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おはようバッハ-1

おはようバッハ-1

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おはようバッハ 1-1

2024年9月 第1週

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BWV 71 神はわが王 

 

 

17080204 参事会議員交替式

ミユルハウゼン市の6人の市長と46人の参事会議員が2月3日に選ばれて
翌日新任と退任の交替式が行われた。

 

 

 

1.神はわが王 合唱
「神はわが王
いにしえより 
すべての救いの業を
この地でなさる方
神はわが王」
詩編74:12

華やかなトランペットの響きで祝典曲が始まる。

「神はわが王」の動機が繰り返されて、全体を統一している。
——–
みなさんお元気ですか? いろいろと長いトンネルを抜け出て、
新「おはようバツハ」 をお届けしたいと思います。
—-

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おはようバツハ 1-2

第2曲 「わたしは今や80歳、なぜこんなに重荷を負わされるのか」

テノール
わたしは今や80歳、なぜこんなに重荷を背負わなければならないのか。
わたしは望む、私の町で父と母の墓のそばで死ぬことを。
ソプラノ
わたしはこの世でわたしをよりたかめようとして、
艱難辛苦を乗り越え 歳月を越えてきたように、
罪と恥から私をまもるために 忍耐を重ね
誇らしく白髪とならん。
—–

旧約聖書のダビデの物語に、先代のサウル王の後継争いに巻き込まれたダビデが、国境周辺を逃げ回っていた時があります。ダビデが捕えられる危険を感じて、狂人を装ってよだれを垂れて、気味悪がれて、難を逃れたことがあります。またダビデを助けて親身になってくれた人もいました。
やがて追求していた息子アブサロムが死に、ダビデはエルサレムに戻って王の地位を確立し、新時代を迎えた。
その時に、お世話になったバルジライに、エルサレムで一緒に暮らそう。こう言います。ところが、バルジライは「わたしは今や80歳、父と母の墓のそばで静かに暮らしたいのです。息子を連れて行ってください。」と丁寧に断った。(サムエル記下19:32-40)

バッハは1708年ミュールハウゼン市のブラウジス教会オルガニストの任命を受けた。
ところが、その三日後に大火が起こり、市にあった三つの教会の二つが燃え、この騒動の中、バッハは結婚したばかりの妻と引っ越しできた。

 ミュールハウゼン市はローマ帝国の直轄自由都市で、6人の市長と46人の参事会員が選ばれ、この中の二人の市長と14人の参事会員が1年任期で交代する時だった。
 火災の復興は手付かずのままだったが、バッハはこの人たちにバルジライの姿を重ねたのだった。
初仕事になった参事会交代式は、議員たちに深い感銘と力を与えた。その印に、議会は楽譜を200部印刷して関係者に配布し、謝意をあらわした。

 

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おはようバツハ 1-3.

第3曲
「あなたの老年が若き日のように老いていけますように。
神はすべてにあなたと共にいます。」
    創世記21:22
通奏低音だけの伴奏による。
四重唱 ソプラノ、アルト、テノール、バス

 

 

 

 

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おはようバツハ 1-4.

 

 

 

第4曲

昼も夜もあなたのもの
アナタは太陽と星を造り、治められる。
その確かな道は定められ、
全地にそれぞれの境を定められた。
昼も夜もあなたのもの
       詩編74:16-1
アリオーソ バスノ独唱

 

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おはようバツハ 1-5.

偉大な力 われらの国を守りたもう たとえ戦争の嵐がおこり
王冠また王笏が揺らいでも あなたは大いなる力によって
救いをなしたもう 聖なる力によって。

アリア 
「あなたの鳩の魂を敵に与えないでください」 合唱 

アルト独唱と通奏低音にトランペットが挿入句をはさんでいる。

 

 

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おはようバツハ1-6.

あなたの鳩の魂を敵に与えないでください。
合唱 
詩編74:19 トランペットを除く、多彩な編成、
終結部部のアンサンブルが素晴らしい。

 

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おはようバツハ 1-7.

新しい治世に それぞれの道で祝福の王冠あれ。
安心、平和、福祉に常に満たされ、
幸福、救済がなされ、治世が守られるように。
新しい治世に 
喜び、救い、偉大な勝利があらんことを。
日々新たにヨゼフ王が喜ばれんことを。
国中のすべての町や村にも、
喜び、救い、偉大な勝利があらんことを。

合唱 
古いモテットのスタイルで、新しいフーガの技法を加え、
アンサンブルは高揚感を表している。
—–

 

 

 

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229 8月18日 時が満ちて エフェソの信徒への手紙1:7-14

 一年で最も暑い日々になりました。
じっとしているだけなのに、我慢の限度を感じています。
みなさん、くれぐれもお大事にしてください。
 さて、今日はエフェソの信徒への手紙から、
パウロが書いた言葉です。

「わたしたちはこの みこころにおいて、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神のみこころに よるものです。
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、かしらであるキリストのもとに一つにまとめられます。」     エフェソの信徒への手紙‬ ‭1‬:‭7-14

‭‭

肉体を拘束され、牢獄の生活を強いられることになったパウロが、
そのとらわれの中でどのような事を考えていたか、
その事を知るのは驚異です。
というのは、パウロはローマで囚われ、獄中にいます。
肉体のとらわれの中で、精神のまったき自由を示しています。
それだけでなく、彼の信仰の完全なる花を開かせている。
それは見事な作品といえます。

 

パウロの生き様の見事さは、その矛盾に満ちた所にあると言えないでしょうか。
彼の矛盾の中に人間の真実が見られます。  
その矛盾とは、彼が言っているように、獄に捕らわれ、
拘束されているという、不名誉な、不自由の中にいて、
刑罰は肉体を苦しめて、精神も苦しめ、殺せると考えています。
ところがパウロは自分は自由を得ている。自由だというところです。
奪われているのに、多くのものを得ている。
精神の解放を覚えている.
なんと不思議なことが起こっているのでしょう。

わたしたちは自由を夢見ます。楽しみ、喜びを歓迎します。 
しかし精神的にはどうでしょうか。
物質的、肉体のゆたかさが必ずしも人を自由にしているとは思われない.
得ることをのみ求める、その人は失うことを心配する。
奪われることから身を守ろうとします。
しかし、パウロは奪われることの中に、与えられてきたものを見いだしています。
失ったものに愛情を覚えて、感謝しています。 
全てをなくしたとき、見えなかったものが見え始める経験もしています。
私たちもこのような経験に注目したい。
ここに獄中書簡を学ぶ意味があります。

神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる、と言う。
パウロが捕らわれた牢獄は、行動が制限されるくらいのゆるいものだったようです。
吉田松陰は捕らわれて山口県萩市で、牢に繋がれたと言われています。
そこに、しょういんを師と仰ぎ、教えを受けにきた人たちに、
さこくをやめて、若者を海外に送り出そうという「しょうかそん塾」をはじめ、
小さな一軒家から、世界を見渡す力を若者に与えていました。
人の出入りは自由だったようです。

パウロの囚われは、行動は制限されても、出入り自由でした。
このエフェソの信徒に当てた手紙はこうして書かれたものでした。
 
隠れていたものがあらわれ、あらわれていたものが隠れる。
「奥義」に触れるとき、隠れていたもの、見えなかったものが見える。
何が見えるか。見えたものによって、
それが真実であるかどうかが判明します。

 水野げんぞうさんの詩に、次のような言葉があります。
「自分の力では動けない、生きられないと 気づいた瞬間に」
という詩です。
「自分の力では動けない生きられないと 気づいた瞬間に 
わたしをしっかりささえていてくださった 
キリストの愛の み腕がはっきり見えてきた」。

水野さんが小学生の時、当時地域で流行った疫病になり、高熱が続き
熱が引いた時にはもの言うことも、身の回りのこともできなく、
母の世話なしには生きられない状態になった。
母が50おんのひょうを、指差して、瞬きによつて言葉を拾い、思いを表すようになった。
そのようにして書かれた詩です。

水野さんは、閉ざされた世界の中で、牧師の訪問を受け、
心の目が開かれて、これまで見えなかったものを見ると言う。
そういう感動と交流に満ちています。
聖書に出てくる「時が満ちる」とはある意味では、
「自分の力では動けない、生きられないと、気づいた瞬間」と
言えないでしょうか。

ある人は、「隠れた所」で神に出会うという秘義について
次のように言っています。
私たちは誰でも秘密をもっている。人に知られたくないところ。
言いたくない経験。二度と繰り返したくないような失敗。
そういう秘密をもっているものだ。私たちが神さまと出会うという時、
それは隠れた所に触れて、これを癒してくださる。
そのように出会ってくださる。(森有正)

イエス・キリストが神と共にいた場所。
そこは、ベツレヘムの馬小屋の 餌箱の中でした。
人里離れた山のなかで祈りました。
この世から見えないところで、病に苦しむ人を癒された時、
そこは神との出会いの場でありました。
 
神殿をさして、「強盗の巣」にしている、「白く塗られた墓だ という時、
そこに神はいない、と、イエスは批判された。
 それで教会の建物に神はいない、教会の外で出会うと言って、
教会を捨てた人がいます。
しかし、その神殿でイエスは教えられたのではないでしょうか。
ユダヤ教の会堂を借りて、福音は語られたのです。

隠れたものがあらわれるとき、あらわれていたものが隠れる。
神殿はイスラエルが神と出会う時、隠れていた神が顕れられた.
神と人との新しい出会いが始まった。
しかし、あらわれた神は、自分をかくすことによって、そのおくぎを保つ。
そして、私たちの隠れたところで、神は触れ、魂を解き放つ。
このような秘義またはおくぎに触れるのですが、
パウロはローマの牢獄のとらわれの中から、書き記し、伝えています。
パウロのおくぎに触れながら、神が私たちの隠れた所で出会ってくださる。
そういう経験を省み、またこの経験によって新たにされたいと願います。

今日の祈り
恵み深き天の神 7日の日々を守られて、ささやかな礼拝を捧げる。
このような感謝をありがたく思います。ウクライナとイスラエルが戦場になって、
世界が遠い昔に戻ったような、人をころす武器によって、一体何を守り、
どんな念願を果たそうとしているのでしょうか。
死ねばこの世で得たものは全てなくなるのに、
あまりにも多くの犠牲がこころを痛めます。
どうか、悲しみ、苦しむ人に、安らぎの時が来ますように。
願いと祈り しゅイエスキリストのみなによって ささげます。 アーメン

 

 

 

ミニチャペルの履歴

ミニチャペルの履歴

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       ミニチャペルの履歴    №  タイトル  日 付  視聴回数

9.PCが古くなって中古のHueletpaccard

8.新規ホームページができたので、他の二つを廃棄しようとおもっていたが、それぞれに特徴があり、残して三つのサイトを相互に活用することにした。
a.新ワードプレスを「週刊minichap.com」としてチャペルアワーを構成している。
b.ワードプレスβ版を「blog 草の花」として残した。
c.旧「minichapel」 homopqgebuilderでつくった。        20240300

7.旧β版「ワードプレス」(Cocoon)を入れて再利用、ブログ用に使う。20230725

6.ホームページを新規「ワードプレス」(Twentyseventeen)に取り組み

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー20220805~20230605完成

5.福岡市南区大橋に転居、翌2019年1月より「わたしたちのミニチャペル」として再生。 スケッチ、カンタータ集、ホームページ更新 横巾750pxに拡大 -27.665

                                                      ーーーーーーーーーーーーーーーーー20220602 

4.スマートフォン対応を考慮してリニューアル       27.665   27.665   

                                                    ーーーーーーーーーーーーーーーーー   20220204              

3.新規ドメイン minichapel.jp  1Gから10GにUP 容量を拡大 -20.161

              ーーーーーーーーーーーーーーーーー   20211008 

2.アクセス  更新11.000アクセス。ーーーーーーーーーーーーーーー20200420
    大学に勤務した時代、アクセス回数 5554 回で休眠した。—–20200624      

1.春日東教会時代「ミニチャペルパルーシア」開設1980年代9.000回-   20200104

   
#コラールの歌詞の起源  A.シュヴァイツアー

#コラールの歌詞の起源  A.シュヴァイツアー

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コラールの歌詞の起源  A.シュヴァイツアー

「コラール歌詞の起源」は、BachCantata Website(バッハ カンタータ ウェブサイト)」に掲載されたA.シュヴァイツアーの論文(1908)です。キリスト教の初期からバッハの時代まで、讃美歌の歌詞の歴史を記したものです。ドイツ語で書かれたものをGoogle翻訳を利用して、私の理解のために要約したものです。

目次
1. 宗教改革以前の讃美歌
2. 最も古いイースターの讃美歌は12世紀までさかのぼる
3.14世紀と15世紀にそのような広まりを見せた神秘劇も、ドイツの讃美歌の受容を助けた。
4. 16世紀の改革は教会の扉をドイツの詩に開放した。
5. 最初のドイツの讃美歌集 宗教改革以降
6. ルターによる讃美歌
7. 前の時代からの遺産を継承発展する時期から創作へ

 

1.宗教改革以前の讃美歌
初期のキリスト教会では、イエスが弟子たちと賛美の歌を歌っていた。(ユダヤ教の)
初期のカトリック教会では会衆が礼拝中に歌に直接参加するのが習慣でした。その時、頌栄、アーメン、キリエ、そして讃美歌を歌っていました。6世紀の終わりと7世紀の初めにはアンブロシウスによって会衆が参加するようになっていた。
しかし、グレゴリウスの改革によって、讃美歌は会衆を代表して司祭が歌うようになりました。 (僧侶がお経を読むように)
ところが、ドイツでは、この改革は完全には実行されませんでした。彼らがキリエとアレルヤを歌う時、ドイツ語の詩を入れる習慣になりました。ドイツの讃美歌は礼拝奉仕の役割を獲得しました。こうして教会で歌われるすべての讃美歌の終わりのオブリガートを形成しました。これらの曲は「キリエの曲(Kirleisen)」と呼ばれていました。

2.最も古いイースター讃美歌は12世紀までさかのぼります。

「キリストは死からよみがえられた ハレルヤ
慰められるキリストを われらはみな喜びまつる キリエライス」

3.14世紀と15世紀にそのような広まりを見せた神秘劇も、ドイツの讃美歌の受容を助けた。ラテン語とドイツ語が混在するクリスマスのゆりかごの歌には、非常に珍しい魅力があります。それらの詩は、想像できる最も原始的な種類のものです。言葉は、音や揺れるリズムよりも感覚的にまとめられています。それでも、彼らを取り巻く明るいクリスマスの魅力は、消えてしまった世代と同じように私たちに影響を与えます。

バッハのオルガンコラールには、これらの古いクリスマスソングが2つあります。

dulci jubiloでは、
Nun singet und seidfroh。
Unsers Herzens Wonne
Liegt in praesepio、
Und leuchtet als die Sonne
Matris ingremio。
Alpha et O、Alpha et O.(V、Nr。35。)Puer natus in Bethlehem、 In Bethlehem、 Unde gaudet Jerusalem、 Jerusalem。 ハレルヤ、ハレルヤ。 Ein Kind geborn zu Bethlehem、 Zu Bethlehem、 Des freuetsichエルサレム。 ハレルヤ、ハレルヤ。 Cognovit bos et asinus、 Asinus、 Quod Puer erat Dominus、 Dominus。 ハレウジャ、ハレルヤ。 Das Ochslein und das Eselein、 Eselein、 Erkannten Gott den Herren sein、

ハレルヤ、ハレルヤ。 (V46)
やがて、ラテン語の讃美歌はドイツ語に翻訳され神聖な詩として受け入れられた。クレドー信仰告白箇条、十戒、十字架上の七つの言葉、また様々な詩篇も讃美歌の歌詞に組み込まれました。

4.16世紀の改革は教会の扉をドイツの詩に開放した。
14世紀と15世紀のラテン語の讃美歌、詩篇、典礼の聖歌、聖書の断片は新しい教会のために修正し、変更し、改善し、新しい讃美歌に作り直された。

5.最初のドイツの讃美歌集 宗教改革以降
1524年に
新しい讃美歌(Erfurt Enchiridion)が出版された。その26曲の中には、詩篇の8つのドイツ語訳がある。これには、詩篇130「深い淵からあなたを呼ぶ」(BWV131)など一連の讃美歌、2つのイースター讃美歌が含まれています。「キリストは死の縄目につかれた」(BWV4)と「死に勝利した我らの救い主イエスキリスト」、10戒の古い讃美歌、Paul Speratusによる3つの讃美歌、有名な「救いはわれらに来たり)」など。

A 中世の聖歌
(1)イースターの讃美歌 「キリストはよみがえられた」
キリストは死の縄目につき(カンタータBWV 4)
ラテン語の讃美歌、詩篇、典礼の聖歌、聖書の断片。
(2)クリスマス
dulci jubilo(No.35)、ベツレヘムのプエルナトゥス(V、No.46)。
(3)「中世の曲-言い換え」
(十字架上の7つの言葉 V9)
ダイがGebot zehnダイheilgenをシンド(V、12号。、VI、番号19および20)。
ファーターアンサーIM Himmelreich(V、番号47及び48; VII、番号52および53) 。
WIR glauben全てeinenゴット(VII、番号60、61及び62)。
(4)讃美歌は、ラテン語から翻訳。
「われらキリストを褒めたたえ」、「キリストはよみがえられた」、「われら主なる神をほめ」、「来ませ 聖霊よ」、「今こそ来ませ異邦人の救い主」

6.ルターによる讃美歌。
(1)翻訳。
イエス・キリストわれらの救い主なる神 情熱の讃美歌。VI30~33
クリスマスの讃美歌
「イエスキリストあなたを賛美」
(2)聖書を歌詞とした
「深い淵から私はあなたを呼ぶ」詩編130:(BWV 38)
「神はわがやぐら」詩篇46. (BWV 80)
「私は安らかに喜びを持ってかしこに行こう」シメオンの歌・ルカ2:29)
(3)オリジナル讃美歌
「われらの主キリストヨルダンから」(カンタータBWV 7 )
「天の高みから」「天から御使来る」

7.前の時代からの遺産を継承発展する時期から
讃美歌を創造的に作るようになった。 16世紀末から
ドイツの詩全体が宗教的な道へと向かった。というのは
ドイツは30年戦争で、国が荒廃し、破滅の危機に瀕した。生き残ったほのは宗教であり、そのだった。詩はその懐に避難した。ドイツには、その切実な必要性から、世界で比較すものがないほどの宗教的な詩を生み出した、「詩篇の素晴らしささえ青ざめるほどです。」とシュヴァイツツアーは言っている。

この時代の讃美歌は時代を写す鏡といえる。
1613年、疫病で荒廃したとき、ドイツの東部でV.ヘルベルガーは、「ヴァレットウィルイッヒディルゲベン、デュアルジファルシェウェルト」(VII50,51)を歌います。
M.リンカート(1586-1649)「今こそ、みな神に感謝しよう (nun danket alle Gott)」(VII43)は、1648年に平和の結論を鳴らしている間に作曲されました。

ヨハン・リスト(1607-1667)は、658曲を作曲しました。他に讃美歌集で生き残った
パウル・フレミング(1609-1640)、
ヨハン・ヘルマン(1585-1647)、
およびシモン・ダッハ(1605-1659)がいます。

また、これらの讃美歌作家の中には、フィリップ・ニコライ(1556-1698)とヨハン・フランク(1618-1677)の2人の神秘家がいた。
バッハは、ニコライの「明けの明星のいかに美しいかな」の歌詞でカンタータ(BWV 1)を書き、もう1つは彼の「起きよと呼ぶ声」の歌詞でBWV 140を書いた。
また、フランクの「イエス、わが喜び」の歌詞でモテットと2つのオルガンコラール(V31,V29)を作曲した。同じ詩人の「おお愛する魂よ自分を飾れ」(BWV180)を、またコラール幻想曲(VII49)をつくった。
しかし、感情の主観性と教訓的な視点が宗教詩に侵入し、それだけで教会の礼拝のための真の会衆の歌を作り出してきた素朴で単純な客観性を奪います。感情と言葉遣いが微細になって衰退期が始まっているとき、パウル・ゲルハルト(1607-1676)があらわれた。

8.ゲルハルトからバッハへ
ゲルハルトは、この衰退を確認するかのように現れた。彼はルター派正統派の信者であり、驚くべき速さで真の改革をもたらした。
バッハはこのゲルハルトを崇拝者し、彼のカンタータの詩を繰り返し採用している。マタイ受難曲(BWV 244)では12曲のコラールの中で、「血潮滴る主のみかしら」の曲を5曲(15,17,44,52,62)で使用していることからわかります。
敬虔主義は確かにいくつかの精神的な詩を生み出しました。しかし、バッハにとって、それほど重要ではありません。バッハは、讃美歌の本の中から過去の豊富な歌詞を用いた。
彼が自由に使えた資料は、小さなエアフルト1524年の讃美歌集から26曲用いた。バブストの讃美歌集は初版では101曲、ベルリンでほぼ1世紀にわたって使用されていたクリューガー本は、初版(1640)では250曲、第44版(1736)では1300曲、リューネブルク(1686)に2000曲と増加している。ライプツィヒで保存されている目録から、ライプツイヒ讃美歌集の8巻がバッハの所有物であったことがわかります。しかし、18世紀の後半には、もうバッハのカンタータと、その熱気は存在しませんでした。

歌詞を持ったさんびかは「讃美歌」とした。

 

 

🟡 エリカ・シューハート氏からのメール 

🟡 エリカ・シューハート氏からのメール 

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  7月13日 エリカ・シューハート氏(ハノーハー大学名誉教授)から

  メールを受け取った。

 2007年に来日、長崎ウエスレヤン大学の文化祭の講演会の講師として来られた時、わたしは接待の役を務めだが、それ以来の久しぶりのメールでした.

 わたしが翻訳した「なぜわたしが」を出版し、その後、樋口隆一氏(当時、明治学院大学教授)による翻訳.「この口づけを世界のすべてに」-ベーヴェンの危機からの創造的飛躍-エリカ・シューハート著の翻訳が出版された。

 また、「日独交流150年」(2013年)記念の集会が日独互いの地で催された。

その動画12本と、彼女の全150本の動画のリストが送られてきた。

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その中から3本の動画を紹介しようと思います。

1. シューハート氏は2007年に来日した際、長崎ウエスレヤン大学(現鎮西学院大学)で秋の文化祭のプログラムとして同氏の講演会「危機を生きる」を開催することになり、わたしが責任者として諫早でのお世話をした。その際、彼女の著書「なぜわたしが」の翻訳許可を願い、2011月1日1日に昭和堂から
長崎ウエスレヤン大学研究叢書として、出版した。
 そのドイツ語の文章はとても難しく、著者の紹介により、ドイツ在の戸川英夫さんに監修して助けてもらってようやく出版できました。

 この翻訳の2年余りを通して著者と交わりを深めて「苦しみ」が持つ悲惨と、克服するプロセスを丁寧にたどって構築された理論を知ることができた。

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その後、日独交流150年」(2013年)記念の集会が互いに催された。
ドイツでの集会の動画が、彼女の動画リストの中にあり、
テロップに日本語訳が出てくるのでわかりやすく編集されているので、

みなさんに見ていただければと思いました。

一、動画1.挨拶       ※動画1

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二、ドイツでの日独交流集会で、前座をつとめられた樋口隆一氏(当時、明治学院大学教授)は.「この口づけを世界のすべてに」-ベーヴェンの危機からの創造的飛躍-エリカ・シューハート著の翻訳者であり、東日本の震災の時の助け合い、思い合う人たちの中に、ベートーヴェンの時代とは違った苦難の受け止め方を指摘している。           ※動画2

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二、3番目は、シューハルト氏の圧巻の講演である。※動画3

 彼女は「なぜわたしが」を書いた後、ベートーヴェンが21才の時にしたためた-ハイリゲンシュタットの遺書-をめぐる議論の中で、56才で亡くなる晩年までに、内に抑圧されてきた愛を爆発させる第九交響曲の最後の合唱を挙げ、「この口づけを世界のすべてに」を出版し、「ベーヴェンの危機からの創造的飛躍」を論じた。

ーーーーー
 さて、ベートーヴェンは21才の時に、オーストリア近郊の保養地ハイリゲンシュタットに滞在していた時に「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いて誰にも見せなかった。そこには難聴になったベートーヴェンの深い苦悩が綴られて、自殺を決意した孤独と苦悩、を書き留めていた。
 56才で亡くなるまで、誰にもわかってもらえない孤独の苦悩と孤独とは、ベートーヴェンの作品の中に渦を巻くようなうねりをなして、彼女が示した八つのらせんの各局面を登り下りしながら「この口づけを世界のすべてに」の「愛」となって現れでる。第九交響曲の最後の「歓喜の歌」の苦悩即愛の二重性を読みとる。
「もう金輪際、誰とも袂をわかつ」という孤独と表明、それは「世界のすべての人にキスを捧げたい」愛の裏返しのキーワードである、その鍵を解いていく。
21才で難聴になり聞こえなくなっていく悲運を遺書に認め、
分かってくれないだれにも、みせない決意を表しできたが、
遺書は死後に発見されたように、「すべての人にわかってもらいたい」、底知れぬラブコールになっている.

 56才で亡くなるまで、ベートーヴェンの難聴ー無理解ー怒りの爆発ー引き込む孤独ーそれらが螺旋の各局面をなして、ダイナミックならせんの局面をなしていく。最後の局面は、「果てしない苦悩」と「すべての人に口づけを」という偉大な「愛」の相反する二重性の意味、苦しみを背負った人の苦難の意味を解き明かし、苦悩する自分を受け入れ、世界との連帯を導く。
苦しむ経験はすべての人と共に生きる力になりうることを解明している.

 

 話の中で、ベートーヴェンの作品を講演の要点に触れて、
ピアノ奏者が楽譜から例示する、各フレーズの分析もわかりやすく
感動的でもあった。
講演は日本語テロップで読めます.時々止めて、ゆっくり聞いてください。

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その1 ベートーヴェンの夕べ あいさつ E.シューハート

動画12本再生リスト

その2 挨拶 訳者:樋口隆一教授 :

その3 音楽と講演: E.シューハート

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※1,苦しみの意味については

なぜ わたしが エリカ・シューハート著、

   戸川英夫監修、山城順訳 
   昭和堂・ゆるり書房、2011

    https://minichap.com/can-ta/wa-rum/

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ベートーヴェンを事例にした研究は
※2.「この口づけを世界のすべてに」 
ベーヴェンの危機からの創造的飛躍 
エリカ・シューハート著 樋口隆一訳
アカデミア ミュージック刊 2013/3/2

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木ノ脇悦郎先生追悼

木ノ脇悦郎先生追悼

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木ノ脇悦郎先生 6月5日逝去、
8月3日福岡女学院エリザベス・リー・ホールにて、記念会が開かれた。

私は炎暑のなか、体調低下のため、欠席となり、

私の文書を読んでいただくことになりました。

参加できなかったひとのため読んで頂ければと思い、

私のブログに掲載しました。

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 木ノ脇悦郎先生 感謝を込めて

神学部に入り、特に成全寮での生活は、6年間の学びに肉がついたと思えるような大事な時間でした。
いろんなタイプの人が集まった二つ上のクラスは、わたしにとって魅力的でした。そのクラスの木ノ脇先生との出会いも、その後長く続き、私の春日東教会での31年は木ノ脇先生に彩られていたと思い感謝です.

 
ある日、福岡女学院の長い廊下で西垣先生と出会い、後任を探しているんだけ。ど、と聞かれ、木ノ脇先生の名前を言い、どんな人?、学生にとっていい人です。と答えました。まもなく、福岡女学院聖書科の教師として引っ越してこられ、春日東教会は温かさに溢れました.ひ
 九州教区通信の委員をした時、奄美地区の取材を企画して、一週間現地訪問をしました。結論として、奄美地区の人たちが教区の集会に船を乗り継いできている。飛行機で来れるようにと要望して、実現したので、奄美地区の皆さんには感謝されました。

 

 その時、名瀬教会の雨宮恵牧師は、木ノ脇先生の義兄に当たる丸山牧師の喜界教会、らい療養所佳南園石原牧師、瀬戸内教会佐藤俊一牧師の4ヶ所での伝道集会を計画してくださり、九州教区通信に報告しました。その途中、南端の瀬戸内古仁屋で文房具店をしていたお母さんが亡くなられて、弔問に連れて行ってもらいました。
 戦後長い間、米軍の管理下にあった時代、この環境から飛び出したいと思った人たちの中に木ノ脇先生はおられました。まさに、わたしは木ノ脇ランドを巡っているようでした。

 

 先生が哲学史の一科目で留年した時のことを、他に何もすることなく、一緒にいる下級生に負けてなるものかという思いで、一念発起してラテン語を勉強を始めた。その一年間の話は印象的でした.
 それから、エラスムスの新約聖書ラテン語訳の各書の序文[エンキリディオン]を取り上げて、毎年キリスト教歴史学会で発表され、その前にどんな発表になるのかを私が聞き、福岡が会場になった時は聴講に行きました。エラスムス研究は荒井献先生に評価され、博士論文となり神学部の宝といえます。研究対象のエラスムスの生涯と、先生の人生には共通するものがあると思います。

 

 ある時、先生が先生のお子さんと私の子と一緒に英語を教えようと言われ、じゃ私は宗教教育をと言って、その年のクリスマス礼拝ではアンサンブル、夜はキャロルでは道元さんの夜空になり響くフルートと一緒に回ったことでした。
 先生が関学神学部に行かれた時は歓送会を開き、喜んで送り出しました。
 私は子育てが終わった55歳で、春日東教会での31年を離れ、母校鎮西学院宗教主事として15年務めました。

 

 その間、福岡女学院に戻られた木ノ脇先生に鎮西学院の理事として助けてもらい、更に交友をいただきました。
この不思議な出会いと交友を与えてくださった神様にはつきぬ感謝をささげます。

 

2024年7月1日 山城 順 記

ガリ版から www.ネットワークへ

ガリ版から www.ネットワークへ

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ガリ版から www.ネットワークへ

同じテーマで書いた文章を、ボタンひとつであっけなく消してしまった時の残念無念、そろそろ残念な気持ちが薄れてきたようで,勇気を出して、心機一転,もう一度書いてみようと思います。

このテーマは牧師時代の、日曜日の礼拝順序と集会等の案内報告、教会員の消息など「週報」に書いて,
印刷して、玄関のボックスに入れて日曜日を迎えるという、ガリ版印刷の31年間から始まるものです。
一枚の週報を作るために印刷メディアがどんなに変ってきたかを思えば、よくもまあ,と思うほどで、
ガリ版」から,現在のPCとプリンターに至るまでの記憶をたどります。

1.ガリ版 1969年スタート——

ロウを塗った紙をヤスリの上に乗せて、鉄筆でロウをはがし、そのうえからローラーにつけたインクで、下に置いた紙に写して印刷します。ロウの紙には一面に線が引いてあり、四つのマス目に一文字書くようになっています。ここで字を書くのが下手な私は苦労するわけです.どうしたら、上手く描けるのか。

人が書いたものを、あんなにかけたらいいのに、と羨ましく思い、KW先生は本当に上手でした。私が見たガリ版文字の中で最高でした。
その四角形四マスを縦,横三分の一を偏に、縦のかんむりを三分の一にすれば、より綺麗に書けるなど、いろいろ考えました.

2.印刷輪転機

万国博覧会が終わって、経済は上り坂、高度成長期のスタートラインくらいだったのか、輪転機印刷機が出て,輪転機から印刷物が高速で出来上がり、大いに時間短縮になりました。が,ムラなく仕上がるためには要領が入りました。また,その頃はA4よりも一回り小さいB5でした。B5はとにかく、その半分のB6版と小さくなると,紙が離れなくてトラブルが起こり,対処するのに手間がかかるようになりました.

  1. 3.デュプロ

アメリカ製のデュプロは用紙に鉛筆や活字で叩いてカーボンを塗りつけて、揮発油で溶かして輪転印刷するというもので、カラーでした。

4.アルバイト

教会に来るようになったKBさん。鹿児島出身で、東京に出てデュプロ事務機に勤め、ノーハウを得て福岡で店を持つことになった。私も週に一日手伝いに行くようになり、飛び込みでレターケースを売るようにと言われて、ちょっとどうかなとも思ったけれど、使いそうな店に飛び込みで何軒か尋ねたが、一台も売れなかった。

高度成長期に入って、大型店が建つようになったが,職を失う人も結構いて、長崎県から職探しにきた青年を教会に泊めて話をきいたことがある。
私も思うようにはできなくて店の手伝いは立ち消えになった。
けれども、KBさんは下取りした印刷機類を月賦で譲ってくれることになり,それから色々な事務機を下取り機械で経験することになった。教会には、事務機費を出してもらう余裕はなかったので、月賦代金を支払う関係が、旧印刷機時代が終わるまで続いた。

5.活字活版印刷

縦横6ミリくらいの鉛の棒、標準漢字の数はあったと思う,逆さま文字を見て字を選び、うらがわのテコで打ち出して、蝋を敷いた紙や改良された用紙に文字を打ち出して、輪転機印刷をする。印刷会社で作っていた印刷物が個人でできるようになった。裏返し文字でも覚えてしまったが,目が疲れた。
そのうち、文字をプリントした文字板を張り、正面から見える文字はありがたかった.教会の週報も活版文字で見れるようになった。印刷収入を考えたが、中古品なので絶えず修理をしながら、せまりくる時間と戦い、何をしてるんだろうかと自問しながら、軌道には乗れなかったなぁ。

春日東教会

25周年記念誌

1984.4.5

印刷したものは
週報印刷 一年 51 (週) x 50枚、説教(毎年-前期•後期)、誕生カード、クリスマスカード,総会資料
教科書:福岡女学院短大,大学,のちに西南学院大学ー毎年テーマを変えて教科書を作り500円で販売した。

大学闘争でいつまでも古いノートを読んで授業する老教師が槍玉に上げられて,授業管理は私学補助金と引きかに文科省の手に渡った。それで批判側にいた私は教科書は自分の手でという思いを,無理しながら保っていた。
前期・後期 毎年新課題で
九州教区事務所 主事を数年 教会,牧師住所録 教区,教団、県庁宗教法人課、手続き書式等
B4からA4へ

6.ワープロからコンピュータへ 1980年代 ——–
コンピュータは、ワープロも、八つの点(ドット)で文字を作っていた。それでは使い物にならなかった.また20 万円という金額を生まれたてのワープロに使うわけには行かなかった。エプソンやアップルも試してみたが、毎年2回ほど新製品を出すPCには、振り回されたという記憶しかない。
12インチのフロッピーディスクが3000円もしていたなんて、書いておかなければ忘れてしまいます。

7. WWW ネットワーク 1980年代末世界を一回りするネットワークは、情報を      パッケージに集めて送る方法がアメリカ軍事情報の関係で開発された、
コンピュータの役割が世界を繋ぎ、隣の家にいるかのような近さに変わっていった.
私は1980年代の末に、アサヒネットに入り、メールとホームページを始めた。時代はどんどん変わっていった。当初から長い間,スマートフォンの普及までーホームページを見てくれる人はいなかった。が、自分の書庫としても絶えず、書き込んでいた。それが今chapblogとなって、再生しています。8. そしてオープンソース

アップル、マイクロソフトは一時代を作りあげ、大きな存在だった.この生き方に意義を持つ人たちがその何倍も多くいるようだ.スエーデンなど北欧の学生たちが始めた、データを公開し,共有してコンピュータを作り上げた.無料の「オープンソース」のシステムやソフトがあっというまにひろがり、毎年更新して法外利益を得てきた巨大な会社が終焉を迎えている。どんな強靭なシステムを作っても穴・バグか見つかり攻撃してくるからである.オーブソースは秘密にするものがないので、攻撃しても利益にはならないようだ.
今回一年半かかったホームページとブログは、オープンソースで、秘密なし,平等,自由、つまり個人のプライバシーを基本的に守る。こういう思想によって、できた。利用者が増加している。

春日東教会

40周年記念誌

1999.3.1

現在

私が使っているオープンソースのシステムは、このwordpresでつくった。
Libera Officeはオープンソフトで、マイクロソフトオフィスのワード,エクセル、パワーポイントと同じシステムを、無料で提供している。
私が職場で使っていたOfficeは2003年でサポート終了となり、買い替えなければ,動かない。
データも全て無効となった.マイクロソフトというシステムソフトは完成度を極め、もう開発するところは無くなってしまった.年間契約とか、月割,日割りとあらゆる手で集金組織に成り果てた。それでも、穴を見つけて攻撃され,対応に苦慮している。

動画制作のOpenshotも助かっている.それゆえに、日々、内容が充実した作品を見て、作りに精進しようという気持ちを強めている.
このオープンななかまたちが世界中で縦横に通じる通信時代を開いてくれる。そのように,期待し,確信している。
わたしもwordpressの恩恵を受けて、世界に翼を広げて交信したいものです。

いかりチャンネル

いかりチャンネル

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       飯山陽(いいやまあかり)    20231124

 この二、三日YouTube、1日6時間半?見てるよ!いいのってiPadで注意を受けた。
 えっ?と我に帰ると飯山陽の発信を一通り見ようとしていた。

イスラエルとハマスとの、ガザで起こっている衝撃報道に触れて、なんか変だとは思っていた。
イスラエルの歴史学者ユバル・ノア・ハラリさんの緊急取材(どこの局か覚えていない)インタヴューを見て、「イスラエルはガザの人たちと戦っているのではなく、ハマスのテロと戦っている。」このことを知ってほしいという苦渋の言葉が記憶に残っていた。彼の身内も連行されているとか。そのくらいの認識だった。

 さて、この一週間も経っていない間に、飯山陽が発信するハマスをめぐる中東問題の構造がわかってきた。
彼女がいうには、イスラム教の世界を正しく理解し、対立している西欧資本主義諸国(日本も別枠?で入っている)の 、石油利権をめぐる枠組みを知らなければならない。

 さらに、イスラム教自体は宗教なので、テロは行わないが、ハマスに武器と多額の資金援助をしている。(発信している報道でハマス幹部が超高価な高層ビルに住んで贅沢な生活をしている映像を見せている)テロと指定された組織である。彼らがガザのパレスチナ住民を盾に取って、病院の地下に拠点を作っている。このハマスをイスラエルは殲滅しなければ、問題は解決しないと言っている。
加えて言えば、イスラエルの富豪が所有している、日本で作った「自動車運搬船」襲撃、拿捕は、これまたハマスと同じイラン資金によって活動を始めた「フーシ」派によるものだそうだ。
これらの現場がユダヤ教、キリスト教、イスラム教発生の舞台ーアブラハム、ヨセフーモーセのエジプトからシナイ半島の南端ーそして今のパレスチナ、イスラエルと重なっているとは!

 三宗教の存在理由が問われているのではないかと思われる。
これらの問題の理解にはアラビア語の日常会話ができて、事態を間違いなく理解して交渉できる人材が不可欠となる。この意味で、シリアまたエジプトで生活し、通訳をしていた飯山陽さんの発言は問題を正確に伝えている。彼女の10冊ばかりの著作が、Amazonで総合一位!。女性の購読者が多いそうだ。
政治の無限の弱体化の中で、変化の兆しを感じているのはこうした女性たちではないだろうか。