シューハート・メール

シューハート・メール

メール


エリカ・シューハート(ドイツ ハノーファー大学教授) さんからメールを受け取った。
※URL記号で送られた150本の動画があり、以下3本のYouTube動画を紹介いたします。

動画をクリックしてご覧ください。

その前に、ご紹介します。

 

エリカ・シューハートErika Schuchardt    紹介

 

略歴と代表的著作
永年にわたり、福祉・カウンセリング関係の分野で実践を重ねたハノーファー(Hannover)大学教授、
ドイツプロテスタント会議(EKD)、
ジュネーブの世界教会協議会(WCC)の
エキュメニカル委員会議員(1972~1990)、
ユネスコ(UNESCO)ドイツ副代表(1984~1996)
ドイツ連邦議会議員(1994~2002)を歴任。

エリカ・シューハート

 

一、はじめに

シューハート氏は2007年に来日した際、長崎ウエスレヤン大学(現鎮西学院大学)で秋の文化祭のプログラムとして同氏の講演会「危機を生きる」を開催することになり、わたしが責任者として諫早でのお世話をした。その際、講師がどんな人であるか、ネットで著書を調べ、危機対処に関する彼女の著書「なぜわたしが」ドイツ語原書をAmazonで購入し、当時のエリザベス・キュブラー・ロスの「死ぬ瞬間」シリーズに似ていると思った。

これを機会に「なぜわたしが?」の翻訳許可を願った。

宿泊先の諫早グランドパレスの夕食で、フランス料理ですと言うと、「なんで日本に来てフランス料理?」と怒っていたが、「ジャパニーズフレンチだから、食べて」と言ってなだめ、日本料理のようにこまかく美しい料理の数々に驚き、喜んでくれた。その席上で「なぜわたしが(warum gerade ich?)」の翻訳許可と、多数の質問をし、「二つ問題があります。ドイツ語が十分でありません」、もう一つ「お金はあまりありません」。と言うことでスタートした。

シューハートさんは、ドイツにいる戸川英夫さんを紹介してくださり、私がメールで訳の原稿を送り、金曜の朝6時、ドイツの夜10時電話で1時間、1年半ばかり作業をした。と言うことで、ドイツ語はなんとかなった。著者はカラー印刷で多数の図や写真を入れる派手なことを言ったが、私はペーパーバックスで、表紙カラー、他白黒、私が作る元版で、印刷製本だけ、学校に出入りの昭和堂の田島君にお願いして、実費だけで済ました。2011月1日1日に昭和堂から長崎ウエスレヤン大学研究叢書として、出版しできた。

また元版はデジタル版にしてネットで読めるように提供しています。

本文はこちらをクリック! ⬇️

※「なぜわたしが」(山城順訳)」

 

 

シューハートの

危機に対処する八段階理論

 

 

山城順作成

左の図は

人生の危機に見舞われた人々の心が辿る危機対処の過程8つの局面を螺旋(スパイラル)
に表わしている。

1.不確かな局面
2.確信局面,
3.怒り局面,
4.交渉局面,

5.鬱(うつ)局面,
6.受容局面,

7.行動局面,
8.連帯局面

八つのらせん局面により
シューハートは苦しむことの「意味」を掘り下げて、苦しみが愛と連帯の基となりうることを示している。

 

八つのらせん局面の登り下りは、
階段の一段(step)の固定的でなく、絶えず変化している局面(fase)という
捉え方が現実的と思われます。

シューハートの研究は「危機を生き抜く過程」を重視し、
「受容」(第6局面)の後に、活動的に生きる局面が開け、
個人のレベル(第7の局面)から周囲と連帯する(第8の局面)
に至り得ることを示している。
同時に、周囲の人々が関わる(特に第3局面)は重要で
教会の対応を含め不適切な接し方が非常に多いことが指摘されている。
この結果第8局面に達することのできた人は全体の1/3以下で、
2/3が途中で挫折してしまっているという実情を述べている。

 

ところで、よく知られているエリザベス・キュブラー・ロスは
「死ぬ瞬間」シリーズにおいて、

1.死に至る危機を認識し、否定と抵抗から、最後の5段階で受けいれる受容において

人生を肯定的に見れるようになる。死を医学の対象としてこなかった時代を批判し、

ホスピス運動を世界に広めた。その仕事にとても似ていると思われる。が、

強いて言えば、キュブラー・ロスは五段階(否認、怒り、取引、抑鬱、受容)に至る理論で、

人生を肯定的に終わることができた事例を挙げて、言わば、アメリカ的なハッピーエンドの

理論となっている。その意味で危機対処に成功しなかった多数の人々にも光を当てる必要があるのではないかと思います。

 

 

※監修者の戸川英夫氏と協議し、固定的印象を与える段階より「局面」の方がよいと
戸川氏から著者に相談し、その結果、私の訳では局面としました。

※よくみるとシューハート氏もstage(段階)を使っているところがあり、
また、fase(局面)を使っているところも見られました。

 

※1.苦しむことの意味については

 

 

       なぜ わたしが

エリカ・シューハート著、
戸川英夫監修、山城順訳
昭和堂・ゆるり書房、2011年

 

 

彼女は「なぜわたしが」(山城順訳)」を書いた後、さらに

この口づけを世界のすべてに」を出版し、
「ベーヴェンの危機からの創造的飛躍」を論じた。

——————————————

その後、「日独交流150年」記念の集会が2013年、日独両国で、互いに催された。

以下の動画の三つ目の講演で、シューハート氏は

「ベーヴェンの危機からの創造的飛躍」を論じた。

ドイツでの集会の講演動画はテロップに日本語訳が出てくるので

わかりやすく視聴できます。

 

以下の三つの動画は日独交流150年の講演会の記録です。

 

 

その1.挨拶 ベートーヴェンの夕べ

エリカ・シューハート教授

 

 

 

ニ、

ドイツでの日独交流集会で、挨拶された樋口隆一氏(当時、明治学院大学教授)は.

「この口づけを世界のすべてに」-ベーヴェンの危機からの創造的飛躍-エリカ・シューハート著の翻訳者であり、

東日本の震災の時の助け合い、思い合う人たちの中に、ベートーヴェンの時代とは違った苦難の受け止め方あると指摘している。※2.

 

 

その2 紹介講演

訳者:樋口隆一明治学院大学教授

 

 

ベートーヴェンを事例にした本研究は
※2.「この口づけを世界のすべてに」
ベートーヴェンの危機からの創造的飛躍
エリカ・シューハート著 樋口隆一訳
アカデミア ミュージック刊2013/3/2

 

 

 

その3.講演 ピアノ演奏付き

 

次に、シューハート氏の圧巻の講演※3の録画がある。

 

 

※3.ベートーヴェンは21才の時に、オーストリア近郊の保養地ハイリゲンシュタットに滞在していた時に「遺書」を書いて誰にも見せなかった。そこにはベートーヴェンの深い苦悩が綴られて、自殺を決意した孤独と苦悩、を書き留めていた。56才で亡くなるまで、誰にもわかってもらえない苦悩と孤独とは、ベートーヴェンの作品の中に渦を巻くようなうねりをなして、彼女が示した八つのらせんの各局面※4を登り下りしながら「この口づけを世界のすべてに」の「愛」となって現れる。第九交響曲の最後の「歓喜の歌」の苦悩即愛の二重性を読みとる「もう金輪際、誰とも袂を分つ」という孤独と表明、 それは「世界のすべての人にキスを捧げたい」愛のキーワードである、その鍵を解いていく。

     —————————–

ベートーヴェンが21才の時にしたためた-遺書-をめぐる議論の中で、

56才で亡くなる晩年までに、内に抑圧されてきた愛を爆発させる第九交響曲の最後の合唱を挙げ、「この口づけを世界のすべてに」を出版し、「ベーヴェンの危機からの創造的飛躍」を論じた。※3.

そこにはベートーヴェンの深い苦悩が綴られて、自殺を決意した孤独と苦悩、を書き留めていた。56才で亡くなるまで、誰にもわかってもらえない苦悩と孤独とは、ベートーヴェンの作品の中に渦を巻くようなうねりをなして、彼女が示した八つのらせんの各局面※4を登り下りしながら「この口づけを世界のすべてに」の「愛」となって現れ出る。誰にも見せなかった遺書は、大事にとっておかれていたことから、ほんとは見てわかってもらいたいという切なる願いがあったとも、解釈されている。死後に「ハイリケンシュタットの遺書」と名付けられている。

そして、第九交響曲最後の「歓喜の歌」に、苦悩即愛の二重性を読みとる。「もう金輪際、誰とも袂を分つ」という孤独の表明、 それは「世界のすべての人にキスを捧げたい」愛のキーワードである、その鍵を解いていく。
21才で難聴になり聞こえなくなっていく悲運を遺書に認め、分かってくれないだれにも、みせない決意を表してきたが、遺書は死後に発見されたように、「すべての人にわかってもらいたい」、底知れぬラブコールになっている. 56才で亡くなるまで、 ベートーヴェンの難聴ー無理解ー怒りの爆発ー引き込む孤独ー それらがダイナミックならせんの各局面をなしていく。
最後の局面は、「果てしない苦悩」と「すべての人に口づけを」という偉大な「愛」の相反する二重性の意味、苦しみを背負った人の苦難の意味を解き明かし、苦悩する自分を受け入れ、世界との連帯を導く。苦しむ経験はすべての人と共に生きる力になりうることを解明している.

話の中で、ベートーヴェンの作品を、講演の要点に触れて、ピアノ奏者が楽譜から例示する、各フレーズの分析もわかりやすく 感動的でもあった。講演は日本語テロップで読めます.時々止めて、ゆっくり聞けます。

※なお、この項目は「なぜわたしが?」翻訳出版した2011年に受け取った
シューハート資料を参考にしています。

——————————————

追記
さて、順序が初めの方に戻るが、

講師シューハート氏との出会いに至る経緯について、つけ加えたいと思います。

私は、31年間働いた春日東教会を離れ、1998年4月、長崎ウエスレヤン短期大学宗教主事に就任し、社会福祉学科所属となって、キリスト教社会福祉の勉強をしようと思った。
 定期発行の研究記要要が二つあり、
 長崎ウエスレヤン大学地域総合研究所記要に、ディアコニー(ドイツプロテスタント教会の社会福祉の歴史) E.バイロイター著全10章の翻訳を年に1章ずつ、10年計画ではじめた。
また、長崎ウエスレヤン大学研究紀要に個別テーマで論文を書いた。
そして、日本キリスト教社会福祉学会に加入して、福祉の各分野での実践報告に学んだ。
ウエスレヤン大学を会場に学会を開催して多くの人と交流するようになった。
2010年頃に学会の中に研究部門が設置され、中津いずみの園の多田一三先輩が九州地区のまとめ役となり、地区単位の研究をすることになって、私にも声がかかり、年に2回の研究発表の場が設けられた。
まとめ役の多田三一牧師は自身のスピリチュアルケアをカトリックのスピリチュアルケア研究グループに学び、研修プログラムを受けていた。
上智大学のスピリチュアルケア研究所のキツベス神父は、プログラムの講師として、エリカ・シューハート教授を招き、シューハート氏は北海道から九州まで講演旅行をし、また全国スピリチュアルケアのグループとの交流を広め、合わせて旅費を工面した。
この流れで、多田一三さんからウエスレヤン大学でシューハートの講演会をできないかと打診を受けた。カトリックのスピチュアケアの呼びかけ人であるキツベス神父が久留米に住んでいると聞いて、同師に会い、ウエスレヤン大学の大学祭の講演会プログラムを進めることができた。講演は英語で内村公義教授に通訳をお願いし鮫島ホールで開催の運びとなった。

公開・授業・講演会 「なぜ わたしが?」

    公開・授業-講演会  「なぜ 私が?」
          エリカ・シューハルト博士
  2007年11 月 1 日(木)10時30分-12時   西山ホール  入場無料
  1940 年ハンブルク生、ハノーハー大学名誉教授、
ドイツ福音主義教会(EKD)議員 世界教会協議会(WCC)委員、
ドイツユネスコ協会副議長(1984-1996)
「チェルノブイリの子どもたち」連邦研究委員
1989-1994年からドイツ連邦議会議員。
2000年から「近
代医学の法と倫理」委員     
 著書「なぜ 私が!」紹介——————
 運命的な打撃に射抜かに寄り添った経験を通して、被害者が危機に対処して解決の道を開いた、その経験を「うずまきの八つのらせん階段」にあらわした。苦しむ人寄りそう添う人、また親身になって人生を新しくかた
ちづくる人に、注目されている。
    

 

 

学生のレポート 準備中 さがしています。

 

 

 

 

 

 

 

コメントは受け付けていません。