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229 8月18日 時が満ちて エフェソの信徒への手紙1:7-14

 一年で最も暑い日々になりました。
じっとしているだけなのに、我慢の限度を感じています。
みなさん、くれぐれもお大事にしてください。
 さて、今日はエフェソの信徒への手紙から、
パウロが書いた言葉です。

「わたしたちはこの みこころにおいて、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神のみこころに よるものです。
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、かしらであるキリストのもとに一つにまとめられます。」     エフェソの信徒への手紙‬ ‭1‬:‭7-14

‭‭

肉体を拘束され、牢獄の生活を強いられることになったパウロが、
そのとらわれの中でどのような事を考えていたか、
その事を知るのは驚異です。
というのは、パウロはローマで囚われ、獄中にいます。
肉体のとらわれの中で、精神のまったき自由を示しています。
それだけでなく、彼の信仰の完全なる花を開かせている。
それは見事な作品といえます。

 

パウロの生き様の見事さは、その矛盾に満ちた所にあると言えないでしょうか。
彼の矛盾の中に人間の真実が見られます。  
その矛盾とは、彼が言っているように、獄に捕らわれ、
拘束されているという、不名誉な、不自由の中にいて、
刑罰は肉体を苦しめて、精神も苦しめ、殺せると考えています。
ところがパウロは自分は自由を得ている。自由だというところです。
奪われているのに、多くのものを得ている。
精神の解放を覚えている.
なんと不思議なことが起こっているのでしょう。

わたしたちは自由を夢見ます。楽しみ、喜びを歓迎します。 
しかし精神的にはどうでしょうか。
物質的、肉体のゆたかさが必ずしも人を自由にしているとは思われない.
得ることをのみ求める、その人は失うことを心配する。
奪われることから身を守ろうとします。
しかし、パウロは奪われることの中に、与えられてきたものを見いだしています。
失ったものに愛情を覚えて、感謝しています。 
全てをなくしたとき、見えなかったものが見え始める経験もしています。
私たちもこのような経験に注目したい。
ここに獄中書簡を学ぶ意味があります。

神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる、と言う。
パウロが捕らわれた牢獄は、行動が制限されるくらいのゆるいものだったようです。
吉田松陰は捕らわれて山口県萩市で、牢に繋がれたと言われています。
そこに、しょういんを師と仰ぎ、教えを受けにきた人たちに、
さこくをやめて、若者を海外に送り出そうという「しょうかそん塾」をはじめ、
小さな一軒家から、世界を見渡す力を若者に与えていました。
人の出入りは自由だったようです。

パウロの囚われは、行動は制限されても、出入り自由でした。
このエフェソの信徒に当てた手紙はこうして書かれたものでした。
 
隠れていたものがあらわれ、あらわれていたものが隠れる。
「奥義」に触れるとき、隠れていたもの、見えなかったものが見える。
何が見えるか。見えたものによって、
それが真実であるかどうかが判明します。

 水野げんぞうさんの詩に、次のような言葉があります。
「自分の力では動けない、生きられないと 気づいた瞬間に」
という詩です。
「自分の力では動けない生きられないと 気づいた瞬間に 
わたしをしっかりささえていてくださった 
キリストの愛の み腕がはっきり見えてきた」。

水野さんが小学生の時、当時地域で流行った疫病になり、高熱が続き
熱が引いた時にはもの言うことも、身の回りのこともできなく、
母の世話なしには生きられない状態になった。
母が50おんのひょうを、指差して、瞬きによつて言葉を拾い、思いを表すようになった。
そのようにして書かれた詩です。

水野さんは、閉ざされた世界の中で、牧師の訪問を受け、
心の目が開かれて、これまで見えなかったものを見ると言う。
そういう感動と交流に満ちています。
聖書に出てくる「時が満ちる」とはある意味では、
「自分の力では動けない、生きられないと、気づいた瞬間」と
言えないでしょうか。

ある人は、「隠れた所」で神に出会うという秘義について
次のように言っています。
私たちは誰でも秘密をもっている。人に知られたくないところ。
言いたくない経験。二度と繰り返したくないような失敗。
そういう秘密をもっているものだ。私たちが神さまと出会うという時、
それは隠れた所に触れて、これを癒してくださる。
そのように出会ってくださる。(森有正)

イエス・キリストが神と共にいた場所。
そこは、ベツレヘムの馬小屋の 餌箱の中でした。
人里離れた山のなかで祈りました。
この世から見えないところで、病に苦しむ人を癒された時、
そこは神との出会いの場でありました。
 
神殿をさして、「強盗の巣」にしている、「白く塗られた墓だ という時、
そこに神はいない、と、イエスは批判された。
 それで教会の建物に神はいない、教会の外で出会うと言って、
教会を捨てた人がいます。
しかし、その神殿でイエスは教えられたのではないでしょうか。
ユダヤ教の会堂を借りて、福音は語られたのです。

隠れたものがあらわれるとき、あらわれていたものが隠れる。
神殿はイスラエルが神と出会う時、隠れていた神が顕れられた.
神と人との新しい出会いが始まった。
しかし、あらわれた神は、自分をかくすことによって、そのおくぎを保つ。
そして、私たちの隠れたところで、神は触れ、魂を解き放つ。
このような秘義またはおくぎに触れるのですが、
パウロはローマの牢獄のとらわれの中から、書き記し、伝えています。
パウロのおくぎに触れながら、神が私たちの隠れた所で出会ってくださる。
そういう経験を省み、またこの経験によって新たにされたいと願います。

今日の祈り
恵み深き天の神 7日の日々を守られて、ささやかな礼拝を捧げる。
このような感謝をありがたく思います。ウクライナとイスラエルが戦場になって、
世界が遠い昔に戻ったような、人をころす武器によって、一体何を守り、
どんな念願を果たそうとしているのでしょうか。
死ねばこの世で得たものは全てなくなるのに、
あまりにも多くの犠牲がこころを痛めます。
どうか、悲しみ、苦しむ人に、安らぎの時が来ますように。
願いと祈り しゅイエスキリストのみなによって ささげます。 アーメン

 

 

 

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