チャペルアワー

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きょうの言葉 248   降誕節第4主日        12月22日

  主は恵み深い  

詩篇40編1~5節

 

  

「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え、 喜び歌って御前に進み出よ。
知れ、主こそ神であると。主はわたし たちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊 の群れ。
主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ。」


 
     
     
     

クリスマスに備えるアドヴェントの第四週。
一年の終わりが近づき、闇の長い時間が極まり、
光の時間が増していく。

しかし、今日示された御言葉の思いをこめて
一年の恵みに生きた時間を感謝しましょう。

一、讃美
「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ」。
□イスラエルの民は神に選ばれ愛された民でしたが、
他の国と同じ人のようになって、
武力や人の数を頼りとした。

神を捨て信仰を失い、迷い、
バビロンの世界制覇に巻き込まれ、
50年もの長い間捕虜の辱めを味わった。
こう言われています。
永遠と思われた捕囚から、帰還した時、
彼らは初心にかえり、
まず、エルサレムの神殿に礼拝した。
この詩編には、その時の喜びの気持ちが歌われています。
バビロンの束縛から解放され、
神の前に出る喜びの歌であります。
神の前にでて、礼拝する。
その恵みについて次のように言っています。

人が世の権力の支配に屈しているとき、
恐れがあります。束縛があります。

しかし、神の前に出るとき、
世の束縛から解き放たれた自由があります。

礼拝はこの世から解放です。礼拝は喜びの場です。
礼拝をし、神に仕える。神へのサービスと言う時、
礼拝はこの世の権力者への奉仕との違いをあらわしている。
バビロンの神殿と神の神殿とは違います。
神への奉仕は、受けたものを、返すものでしょう。

二、「全地が主に向かって喜びの声をあげる」。
世界は神がお造りになったもの、全てはその被造物。
造られたものが、造り主に向かい合う。
それは自然な喜びであり、全身の運動です。
神の世界は、造られたものが
神に向かい合った世界観を生み出します。

全地は声をあげます。
詩編19編によると、天は神の栄光を物語り、
大空は御手の業を示している。

話す事なく、声も聞こえないのに、
その響きは世界の果てにまで及び、

神の慈愛の温まりを被らないものは
一人もいない。・・・・

わたしたちは主のもの、その民、
主に養われる羊の群れ。・・・」

三、<恵みを受けるもの>から<恵みを生きるもの>へ
「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」
□ここにイスラエルの新しい道があります。
今まではあなたは主のものですよ。
あなたは主に養われています。

このように言われてきました。
しかし、バビロンから祖国の地を踏んだ
イスラエルは違っています。

「私達は主のも。その民、主に養われる羊の群」。
こう告白しながら生きる。
恵みを受けるものから、恵みを生きるものに変えられる。
自覚的、告白し、自分の人生の中に恵みを取り入れ、
次は、恵みを自分の命として尊重し、恵みを生きる。
そういう道であります。

□東京の青梅に引退牧師の父母を訪ねていた時、
たびたび井上良雄先生を訪ねました。
その恵みを生きるという人生への転換に触れて、
井上先生のことをお話したいと思います。

井上先生は京都大学の学生時代から
文芸評論で注目を集めました。

戦時中の統制にあい拘束されたこともあるが、
代表的な作品は「芥川竜之介と志賀直哉」
という評論と言えます。

その中で芥川竜之介の作品に貫かれている「理性」と
志賀直哉の「自然」という問題が対照されています。
つまり、理性は頭で考え、理想を追う。
理想に向かって自分を高めていく生き方と言えるでしょう。
志賀直哉の自然は自分の身を委ね、
本能に従って生きる事が自然に即していると考える。
人は、この二つの道のどちらかを行くのですが、
どちらも息詰ってしまう。
戦争は、そういう時代の行き詰りだったのです。
文芸評論とは、こうした時代精神を文学から
解き明かすものと言えます。
結論は、二つを克服した
第三の道を求めなければならないというもので、

多くの共感を得ていた。
その井上先生が評論の筆を折り、
いっさい自分の過去について語らなくなった。

そして、キリスト教に入信し、
カール・バルトのドイツ語で書かれた「教会教義学」という

膨大な書物の中の「和解論」という項目を
日本語に翻訳する道をひたすら歩むことになるのです。

神が人の姿をとり、地上にこられた。
神の和解の手の業はキリストのからだなる教会に形作られた。
この問題を解きあかしたもので、
日本語で10冊の本になりました。
自分を語る事なく、カール・バルトをして語らせると言う道に
徹することになるのです。

 井上先生は戦時中疎開して奥さんオキツさんの里、
島原半島の大東崎(おおみさき)におられた。
その時、私は3歳くらいで記憶はありませんが、
父が牧師をしていた島原教会に通われていたそうです。

 東京に行くと、よく井上先生を訪ね、そして両親に会っていました。
過去の事はいっさい語らず、
将来の希望のために全身を傾ける姿に、私は感銘を受けました。
<恵みを受ける人>は、自覚があってもなくても皆おなじです。

太陽の光は、善人にも悪人にも同じように注がれる。
そのように神の慈愛が人の善悪に関わらず、
同一に注がれることは、真理であり、福音です。
しかし、みんながその真理を生きているのではない。
みんなが受けた恵みを大事にし、
自分の命としているのではない。

<恵みを受けるもの>と<恵みを生きるもの>
とは一つでありながら、

全く違ったものがあります。
恵みを喜び、告白し、自覚的に生きる。
それは人生の根本的変革であり、
悔い改めからくるのです。

井上先生が、人の理性でなく、
人の自然な本能のままに生きる事でもない、

第三の道を見いだした。
その道は、神の恵みを受けるものから、
神の恵みを生きる道と言えます。

それは自分の持っている賜物を全て捧げて、
献げつくして、表そうとしても、
もまだ時間が足りない。

それほど膨大な恵みであります。
わたしたちも、神の恵みを告白し言い表す
喜びの人生を歩みだしたいものです。
しかし、言い表しつつ生きるためには、
時間が足りない。

それほど大いなる恵みの世界を見渡し、
恵みに圧倒されつつ、

それに全身全霊をもってしなければ応えられない。
そのような恵みの世界に身を沈めつつ、
告白しつつ生きるものでありたい。

今日は「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。
主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、
その民、主に養われる羊の群れ。

主は恵み深く、慈しみはとこしえに、
主の真実は代々に及ぶ。」

と言い表して、この一年を感謝したいと思います

 

今日の祈り
恵み深い天の神 クリスマスと共に暮れが近まり、
年越しになにかと気忙しくなってきました。
世界は望む平和とかけ離れた争いごとに明け暮れ、
あと味の悪い年末となりました。
イエスの誕生がベツレヘムの幼児虐殺を引き起こした
不条理を、その死によって贖い得たものかどうか
問われ続けるでしょう。このような思いを持って
新年を迎え、良い年になりますように導いてください。
願いと祈り、主イエスキリストのみ名によって捧げます。
アーメン

 

 


 
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