チャペルアワー

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きょうの言葉 243   終末主日         11月24日

 種まく人  

マルコ福音書四章一~二〇節

  

「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、
あるものは三十 倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」 8節

 

 

 


   

 

 

 

教会の暦では、今日は「終末主日」、次週からアドベントの4週間となります。
ここで、終末はイエスの到来(アドベント)を迎えて、
新しい時の到来を告げる。と同時に、古い生き方に別れを告げる時でもあります。

 「おびただしい群衆がそばに集まって来たので、
イエスは陸を離れ、船に乗って湖から話された。」

マルコによるとこの時、イエスが話されたのは六つほど
神の国の到来を、種まきに例え、その種は成長し、終末の時の収穫の喜びをむかえる。
こういう一連の話で、
 神の国は種まきが種をまくのに似ている。
 群衆が帰り、一二人の弟子たちだけになった時、
イエスは弟子たちだけに真意を説明しています。

群衆に語るとき、イエスは譬にして教えた。
しかし、弟子たちには「神の国の秘義を直接に教えよう。」
このように、弟子たちには直接に話された。

 

 イエスの譬によると、まかれた場所が四種類あります。
一つは道端です。それは鳥が来て食べてしまった。
二は、石だらけの所です。日が照ると焼けた。
三は、茨の中でした。のびようとしても茨が邪魔して育たなかった。
四番目、ほかの種が、耕された畑にまかれて、
三〇倍、六〇倍、百倍の実を結んだ。
人それぞれ、苦労やわざわいにあって成長が妨げられる。

神の言葉、神のロゴスそれは何時の時も変わらない。
 「草は枯れ花は散る。
しかし、主の御言葉はとこしえに変わらない。」
 預言者エレミヤはこういいました。
この言葉はヤコブ1章11節、また第1ペトロ1章24節でもでてきます。
人は皆草の花のようだ。その華やかさは草の花のようだ。
しかし、神の御言葉はとこしえに変わることがない。
この変わることのない神の御言葉が語られ、まかれた。

二、
□まかれた種の品質は同一です。
ところが、まかれた種が成長するかしないか。
育つか育ちきれないか。
収穫が多いか少ないか。それはまかれた畑で違ってくる。
すなわち、人生という畑がよく耕された畑であるか。
または踏み固められた道のようであるか。
石地であるか、茨はないか。
さらに、畑は私という人間性を含みます。
どのような環境に生い立ったか。
それが一生を左右しているか。その環境が克服されているか。
また魚が水の中を自由に泳ぎ、鳥が空を飛び回るように、
人生という世界を自由に生きているかどうか。
ここに、イエスは容易でない問題があることを、
自分のこととして感じているように思われます。
譬の結論は、はっきりしています。
私たちの人生という畑は、
いつも耕されなければならないということでしよう。
今年はよく耕したから、来年は休もう。
そうすると雑草はあっというまに広がってしまいます。
油断なく耕さなければなりません。
 

この譬に、一つ見逃しそうになる所があります。
それは八節「ほかの」種は良い地に落ちた、という所です。 
ほかの種は良い地に落ちて実を結んだ。
圧倒的多数の「ほかの種」はよい地に落ちた。
九九%はよい地に落ちて実を結んだ。
三〇倍、六〇倍、百倍という違いがありますが、実を結んだ。
収穫の喜びにあずかったのです。その使命を全うしたのです。
ところが、その「ほかの種」、それが気になるのです。

 イエスの話を注意して見ますと、
四節の「ある種」とは単数形ですから、一粒だけです。
それが道端に落ちて鳥に食べられた。
五節の「他の種」も単数形ですから、
一粒だけはみだして石だらけの岩地に落ちた。
7節の「他の種」も単数形、
一粒だけ間違って茨のなかに入ったのです。
イエスの目には、道端の種は一粒。
石地の種は一粒。茨の中の種は一粒。
単数形で語られています。

その一粒を見るということは、
すごい観察眼ではないでしょうか。
羊が百匹いて、そのなかの一匹が迷い出たという話があります。
一匹足りないと気づく感性。観察眼です。
そして、その一匹が失われてはならないと、
探し求める。そういう感性です。
それは柔らかな心ではないでしょうか。

自分が失われた経験をして、
探し出される喜びを知っている人にしか分からない。
そういう感性が働いていると言えないでしょうか。
十字架に棄てられて、なぜわたしをお見捨てになるのですかと叫び、
その孤独と絶望の中から栄光の座に引き上げられた、
そういう救いの喜びを知っている人が、
一匹足りないと気づく。

 この譬から、人生という畑は
日々新たに耕されなければならない。
すぐ雑草が生えると教えられます。
人間性という畑から石を取り除かねばならないと教えられます。
この教えが、きゅっと引き締まるのは、
落ちこぼれた種がそれぞれ一粒であるという点です。
その他大勢ではなく、他ならぬ私であるかもしれない。
いや、以前の私だった。このように聞くならば、どうでしょうか。
 私たちのなすべき事が自ずから、
目の前に開けてくるのではないでしょうか。
良い実りを収穫することを主は喜ばれます。
最後の収穫の喜びのために、
種をまき、まかれた種が良く育つように、
全てを傾けて邁進したいものです。

今日の祈り
恵み深い天の神 木枯らしが吹く寒い季節に入ったようです。
技術やその知識を誇るこの時代に、
極度の貧困や病気をもたらし、
近代兵器によつて、不差別攻撃をして、
悪びれるどころか居直りを続ける。
罪な世界に砕かれる思いをどこにぶつけたら良いのか、
このようにして年を越す不甲斐なさを覚えます。
何とかして、ウクライナに、またパレスチナに
平和と言える日常が生まれますように。
導きの手を示してください。
主イエスキリストのみなによつて祈ります。
アーメン

 


 
 

教会の暦では、今日は「終末主日」、次週からアドベントの4週間となります。
ここで、終末はイエスの到来(アドベント)を迎えて、
新しい時の到来を告げる。と同時に、古い生き方に別れを告げる時でもあります。

 「おびただしい群衆がそばに集まって来たので、
イエスは陸を離れ、船に乗って湖から話された。」

マルコによるとこの時、イエスが話されたのは六つほど
神の国の到来を、種まきに例え、その種は成長し、終末の時の収穫の喜びをむかえる。
こういう一連の話で、
 神の国は種まきが種をまくのに似ている。
 群衆が帰り、一二人の弟子たちだけになった時、
イエスは弟子たちだけに真意を説明しています。

群衆に語るとき、イエスは譬にして教えた。
しかし、弟子たちには「神の国の秘義を直接に教えよう。」
このように、弟子たちには直接に話された。

 

 イエスの譬によると、まかれた場所が四種類あります。
一つは道端です。それは鳥が来て食べてしまった。
二は、石だらけの所です。日が照ると焼けた。
三は、茨の中でした。のびようとしても茨が邪魔して育たなかった。
四番目、ほかの種が、耕された畑にまかれて、
三〇倍、六〇倍、百倍の実を結んだ。
人それぞれ、苦労やわざわいにあって成長が妨げられる。

神の言葉、神のロゴスそれは何時の時も変わらない。
 「草は枯れ花は散る。
しかし、主の御言葉はとこしえに変わらない。」
 預言者エレミヤはこういいました。
この言葉はヤコブ1章11節、また第1ペトロ1章24節でもでてきます。
人は皆草の花のようだ。その華やかさは草の花のようだ。
しかし、神の御言葉はとこしえに変わることがない。
この変わることのない神の御言葉が語られ、まかれた。

二、
□まかれた種の品質は同一です。
ところが、まかれた種が成長するかしないか。
育つか育ちきれないか。
収穫が多いか少ないか。それはまかれた畑で違ってくる。
すなわち、人生という畑がよく耕された畑であるか。
または踏み固められた道のようであるか。
石地であるか、茨はないか。
さらに、畑は私という人間性を含みます。
どのような環境に生い立ったか。
それが一生を左右しているか。その環境が克服されているか。
また魚が水の中を自由に泳ぎ、鳥が空を飛び回るように、
人生という世界を自由に生きているかどうか。
ここに、イエスは容易でない問題があることを、
自分のこととして感じているように思われます。
譬の結論は、はっきりしています。
私たちの人生という畑は、
いつも耕されなければならないということでしよう。
今年はよく耕したから、来年は休もう。
そうすると雑草はあっというまに広がってしまいます。
油断なく耕さなければなりません。
 

この譬に、一つ見逃しそうになる所があります。
それは八節「ほかの」種は良い地に落ちた、という所です。 
ほかの種は良い地に落ちて実を結んだ。
圧倒的多数の「ほかの種」はよい地に落ちた。
九九%はよい地に落ちて実を結んだ。
三〇倍、六〇倍、百倍という違いがありますが、実を結んだ。
収穫の喜びにあずかったのです。その使命を全うしたのです。
ところが、その「ほかの種」、それが気になるのです。

 イエスの話を注意して見ますと、
四節の「ある種」とは単数形ですから、一粒だけです。
それが道端に落ちて鳥に食べられた。
五節の「他の種」も単数形ですから、
一粒だけはみだして石だらけの岩地に落ちた。
7節の「他の種」も単数形、
一粒だけ間違って茨のなかに入ったのです。
イエスの目には、道端の種は一粒。
石地の種は一粒。茨の中の種は一粒。
単数形で語られています。

その一粒を見るということは、
すごい観察眼ではないでしょうか。
羊が百匹いて、そのなかの一匹が迷い出たという話があります。
一匹足りないと気づく感性。観察眼です。
そして、その一匹が失われてはならないと、
探し求める。そういう感性です。
それは柔らかな心ではないでしょうか。

自分が失われた経験をして、
探し出される喜びを知っている人にしか分からない。
そういう感性が働いていると言えないでしょうか。
十字架に棄てられて、なぜわたしをお見捨てになるのですかと叫び、
その孤独と絶望の中から栄光の座に引き上げられた、
そういう救いの喜びを知っている人が、
一匹足りないと気づく。

 この譬から、人生という畑は
日々新たに耕されなければならない。
すぐ雑草が生えると教えられます。
人間性という畑から石を取り除かねばならないと教えられます。
この教えが、きゅっと引き締まるのは、
落ちこぼれた種がそれぞれ一粒であるという点です。
その他大勢ではなく、他ならぬ私であるかもしれない。
いや、以前の私だった。このように聞くならば、どうでしょうか。
 私たちのなすべき事が自ずから、
目の前に開けてくるのではないでしょうか。
良い実りを収穫することを主は喜ばれます。
最後の収穫の喜びのために、
種をまき、まかれた種が良く育つように、
全てを傾けて邁進したいものです。

今日の祈り
恵み深い天の神 木枯らしが吹く寒い季節に入ったようです。
技術やその知識を誇るこの時代に、
極度の貧困や病気をもたらし、
近代兵器によつて、不差別攻撃をして、
悪びれるどころか居直りを続ける。
罪な世界に砕かれる思いをどこにぶつけたら良いのか、
このようにして年を越す不甲斐なさを覚えます。
何とかして、ウクライナに、またパレスチナに
平和と言える日常が生まれますように。
導きの手を示してください。
主イエスキリストのみなによつて祈ります。
アーメン

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