、攻撃しても利益にはならないようだ.
今回一年半かかったホームページとブログは、オープンソースで、秘密なし,平等,自由、つまり個人のプライバシーを基本的に守る。こういう思想によって、できた。利用者が増加している。

春日東教会

40周年記念誌

1999.3.1

現在

私が使っているオープンソースのシステムは、このwordpresでつくった。
Libera Officeはオープンソフトで、マイクロソフトオフィスのワード,エクセル、パワーポイントと同じシステムを、無料で提供している。
私が職場で使っていたOfficeは2003年でサポート終了となり、買い替えなければ,動かない。
データも全て無効となった.マイクロソフトというシステムソフトは完成度を極め、もう開発するところは無くなってしまった.年間契約とか、月割,日割りとあらゆる手で集金組織に成り果てた。それでも、穴を見つけて攻撃され,対応に苦慮している。

動画制作のOpenshotも助かっている.それゆえに、日々、内容が充実した作品を見て、作りに精進しようという気持ちを強めている.
このオープンななかまたちが世界中で縦横に通じる通信時代を開いてくれる。そのように,期待し,確信している。
わたしもwordpressの恩恵を受けて、世界に翼を広げて交信したいものです。