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参事会議員交替式

参事会議員交替式

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参事会議員交替式

参事会議員の交替式カンタータ

ミュールハウゼン時代 (1707-1708 )1曲

BWV71 神はわが王

 

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ライプツィヒ時代  (1723〜1750年) 5曲

BWV29 われら神に感謝
BWV 69 わが魂よ主をたたえよ
BWV119 エルサレムよ主をほめよ
BWV120 見よ、賛美はシオンにて
BWV193 シオンの門よヤコブの住まいを

 

 

 

1.参事会議員 選挙 #ミュールハウゼン #ローマ教皇直轄領 1707-1708 バッハ18才、17070529ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストに任命を受けた。その3日後、大火が起こり,400軒が燃え、三つある教会の中のブラウジス教会も延焼した。 この騒動の中、結婚したばかりのマリア・バルバラと引っ越してきた。ミュールハウゼンは神聖ローマ帝国の自由都市であり,6人の市長と46人の参事会員が選ばれ,この中の2人の市長(1人は副市長)と14人の参事会員が一年任期で交代するシステムであった。 大火のあと復興計画も手付かずの時なのに、参事会員交替式が火災に遭わなかったもう一つの教会を会場にして、祝祭カンタータ「神はわが王」BWV71演奏が行われた。一同は満足と勇気をもらった。本楽譜は後日200部印刷され関係者に配布された。

この曲の第2曲アリアーコラールでテノール「わたしは今や80才、なぜこんなに重荷を背負わなければならないのか。わたしは望む、私の町で父と母の墓のそばで死ぬことを」、ついでソプラノが「わたしはこの世でわたしをより高めようとして,患難辛苦を乗り越え、歳月を超えてきたように、罪と恥から身を守るために、忍耐を重ね,誇らしく白髪となった」。と歌っている。 新任の46名と退任の46名ー列席の年老いた人たちを勇気づけたこれらの言葉は、旧約聖書のダビデ王の 故事から取られている。ダビデは王になる前、身内の裏切りに合い、国境地帯を逃げ回っていた時、助けてもらったバルジライの恩を、王になってエルサレムの宮殿ができるから一緒に暮らそうという。パルジライは丁重に断って、わたしはもう80際になる。亡き父と母のそばで暮らしたい、と。(サム下19:36) 若いバッハにとって、交替する48人の参事会議員の労苦を労い、新任の48に希望と勇気を与える音楽となっている。後に、その楽譜は200部印刷された配られたことで、バッハの思いは十分に伝わったことを示している。

1.参事会議員 選挙 #ミュールハウゼン #ローマ教皇直轄領

1707-1708
バッハ18才、17070529ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストに任命を受けた。その3日後、大火が起こり,400軒が燃え、三つある教会の中のブラウジス教会も延焼した。
この騒動の中、結婚したばかりのマリア・バルバラと引っ越してきた。

ミュールハウゼンは神聖ローマ帝国の自由都市であり,6人の市長と46人の参事会員が選ばれ,この中の2人の市長(1人は副市長)と14人の参事会員が一年任期で交代するシステムであった。
大火のあと復興計画も手付かずの時なのに、参事会員交替式が火災に遭わなかったもう一つの教会を会場にして行われ,祝祭カンタータ「神はわが王」BWV71演奏が行われた。一同は満足と勇気をもらった。

この曲の第2曲アリア・コラールでテノール「わたしは今や80才、なぜこんなに重荷を背負わなければならないのか。わたしは望む、私の町で父と母の墓のそばで死ぬことを」、ついでソプラノが「わたしはこの世でわたしをより高めようとして,患難辛苦を乗り越え、歳月を超えてきたように、罪と恥から身を守るために、忍耐を重ね,誇らしく白髪となった」。と歌っている。
新任の46名と退任の46名、列席した人たちは感銘を受け,勇気づけた、歌詞の言葉は言葉は、旧約聖書のダビデ王の故事から取られている。ダビデは王になる前、身内の裏切りに合い、国境地帯を逃げ回っていた時、助けてもらったバルジライの恩を、王になってエルサレムの宮殿ができるから一緒に暮らそうという。バルジライは丁重に断って、わたしはもう80歳になります。亡き父と母のそばで暮らしたいのです、と言った。(サム下19:36)
若いバッハにとって、交替する46人の参事会議員の労苦を労い、新任の46人にあとを頼むという、感銘深い音楽となった。後に、その楽譜は200部印刷されて配られたことで、参議会議員交替式の意義を伝えている。
(1723〜1750

 

69 わが魂よ主をたたえよ1725年8月15日 初演
1748年8月26日
マルコ7:31-37 耳の聞こえない者の癒し
2コリント3:4-11
パート譜で残っていた楽譜をバッハは晩年に改作し1748年の参市参事会員新任式の礼拝で演奏した。わが魂よ主をたたえよ BWV69 全6曲
参事会員新任式
1.合唱
2.朗唱 ソプラノ
3.アリア アルト
4.朗唱 テノール
5.アリア バス
6.コラール 合唱1.合唱
わが魂よ主をたたえよ
主があたえたすべての恵みを忘れるな。(詩編103:2)
71 神はわが王ダビデは40才になった息子アブサロムの裏切りにあい、亡命生活をしていた頃、ダビデを匿ってくれた富裕なバルジライに助けられた。やがてアブサロムが戦死し、エルサレムに帰還する時が来た。ダビデは大変世話になったバルジライを連れて帰り一緒に住もうと言った。しかし、「バルシライはわたしはもう80歳になります。父母の墓のそばで暮らしたいのです。自分の代わりに息子をを連れ行ってくださいと言って固辞した。」サムエル記下 19:33-38
このエピソードをバッハは本曲BWV 71「神はわが王」の第2曲に取り入れた。
バッハは、1702年、22才の12月に、ミュールハウゼン市ブラウジス教会オルガニストの任命を受けた。ところが、その三日後に400軒が被災する大火が起こり、しかも市長宅のモルタル塗りの屋根から出火した。三つある教会の二つも被害を受けた。その渦中にバッハは結婚したばかりの妻と引っ越してきた。大変な年明けとなり、2月4日に市の新参事会員の就任式が行われた。このために「神はわが王」BWV 71を作曲、演奏した。初仕事でした。バッハは次のように作曲した。
第1曲テーマ「神はわが王」 神の意を受けた神聖ローマ帝国直轄自由都市 ミュールハウゼンの行政を司る 46人の参事の中の12人と 2人の市長 (1人は副市長)が 一年任期の交替で就任する。その就任式の祝祭カンタータです。大火の後で復興計画もままならぬこの時に、就任式は延期にはせず、被災しなかった3番目の教会で行われました。
第2曲の歌詞を、今日の言葉、ダビデの話の一節から、ダビデの苦境を助けたバルシライの言葉を歌い、そのままミュールハウゼン市の火災に対処した、高齢の参事官の苦労に感謝を表しています。
祝祭は壮大な曲によって活気に満ちた。楽器が、3トランペット ティンパニ 2フルート 3弦 2オーボエ、ファゴット 2フルートとチェロ、オルガン それに4声部の合唱。これほど大規模なバッハの祝祭カンタータはほかにないそうです。
最後の第7曲 合唱
「新しい治世に それぞれの道で祝福の王冠あれ。安心、平和、福祉に常に満たされ、
幸福、救済がなされ、治世が守られるように。新しい治世に 喜び、救い、偉大な勝利がありますように。国中の町や村にも、日々新たにヨゼフ王※が喜ばれんことを。」
119エルサレムよ主をほめよバッハの仕事は毎日曜日の礼拝にカンタータを演奏することだった。トマス教会は朝、昼、夕3回の礼拝があり、50メートルばかり離れた隣のニコライ教会の礼拝に少年の中から指揮者と数人を選んで送り、またライプツィヒ大学教会の式典などの責任があった。
通常の礼拝は年間50回ほどあり、そのほかにクリスマス、受難、復活、聖霊降臨、宗教改革記念日、マリアの祝日、大天使ミカエルの祝日、それに結婚式、葬儀などの祝祭カンタータがあり、祝祭はフルオーケストラがついた。
193シオンの門よヤコブの住まいを
結婚式カンタータ

結婚式カンタータ

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正しい人に光さし出で BWV195

しりぞけ物悲しい影       BWV202

喜び高く舞い上がれ      BWV 36c

尊きレオポルト殿下よ    BWV 173a

クォドリベット

      シャガール

結婚式カンタータ 34a,120a,195,196,197,202,210,216

 

       正しい人に光さし出で BWV19
初期稿は1741年9月11日に挙行された、法律顧問でナウムブルグ市長であったG.H.Bingとトマス教会の牧師の娘エレオノーラ・シュッツ(ハインリッヒ・シュッツの姪)の結婚式で演奏されたと推定される。歌詞は、新郎新婦を暗示する表現を用いているが、本曲は「正義(Gerechtigkeit)」ということばから新郎が法律家であったことがうかがえるとしている。(バッハCD全集、坂崎 紀) 「正しい人」

(Gerechten義しい人たち)について 本曲に4回でてくる。初期稿は1741年9月11日に挙行された、法律顧問でナウムブルグ市長であったG.H.Bingとトマス教会の牧師の娘エレオノーラ・シュッツ(ハインリッヒ・シュッツの姪)の結婚式で演奏されたと推定される。
歌詞は、新郎新婦を暗示する表現を用いているが、本曲は「正義(Gerechtigkeit)」ということばから新郎が法律家であったことがうかがえるとしている。(バッハCD全集、坂崎 紀) 「正しい人」(Gerechten義しい人たち)について 本曲に4回でてくる。「義しい」は神に,道徳的、法律的正しさというより、神に対する誠実、おそれ敬う敬虔からでてくる態度や行為と考えられている。新郎と新婦は、神の前に誓いを立て、結んだ契りを、神は祝福して、結婚生活をスタートして、終わりの完成に導く。歌詞からこういう内容を読み取ることができる。

しりぞけ物悲しい影よ BWV202

成立年代は不明で、親しい知人の結婚式を祝うための作品であったと考えられている。全9曲からなり、ギリシャ神話を題材にした上品な作品で、ソプラノ用の独唱曲であることから、数多くのソプラノ歌手が挑戦してきた作品である。

成立年代は不明で、親しい知人の結婚式を祝うための作品であったと考えられている。全9曲からなり、ギリシャ神話を題材にした上品な作品で、ソプラノ用の独唱曲であることから、数多くのソプラノ歌手が挑戦してきた作品である。 成立はもっと古く、ケーテン時代(1717年 – 1723年)に遡るといわれている。さらに遡ってヴァイマル時代の作品である可能性を示唆する学者もいる。 (wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

カンタータ2024

カンタータ2024

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  カンタータ2024

      🍅 カンタータ 2024年
    楽器 ボーカル構成表
    http://piqua-1.la.coocan.jp/Cantata.html
17 120 神よ、あなたはシオンの静けさの中で                  市参事会議員交替式 20240514
 16 29 われら神に感謝し 20240510
15 036 よろこび高く まいあがれ 202405
14 36a 喜び空に舞いあがれ 202405
13 36b 喜びがわきあがり 20240503
12 36c 喜び高く舞いあがれ 20240422
11 195正しい人に光さし出で         結婚式カンタータ  
10 84  わたしはわが幸に満ち足りている  20240330
9 007  主キリストはヨルダン川に来たり  洗礼者ヨハネ記念日  20240326
8 013  ため息も涙も数えきれない 20240319
7 049 行ってあなたを慕いあえぐ  20240308
6 009 私にきた救いは 20240308
5 186  魂よ怒ることなかれ 20240224
4 199  わが心 血の海を泳ぐ 20240208
3 163  人はそれぞれ分に応じて 20240127
2 114  ああ愛するキリスト者よ雄々しくあれ 20240121
1 089  いかにすべきかエフライムを 20240114
  備考 2023年末  
BWV05  どこにわたしは逃れるべきか 20231229
BWV18  魂よ自分を飾れ 20231215
BWV83  喜び満ちる契約の時 20231212
BWV82  わたしは満ち足りている 20231203
     
     
     

🌸🌺🌼🌝🌿🪴🎋🔥🌈🍎🍇🍅🥕🥯

🟡 エリカ・シューハート氏からのメール 

🟡 エリカ・シューハート氏からのメール 

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  7月13日 エリカ・シューハート氏(ハノーハー大学名誉教授)から

  メールを受け取った。

 2007年に来日、長崎ウエスレヤン大学の文化祭の講演会の講師として来られた時、わたしは接待の役を務めだが、それ以来の久しぶりのメールでした.

 わたしが翻訳した「なぜわたしが」を出版し、その後、樋口隆一氏(当時、明治学院大学教授)による翻訳.「この口づけを世界のすべてに」-ベーヴェンの危機からの創造的飛躍-エリカ・シューハート著の翻訳が出版された。

 また、「日独交流150年」(2013年)記念の集会が日独互いの地で催された。

その動画12本と、彼女の全150本の動画のリストが送られてきた。

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その中から3本の動画を紹介しようと思います。

1. シューハート氏は2007年に来日した際、長崎ウエスレヤン大学(現鎮西学院大学)で秋の文化祭のプログラムとして同氏の講演会「危機を生きる」を開催することになり、わたしが責任者として諫早でのお世話をした。その際、彼女の著書「なぜわたしが」の翻訳許可を願い、2011月1日1日に昭和堂から
長崎ウエスレヤン大学研究叢書として、出版した。
 そのドイツ語の文章はとても難しく、著者の紹介により、ドイツ在の戸川英夫さんに監修して助けてもらってようやく出版できました。

 この翻訳の2年余りを通して著者と交わりを深めて「苦しみ」が持つ悲惨と、克服するプロセスを丁寧にたどって構築された理論を知ることができた。

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その後、日独交流150年」(2013年)記念の集会が互いに催された。
ドイツでの集会の動画が、彼女の動画リストの中にあり、
テロップに日本語訳が出てくるのでわかりやすく編集されているので、

みなさんに見ていただければと思いました。

一、動画1.挨拶       ※動画1

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二、ドイツでの日独交流集会で、前座をつとめられた樋口隆一氏(当時、明治学院大学教授)は.「この口づけを世界のすべてに」-ベーヴェンの危機からの創造的飛躍-エリカ・シューハート著の翻訳者であり、東日本の震災の時の助け合い、思い合う人たちの中に、ベートーヴェンの時代とは違った苦難の受け止め方を指摘している。           ※動画2

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二、3番目は、シューハルト氏の圧巻の講演である。※動画3

 彼女は「なぜわたしが」を書いた後、ベートーヴェンが21才の時にしたためた-ハイリゲンシュタットの遺書-をめぐる議論の中で、56才で亡くなる晩年までに、内に抑圧されてきた愛を爆発させる第九交響曲の最後の合唱を挙げ、「この口づけを世界のすべてに」を出版し、「ベーヴェンの危機からの創造的飛躍」を論じた。

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 さて、ベートーヴェンは21才の時に、オーストリア近郊の保養地ハイリゲンシュタットに滞在していた時に「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いて誰にも見せなかった。そこには難聴になったベートーヴェンの深い苦悩が綴られて、自殺を決意した孤独と苦悩、を書き留めていた。
 56才で亡くなるまで、誰にもわかってもらえない孤独の苦悩と孤独とは、ベートーヴェンの作品の中に渦を巻くようなうねりをなして、彼女が示した八つのらせんの各局面を登り下りしながら「この口づけを世界のすべてに」の「愛」となって現れでる。第九交響曲の最後の「歓喜の歌」の苦悩即愛の二重性を読みとる。
「もう金輪際、誰とも袂をわかつ」という孤独と表明、それは「世界のすべての人にキスを捧げたい」愛の裏返しのキーワードである、その鍵を解いていく。
21才で難聴になり聞こえなくなっていく悲運を遺書に認め、
分かってくれないだれにも、みせない決意を表しできたが、
遺書は死後に発見されたように、「すべての人にわかってもらいたい」、底知れぬラブコールになっている.

 56才で亡くなるまで、ベートーヴェンの難聴ー無理解ー怒りの爆発ー引き込む孤独ーそれらが螺旋の各局面をなして、ダイナミックならせんの局面をなしていく。最後の局面は、「果てしない苦悩」と「すべての人に口づけを」という偉大な「愛」の相反する二重性の意味、苦しみを背負った人の苦難の意味を解き明かし、苦悩する自分を受け入れ、世界との連帯を導く。
苦しむ経験はすべての人と共に生きる力になりうることを解明している.

 

 話の中で、ベートーヴェンの作品を講演の要点に触れて、
ピアノ奏者が楽譜から例示する、各フレーズの分析もわかりやすく
感動的でもあった。
講演は日本語テロップで読めます.時々止めて、ゆっくり聞いてください。

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その1 ベートーヴェンの夕べ あいさつ E.シューハート

動画12本再生リスト

その2 挨拶 訳者:樋口隆一教授 :

その3 音楽と講演: E.シューハート

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※1,苦しみの意味については

なぜ わたしが エリカ・シューハート著、

   戸川英夫監修、山城順訳 
   昭和堂・ゆるり書房、2011

    https://minichap.com/can-ta/wa-rum/

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ベートーヴェンを事例にした研究は
※2.「この口づけを世界のすべてに」 
ベーヴェンの危機からの創造的飛躍 
エリカ・シューハート著 樋口隆一訳
アカデミア ミュージック刊 2013/3/2

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ガリ版から www.ネットワークへ

ガリ版から www.ネットワークへ

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ガリ版から www.ネットワークへ

同じテーマで書いた文章を、ボタンひとつであっけなく消してしまった時の残念無念、そろそろ残念な気持ちが薄れてきたようで,勇気を出して、心機一転,もう一度書いてみようと思います。

このテーマは牧師時代の、日曜日の礼拝順序と集会等の案内報告、教会員の消息など「週報」に書いて,
印刷して、玄関のボックスに入れて日曜日を迎えるという、ガリ版印刷の31年間から始まるものです。
一枚の週報を作るために印刷メディアがどんなに変ってきたかを思えば、よくもまあ,と思うほどで、
ガリ版」から,現在のPCとプリンターに至るまでの記憶をたどります。

1.ガリ版 1969年スタート——

ロウを塗った紙をヤスリの上に乗せて、鉄筆でロウをはがし、そのうえからローラーにつけたインクで、下に置いた紙に写して印刷します。ロウの紙には一面に線が引いてあり、四つのマス目に一文字書くようになっています。ここで字を書くのが下手な私は苦労するわけです.どうしたら、上手く描けるのか。

人が書いたものを、あんなにかけたらいいのに、と羨ましく思い、KW先生は本当に上手でした。私が見たガリ版文字の中で最高でした。
その四角形四マスを縦,横三分の一を偏に、縦のかんむりを三分の一にすれば、より綺麗に書けるなど、いろいろ考えました.

2.印刷輪転機

万国博覧会が終わって、経済は上り坂、高度成長期のスタートラインくらいだったのか、輪転機印刷機が出て,輪転機から印刷物が高速で出来上がり、大いに時間短縮になりました。が,ムラなく仕上がるためには要領が入りました。また,その頃はA4よりも一回り小さいB5でした。B5はとにかく、その半分のB6版と小さくなると,紙が離れなくてトラブルが起こり,対処するのに手間がかかるようになりました.

  1. 3.デュプロ

アメリカ製のデュプロは用紙に鉛筆や活字で叩いてカーボンを塗りつけて、揮発油で溶かして輪転印刷するというもので、カラーでした。

4.アルバイト

教会に来るようになったKBさん。鹿児島出身で、東京に出てデュプロ事務機に勤め、ノーハウを得て福岡で店を持つことになった。私も週に一日手伝いに行くようになり、飛び込みでレターケースを売るようにと言われて、ちょっとどうかなとも思ったけれど、使いそうな店に飛び込みで何軒か尋ねたが、一台も売れなかった。

高度成長期に入って、大型店が建つようになったが,職を失う人も結構いて、長崎県から職探しにきた青年を教会に泊めて話をきいたことがある。
私も思うようにはできなくて店の手伝いは立ち消えになった。
けれども、KBさんは下取りした印刷機類を月賦で譲ってくれることになり,それから色々な事務機を下取り機械で経験することになった。教会には、事務機費を出してもらう余裕はなかったので、月賦代金を支払う関係が、旧印刷機時代が終わるまで続いた。

5.活字活版印刷

縦横6ミリくらいの鉛の棒、標準漢字の数はあったと思う,逆さま文字を見て字を選び、うらがわのテコで打ち出して、蝋を敷いた紙や改良された用紙に文字を打ち出して、輪転機印刷をする。印刷会社で作っていた印刷物が個人でできるようになった。裏返し文字でも覚えてしまったが,目が疲れた。
そのうち、文字をプリントした文字板を張り、正面から見える文字はありがたかった.教会の週報も活版文字で見れるようになった。印刷収入を考えたが、中古品なので絶えず修理をしながら、せまりくる時間と戦い、何をしてるんだろうかと自問しながら、軌道には乗れなかったなぁ。

春日東教会

25周年記念誌

1984.4.5

印刷したものは
週報印刷 一年 51 (週) x 50枚、説教(毎年-前期•後期)、誕生カード、クリスマスカード,総会資料
教科書:福岡女学院短大,大学,のちに西南学院大学ー毎年テーマを変えて教科書を作り500円で販売した。

大学闘争でいつまでも古いノートを読んで授業する老教師が槍玉に上げられて,授業管理は私学補助金と引きかに文科省の手に渡った。それで批判側にいた私は教科書は自分の手でという思いを,無理しながら保っていた。
前期・後期 毎年新課題で
九州教区事務所 主事を数年 教会,牧師住所録 教区,教団、県庁宗教法人課、手続き書式等
B4からA4へ

6.ワープロからコンピュータへ 1980年代 ——–
コンピュータは、ワープロも、八つの点(ドット)で文字を作っていた。それでは使い物にならなかった.また20 万円という金額を生まれたてのワープロに使うわけには行かなかった。エプソンやアップルも試してみたが、毎年2回ほど新製品を出すPCには、振り回されたという記憶しかない。
12インチのフロッピーディスクが3000円もしていたなんて、書いておかなければ忘れてしまいます。

7. WWW ネットワーク 1980年代末世界を一回りするネットワークは、情報を      パッケージに集めて送る方法がアメリカ軍事情報の関係で開発された、
コンピュータの役割が世界を繋ぎ、隣の家にいるかのような近さに変わっていった.
私は1980年代の末に、アサヒネットに入り、メールとホームページを始めた。時代はどんどん変わっていった。当初から長い間,スマートフォンの普及までーホームページを見てくれる人はいなかった。が、自分の書庫としても絶えず、書き込んでいた。それが今chapblogとなって、再生しています。8. そしてオープンソース

アップル、マイクロソフトは一時代を作りあげ、大きな存在だった.この生き方に意義を持つ人たちがその何倍も多くいるようだ.スエーデンなど北欧の学生たちが始めた、データを公開し,共有してコンピュータを作り上げた.無料の「オープンソース」のシステムやソフトがあっというまにひろがり、毎年更新して法外利益を得てきた巨大な会社が終焉を迎えている。どんな強靭なシステムを作っても穴・バグか見つかり攻撃してくるからである.オーブソースは秘密にするものがないので、攻撃しても利益にはならないようだ.
今回一年半かかったホームページとブログは、オープンソースで、秘密なし,平等,自由、つまり個人のプライバシーを基本的に守る。こういう思想によって、できた。利用者が増加している。

春日東教会

40周年記念誌

1999.3.1

現在

私が使っているオープンソースのシステムは、このwordpresでつくった。
Libera Officeはオープンソフトで、マイクロソフトオフィスのワード,エクセル、パワーポイントと同じシステムを、無料で提供している。
私が職場で使っていたOfficeは2003年でサポート終了となり、買い替えなければ,動かない。
データも全て無効となった.マイクロソフトというシステムソフトは完成度を極め、もう開発するところは無くなってしまった.年間契約とか、月割,日割りとあらゆる手で集金組織に成り果てた。それでも、穴を見つけて攻撃され,対応に苦慮している。

動画制作のOpenshotも助かっている.それゆえに、日々、内容が充実した作品を見て、作りに精進しようという気持ちを強めている.
このオープンななかまたちが世界中で縦横に通じる通信時代を開いてくれる。そのように,期待し,確信している。
わたしもwordpressの恩恵を受けて、世界に翼を広げて交信したいものです。

いかりチャンネル

いかりチャンネル

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       飯山陽(いいやまあかり)    20231124

 この二、三日YouTube、1日6時間半?見てるよ!いいのってiPadで注意を受けた。
 えっ?と我に帰ると飯山陽の発信を一通り見ようとしていた。

 

イスラエルとハマスとの、ガザで起こっている衝撃報道に触れて、なんか変だとは思っていた。
イスラエルの歴史学者ユバル・ノア・ハラリさんの緊急取材(どこの局か覚えていない)インタヴューを見て、「イスラエルはガザの人たちと戦っているのではなく、ハマスのテロと戦っている。」このことを知ってほしいという苦渋の言葉が記憶に残っていた。彼の身内も連行されているとか。そのくらいの認識だった。

 

 さて、この一週間も経っていない間に、飯山陽が発信するハマスをめぐる中東問題の構造がわかってきた。
彼女がいうには、イスラム教の世界を正しく理解し、対立している西欧資本主義諸国(日本も別枠?で入っている)の 、石油利権をめぐる枠組みを知らなければならない。

 

 さらに、イスラム教自体は宗教なので、テロは行わないが、ハマスに武器と多額の資金援助をしている。(発信している報道でハマス幹部が超高価な高層ビルに住んで贅沢な生活をしている映像を見せている)テロと指定された組織である。彼らがガザのパレスチナ住民を盾に取って、病院の地下に拠点を作っている。このハマスをイスラエルは殲滅しなければ、問題は解決しないと言っている。
加えて言えば、イスラエルの富豪が所有している、日本で作った「自動車運搬船」襲撃、拿捕は、これまたハマスと同じイラン資金によって活動を始めた「フーシ」派によるものだそうだ。
これらの現場がユダヤ教、キリスト教、イスラム教発生の舞台ーアブラハム、ヨセフーモーセのエジプトからシナイ半島の南端ーそして今のパレスチナ、イスラエルと重なっているとは!

 

 三宗教の存在理由が問われているのではないかと思われる。
これらの問題の理解にはアラビア語の日常会話ができて、事態を間違いなく理解して交渉できる人材が不可欠となる。この意味で、シリアまたエジプトで生活し、通訳をしていた飯山陽さんの発言は問題を正確に伝えている。彼女の10冊ばかりの著作が、Amazonで総合一位!。女性の購読者が多いそうだ。
政治の無限の弱体化の中で、変化の兆しを感じているのはこうした女性たちではないだろうか。

福岡バッハコレギウム 最終演奏会

福岡バッハコレギウム 最終演奏会

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福岡バッハコレギウム 最終演奏会

その時はついに来たりて、
福岡バッハコレギウム最終演奏会
この日だけは伺って挨拶を交わしたい。
思い出いっぱいありがとう。

 前日に出かける準備をして寝たが、

朝起きると左目が出血して,

半分以上真っ赤になっている。

痛くも痒くもない。

ネットには治療法はなく、

自然治癒を待つのみとあった。

これはちょっと見る人が驚くかも。

と思って、断念した。

10年余りの記憶を、

ブログにとどめておこう。

Bach就任300年

Bach就任300年

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Bach就任300年 JSバッハ トマス教会カントル就任300年記念行事
https://youtu.be/uejrik8FX9Y

 Bach for Future(未来へ向かうバッハ)というテーマのもと、

6月8日、1723年就任にちなみ17時23分前夜祭を開演、18日まで、世界から40の団体が集まり 150回のコンサートが開かれた。


 日頃、Youtubでお目にかかっいる団体と指揮者と合唱団、ソリストが出演していた。
YouTubeを通して見るJSバッハとトマナコア、またいく人かの愛好者たちについて、わたしはたった5年ばかりなのに、驚くべき成長、変革を感じてきた。その一番は本拠地のトマナコアであり、スイスのバッハ財団は急速に成長した。オランダの「オールオブバッハ」の100年は驚嘆する。新旧交代がうまくできてよかった。CDを通して出会ったヘルムート・リリンクはお疲れ様の引退をした。そして鈴木雅明率いる日本バッハコレギウムは跡継ぎがついている。

 1.スイス・ガレンのルツさんのバッハ財団、20年というから、わたしはyoutubeで見るようになった5年前くらいから急速に成長、洗練されたと驚くとともに古参になって、逆に伸びしろがなくなった寂しさを感じている。

 2.この間に、トマーナコア(トマス教会少年合唱団)はG.C.ビラーさんが亡くなって、ライゼさんが就任してあっという間に別の特色を出して「成功」している。
ビラーさんは生粋のトマーナで、戦争、ナチズム、東ドイツの悪夢の時代から回復する使命をもって、彼が受けたトマーナの純粋な生命を蘇えらせようとするかのように、力を尽くしていたことを強く感じる人でした。
ナチズムの時代の指揮者ギュンター ラミンの演奏と説明の中に、トマーナの少年たちを郊外施設に退避させ、ヒトラーユーゲントに連れて行かれないような抵抗をした(成功したか否かは覚えてないが)というエピソードを読んでため息をついた。また、トマーナコアが、1980年代に日本公演で福岡にも来た時、福岡の少年が(その中に木の脇道元さんも)参加したことで記憶に残っている、その時の指揮者ヨアヒム ロッチェが東ドイツ崩壊に伴う、密告者告発の「シュタージ」で逮捕されたというニュースを、天神の紀伊國屋書店で立ち読みした音楽雑誌の中に見つけた時、ショックだった。その後任であっただけにビラーさんの純粋な生き様に惹かれたが、もっと活躍できる年齢(私より若干年下)だっただけに残念です。Youtubeで演奏録を視聴できるのはありがたいです。

 3.ライゼさんはその後任にあたる。スイス生れ、カトリックで、教会音楽分野で少年合唱団の指揮者、舞台音楽等幅広い研鑽を積んだ実力者で、今回の300年行事の責任を負った。コロナ禍が長引く中、会衆がいない演奏録画放映が続いた。自ずと少人数で間隔をとった演奏。また世界各地から大勢参加したweb合唱もコロナ禍ならではのことで、若い人が参加しやすく、新しい試みに意欲的。

 4.次に、2013年にバッハの全曲演奏「オール オブ バッハ」を目指して100年の歴史をもつオランダ・バッハ協会の「オール オブ バッハ」、その中に2018年から加わり、指揮者を務めている佐藤俊介の活躍とみなさんの成長と老若の入れ替わりがすごい。(2019年来日公演) 市民社会が特徴なオランダの人たちらしく、「みんなで」作り上げている感が伝わって、その意味で好感が持てる。

  5.隠退したヘルムート.リリンク。
福岡バッハコレギウムにいた10数年、リーダーの武田又彦先生にリリンクの名前を聞いて「カンタータ全集」CDを聴くようになった。武田先生は、リリンクの日本でのセミナーで、指揮法を学んで、セミナーの最後に模擬演奏の指揮者に選ばれたそうで、私は好感を持っていた。ところが、youtubeでリリンクの演奏を見ていた人が「嫌だ、ミリタリー音楽みたい」と書き付けているのをみて、びっくりした。マタイ受難曲の冒頭合唱で(後に、ベートーヴェンがバッハにヒントを得て「運命」(第5番)の冒頭に用いたといわれる「デインパニの連打」を、「軍隊音楽 嫌い」と書き込んだ評に衝撃を受けた。
マタイ受難曲は神学生の最終年度に神戸栄光教会のクリスマスに清水さん率い聖歌隊に入れてもらって歌った。バッハの初体験でした。楽譜にカタカナで「イザウタエ」というように書き込んであった。その「命令形」に、私は遭遇したのです。はたと考えて、「さあ歌おう」(lets sing)みたいな使役動詞を使った「私をして歌わせたまえ」みたいな感じではどうだろうか。・・・こんなふうに考えさせられた、今もそう考えている一件でした。

 6.最後に、日本バッハ・コレギウム(BCJ)は、300年記念のフィナーレに選ばれて、ロ短調ミサを演奏。鈴木雅明先生のライフワークの頂点であり、日本のバッハ運動と芸大に設置されたバイブオルガン学科は新しい使命に向かっていく。喜びに満ちた美しいひとときでした。コロナ禍の長いトンネルからいきなり花が咲いたような10日間だったですね。おめでとうございます。
同記念行事は7月24日配信

参考
「音楽な人たち」

木ノ脇悦郎先生追悼

木ノ脇悦郎先生追悼

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木ノ脇悦郎先生 6月5日逝去、
8月3日福岡女学院エリザベス・リー・ホールにて、記念会が開かれた。

私は炎暑のなか、体調低下のため、欠席となり、

私の文書を読んでいただくことになりました。

参加できなかったひとのため読んで頂ければと思い、

私のブログに掲載しました。

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 木ノ脇悦郎先生 感謝を込めて

神学部に入り、特に成全寮での生活は、6年間の学びに肉がついたと思えるような大事な時間でした。
いろんなタイプの人が集まった二つ上のクラスは、わたしにとって魅力的でした。そのクラスの木ノ脇先生との出会いも、その後長く続き、私の春日東教会での31年は木ノ脇先生に彩られていたと思い感謝です.

 
ある日、福岡女学院の長い廊下で西垣先生と出会い、後任を探しているんだけ。ど、と聞かれ、木ノ脇先生の名前を言い、どんな人?、学生にとっていい人です。と答えました。まもなく、福岡女学院聖書科の教師として引っ越してこられ、春日東教会は温かさに溢れました.ひ
 九州教区通信の委員をした時、奄美地区の取材を企画して、一週間現地訪問をしました。結論として、奄美地区の人たちが教区の集会に船を乗り継いできている。飛行機で来れるようにと要望して、実現したので、奄美地区の皆さんには感謝されました。

 

 その時、名瀬教会の雨宮恵牧師は、木ノ脇先生の義兄に当たる丸山牧師の喜界教会、らい療養所佳南園石原牧師、瀬戸内教会佐藤俊一牧師の4ヶ所での伝道集会を計画してくださり、九州教区通信に報告しました。その途中、南端の瀬戸内古仁屋で文房具店をしていたお母さんが亡くなられて、弔問に連れて行ってもらいました。
 戦後長い間、米軍の管理下にあった時代、この環境から飛び出したいと思った人たちの中に木ノ脇先生はおられました。まさに、わたしは木ノ脇ランドを巡っているようでした。

 

 先生が哲学史の一科目で留年した時のことを、他に何もすることなく、一緒にいる下級生に負けてなるものかという思いで、一念発起してラテン語を勉強を始めた。その一年間の話は印象的でした.
 それから、エラスムスの新約聖書ラテン語訳の各書の序文[エンキリディオン]を取り上げて、毎年キリスト教歴史学会で発表され、その前にどんな発表になるのかを私が聞き、福岡が会場になった時は聴講に行きました。エラスムス研究は荒井献先生に評価され、博士論文となり神学部の宝といえます。研究対象のエラスムスの生涯と、先生の人生には共通するものがあると思います。

 

 ある時、先生が先生のお子さんと私の子と一緒に英語を教えようと言われ、じゃ私は宗教教育をと言って、その年のクリスマス礼拝ではアンサンブル、夜はキャロルでは道元さんの夜空になり響くフルートと一緒に回ったことでした。
 先生が関学神学部に行かれた時は歓送会を開き、喜んで送り出しました。
 私は子育てが終わった55歳で、春日東教会での31年を離れ、母校鎮西学院宗教主事として15年務めました。

 

 その間、福岡女学院に戻られた木ノ脇先生に鎮西学院の理事として助けてもらい、更に交友をいただきました。
この不思議な出会いと交友を与えてくださった神様にはつきぬ感謝をささげます。

 

2024年7月1日 山城 順 記

マリアの祝日

マリアの祝日

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マリアの祝日

   マリアの祝日

受胎告知、マリアのエリサベト訪問、

 

わが心は主をあがめ BWV10

601727年2月2日 マリアの潔めの祝日 ルカ2:22-32

バスの独唱、オーボエダカッチャ、バィオリン、ビオラ、通奏低音

2月2日のマリアの祝日、バッハはほかに83,125,158,161,200番の6曲を作っている。
この日の聖書箇所生後八日がすぎて、子を聖別するためにエルサレム神殿に詣でた時、/主に会うまでは死なないといわれていた老人シメオンに会い、シメオンは幼子を抱き、神をたたえた。/
この個所から、/シメオンと共に生きる喜びを知り
彼と共に去りゆかん・・・/という言葉か歌われている。
第3曲/まどろめ、つかれたまなこよ /は最も親しまれたバスのアリア。フェルマータによって何度も中断される<ゆりかご>のリズムが特徴を出している。

満ち足りている BWV 82

 

 

 

1727年2月2日 マリアの潔めの祝日 ルカ2:22-32
バスの独唱、オーボエダカッチャ、バィオリン、ビオラ、通奏低音

2月2日のマリアの祝日にもバッハはほかに83,125,158,161,200番の6曲を作っている。
この日の聖書箇所生後八日がすぎて、子を聖別するためにエルサレム神殿に詣でた時、/主に会うまでは死なないといわれていた老人シメオンに会い、シメオンは幼子を抱き、神をたたえた。/
この個所から、/シメオンと共に生きる喜びを知り
彼と共に去りゆかん・・・/という言葉か歌われている。
第3曲/まどろめ、つかれたまなこよ /は最も親しまれたバスのアリア。フェルマータによって何度も中断される<ゆりかご>のリズムが特徴を出している。

満ち足りている BWV 82

1724年2月2日初演
聖ニコライ教会早朝礼拝、晩課聖トマス教会
マリアの潔めの祝日 ルカ2:22-32、

イエス聖別の日、シメオンとの出会い
マラキ書3:1-4 神の使者は道を備え、主は宮に来る
コラール ルター「平安と喜びもてわれは行く」1524v4

 

平和に喜んで馳せゆく BWV125

1725年2月2日  マリア潔めの祝日
ルカ2:23-32
基本コラール M.ルター1524
 心と口と行いと命で BWV147
初演 1725年、ライプツィヒ、聖トマス教会
マリア訪問の祝日(現在は5月31日に祝われている。)
聖書 イザヤ書11;1_5、ルカ1;39_56本曲の基本は第一部の第6曲と第二部の終曲にでてくるおなじみの(うちの電話の待ち受けメロディにもでてきます)「イエスわがよろこび」(M.ヤーン作詞,1661)。この二曲は同一の楽譜です。このごろ聖書の言葉を歌う朗唱、いくつかのパターンがあるようで、私としては面白くなっています。2019.6.29