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チャペルアワー

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きょうの言葉 245   降誕節第2主日        12月8日

人間をとる漁師  

マルコ福音書1章16~39節

  

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

 

 


 
     
 

 

 
     

 

   

⬜︎今日の言葉は
人間をとる漁師に“なるように”して上げよう」という意味でしょう。
イエスの言葉を聞いて弟子になっていくペトロ、
このイエスとの出会いが、決定的な意味を持つことになる、
ペトロの将来が、激しく変わり、
今まさにペトロの人間そのものが未来に向かって、
大きく変わる、瞬間が見られます。

その今日の瞬間は、
よあけまで働いて、魚が一匹も網の中に入らなかったその網を見てきた。これまでのペトロです。
人の食を満たす魚というものが中心だった。
魚がとれなければ、魚とりの値打ちはありません。
そこで見えるのはとれかた、とれなかったかという魚でした。
魚に左右される生活、また魚が中心の人生でありました。
それが悪いと、イエスは言っているのではありません。
 「人間をとる漁師になるようにしてあげよう」。
つまり、魚をとった経験は、
後にペトロが人をとる漁師になるとき、無駄ではない。
魚とりだったことが駄目というのではない。
それは、ダビデが少年の頃羊飼いであったというのに似ています。
羊を飼う経験はダビデが王になった時、活きています。
羊飼いは人を飼う牧者は、牧師という言葉に変りました。

 ペトロは、イエスと出会った時、
魚を見る人生から、イエスに従い、イエスを見、イエスが従う神を見て
人が見える人生へと変わります。
つまり、これまで魚をとって生活してきたペトロの過去は、
これからどういう方向に行くのかという、将来へ向かっていく
人が見える人生へと大きく変わるのです。
「人間をとる漁師になっていく」。この道に入門する瞬間が見えます。
これは素晴らしい瞬間ではないでしょうか。
このような瞬間を、聖書は非常に大事にし、注目しています。
⬜︎
 しかし、ペトロは一瞬にして人間をとる漁師になってしまったのではありません。
これからそう“なっていく”。いくつもの経験が始まるのです。
また、ペトロと出会った人の中に、
起こる経験が見える。そういう人になっていく。
 イエスに出会い、イエスのあとを行く、弟子になりました。
だから、この直後、ペトロは自分のしゅうとめの熱病を癒していただきました。

ペトロは信仰よって水の上を歩きますが、
信仰を失った瞬間におぼれてしまう。
こういう経験をした。
ペトロはイエスに対する忠誠を誓いましたが、
イエスを見捨てることもしました。
そういうペトロの人が見えるのです。
さらに、復活の主に出会って、
再び信仰を取り戻すということもできました。

 イエスが言われたように、「人間をとる漁師に
“なるように”してあげよう」という言葉は、
ペトロの最後の一瞬まで活きている。
人は最期の一瞬まで、本当の自分自身になっていく。
最後まで自分になっていく戦い、
経験をするのだと教えられます。
つまり最後まで、変わる。
劇的に変わるという可能性を持っているということです。

□出会いが人を変える。その瞬間は、
しかし、最後の一瞬まで
その「人が見える」経験を与えてくれるのです、

バッハの「漁師」
バッハは今日の聖句で
BWV88「見よ、私は漁師を送る」を演奏しています。

二つに分かれていて、前半は「漁師を送る」、
後半は動物の狩をする「猟師を送る」としたところで、
あっと思いました。
バッハが一生を過ごしたドイツのチューリンゲン地方は
アルプスから流れるライン川の、バルト海からは
離れた丘陵地帯で、集まった人たちは、多分バッハも海を見たことがない。
ここに動物の狩りをする「猟師」を後半に加えているのです。
曲も聴いたら忘れないような、ちょっとコミカルで面白い曲です。

□さて、イエスが生まれてすぐ、
二人の老人に出会うという話がルカ福音書2章にあります。
一人はシメオンという男性、もう一人はアンナという女性です。
アンナは結婚して七年目に夫に先立たれ今は84才になっていた。
そういう人生の経歴をもつ人との出会いです。
私はこの出会いに、感動を覚える者の一人です。
老齢の人の偉大な役割が、きちんと位置づけられています。 
つまり、シメオンもアンナも
幼な子イエスに大きな期待を寄せている。
もちろん、生まれたばかりの幼な子は、
海のものとも、山のものとも、分かりません。
それにも拘わらず、この出会いは感動を与えています。
その人が今、分かるか分からないか。
知ったか知らないか。それが問題ではない。
 シメオンもアンナも、今まで長い道のりを歩いて、
神さまの御心に対して、自分はどれだけの事が出来て、
どれだけのことが出来なかったか。
そういう人生の総括が、まもなく求められる。
そういう、老齢期になって、
愛する祖国が平和であってほしい。
そういう期待は練り鍛えられて、
ますます真実なものとなって表れている。
そういう祈りと願いを、
幼な子イエスに出会って、この幼な子に期待し、
希望を託している。
人は期待されると変わる。
逆に、誰にも期待されなければ、
人は意欲を失います。
この幼児期の期待を通ったイエスによって、
ペトロは人間をとる漁師になることを期待されるのです。

□「二人はすぐに網を捨てて従った」。18節
「すぐに」とは、即座にという時間的なことが含まれます。
また、直接にダイレクトにという意味があります。
この「直接」ということを少し強調したいと思います。
後で、直後に問題が起こります。
ペトロはこう言いました。

私はすべて捨てて従ってきました。何がいただけるのでしょうか。
イエスが神の国が実現するというのを聞いて、
ペトロが期待したものは、神の国での自分のポストでした。
それは段階を追って目に見えてくるはずでした。
イエスによって見えるようになったのは、
出会いの時がそうであったように、
一人の「人」、その人生の始まりと終わり、
そして一瞬一瞬、分かれ道にたって、新しい思いで、
よい道を選びとるという、
日々新たなる決断を活きる人が見えるというものでした。

ところが、ペトロは神の国での自分の座席が見えないというのです。
神の国の座席が一番か二番かと。母親まで出てきて、
その節は私の息子をトップの地位にお願いします。
と言う、そんな序列や格差や差別によって
生きるところではありません。
神の国は序列や差別があるわけないですから。

私についてきなさい。
すぐにすべてを捨てて従うというのは、
イエスと直接するということです。
牛を買いました。それを見なければなりません。それがすんで。
父がなくなりました。葬式を済ませてという人が出てきます。
イエスとの間に、そういう条件が入らない。
イエスと直接する信仰です。
条件が整えば、何かがなるのではない。
イエスと直接に結びつく信仰であり、
命である。充満です。
こうして私たちは解放されるのです。
縛り付けているこの世の全てから。

 

今日の祈り
恵み深き天の神 クリスマスシーズン、待降節第二の日曜日 こういえば、今日の1日を感じる豊かさが膨らむ思いがいたします。
イエスにピントを合わせると、ペトロがわかるように、
そのイエスに従いピントを合わせて、日々を歩かせてください。
災害が多かった一年、戦争を止めえなかった世界に回復を
安定しない国の歩みに国民の願いが届きますように。
願いと祈り、主イエスキリストの御名によって祈ります。
アーメン