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Month: 2024年8月

おはようバッハ-1

おはようバッハ-1

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おはようバッハ 1-1

2024年9月 第1週

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BWV 71 神はわが王 

 

 

17080204 参事会議員交替式

ミユルハウゼン市の6人の市長と46人の参事会議員が2月3日に選ばれて
翌日新任と退任の交替式が行われた。

 

 

 

1.神はわが王 合唱
「神はわが王
いにしえより 
すべての救いの業を
この地でなさる方
神はわが王」
詩編74:12

華やかなトランペットの響きで祝典曲が始まる。

「神はわが王」の動機が繰り返されて、全体を統一している。
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みなさんお元気ですか? いろいろと長いトンネルを抜け出て、
新「おはようバツハ」 をお届けしたいと思います。
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おはようバツハ 1-2

第2曲 「わたしは今や80歳、なぜこんなに重荷を負わされるのか」

テノール
わたしは今や80歳、なぜこんなに重荷を背負わなければならないのか。
わたしは望む、私の町で父と母の墓のそばで死ぬことを。
ソプラノ
わたしはこの世でわたしをよりたかめようとして、
艱難辛苦を乗り越え 歳月を越えてきたように、
罪と恥から私をまもるために 忍耐を重ね
誇らしく白髪とならん。
—–

旧約聖書のダビデの物語に、先代のサウル王の後継争いに巻き込まれたダビデが、国境周辺を逃げ回っていた時があります。ダビデが捕えられる危険を感じて、狂人を装ってよだれを垂れて、気味悪がれて、難を逃れたことがあります。またダビデを助けて親身になってくれた人もいました。
やがて追求していた息子アブサロムが死に、ダビデはエルサレムに戻って王の地位を確立し、新時代を迎えた。
その時に、お世話になったバルジライに、エルサレムで一緒に暮らそう。こう言います。ところが、バルジライは「わたしは今や80歳、父と母の墓のそばで静かに暮らしたいのです。息子を連れて行ってください。」と丁寧に断った。(サムエル記下19:32-40)

バッハは1708年ミュールハウゼン市のブラウジス教会オルガニストの任命を受けた。
ところが、その三日後に大火が起こり、市にあった三つの教会の二つが燃え、この騒動の中、バッハは結婚したばかりの妻と引っ越しできた。

 ミュールハウゼン市はローマ帝国の直轄自由都市で、6人の市長と46人の参事会員が選ばれ、この中の二人の市長と14人の参事会員が1年任期で交代する時だった。
 火災の復興は手付かずのままだったが、バッハはこの人たちにバルジライの姿を重ねたのだった。
初仕事になった参事会交代式は、議員たちに深い感銘と力を与えた。その印に、議会は楽譜を200部印刷して関係者に配布し、謝意をあらわした。

 

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おはようバツハ 1-3.

第3曲
「あなたの老年が若き日のように老いていけますように。
神はすべてにあなたと共にいます。」
    創世記21:22
通奏低音だけの伴奏による。
四重唱 ソプラノ、アルト、テノール、バス

 

 

 

 

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おはようバツハ 1-4.

 

 

 

第4曲

昼も夜もあなたのもの
アナタは太陽と星を造り、治められる。
その確かな道は定められ、
全地にそれぞれの境を定められた。
昼も夜もあなたのもの
       詩編74:16-1
アリオーソ バスノ独唱

 

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おはようバツハ 1-5.

偉大な力 われらの国を守りたもう たとえ戦争の嵐がおこり
王冠また王笏が揺らいでも あなたは大いなる力によって
救いをなしたもう 聖なる力によって。

アリア 
「あなたの鳩の魂を敵に与えないでください」 合唱 

アルト独唱と通奏低音にトランペットが挿入句をはさんでいる。

 

 

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おはようバツハ1-6.

あなたの鳩の魂を敵に与えないでください。
合唱 
詩編74:19 トランペットを除く、多彩な編成、
終結部部のアンサンブルが素晴らしい。

 

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おはようバツハ 1-7.

新しい治世に それぞれの道で祝福の王冠あれ。
安心、平和、福祉に常に満たされ、
幸福、救済がなされ、治世が守られるように。
新しい治世に 
喜び、救い、偉大な勝利があらんことを。
日々新たにヨゼフ王が喜ばれんことを。
国中のすべての町や村にも、
喜び、救い、偉大な勝利があらんことを。

合唱 
古いモテットのスタイルで、新しいフーガの技法を加え、
アンサンブルは高揚感を表している。
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229 8月18日 時が満ちて エフェソの信徒への手紙1:7-14

 一年で最も暑い日々になりました。
じっとしているだけなのに、我慢の限度を感じています。
みなさん、くれぐれもお大事にしてください。
 さて、今日はエフェソの信徒への手紙から、
パウロが書いた言葉です。

「わたしたちはこの みこころにおいて、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神のみこころに よるものです。
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、かしらであるキリストのもとに一つにまとめられます。」     エフェソの信徒への手紙‬ ‭1‬:‭7-14

‭‭

肉体を拘束され、牢獄の生活を強いられることになったパウロが、
そのとらわれの中でどのような事を考えていたか、
その事を知るのは驚異です。
というのは、パウロはローマで囚われ、獄中にいます。
肉体のとらわれの中で、精神のまったき自由を示しています。
それだけでなく、彼の信仰の完全なる花を開かせている。
それは見事な作品といえます。

 

パウロの生き様の見事さは、その矛盾に満ちた所にあると言えないでしょうか。
彼の矛盾の中に人間の真実が見られます。  
その矛盾とは、彼が言っているように、獄に捕らわれ、
拘束されているという、不名誉な、不自由の中にいて、
刑罰は肉体を苦しめて、精神も苦しめ、殺せると考えています。
ところがパウロは自分は自由を得ている。自由だというところです。
奪われているのに、多くのものを得ている。
精神の解放を覚えている.
なんと不思議なことが起こっているのでしょう。

わたしたちは自由を夢見ます。楽しみ、喜びを歓迎します。 
しかし精神的にはどうでしょうか。
物質的、肉体のゆたかさが必ずしも人を自由にしているとは思われない.
得ることをのみ求める、その人は失うことを心配する。
奪われることから身を守ろうとします。
しかし、パウロは奪われることの中に、与えられてきたものを見いだしています。
失ったものに愛情を覚えて、感謝しています。 
全てをなくしたとき、見えなかったものが見え始める経験もしています。
私たちもこのような経験に注目したい。
ここに獄中書簡を学ぶ意味があります。

神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる、と言う。
パウロが捕らわれた牢獄は、行動が制限されるくらいのゆるいものだったようです。
吉田松陰は捕らわれて山口県萩市で、牢に繋がれたと言われています。
そこに、しょういんを師と仰ぎ、教えを受けにきた人たちに、
さこくをやめて、若者を海外に送り出そうという「しょうかそん塾」をはじめ、
小さな一軒家から、世界を見渡す力を若者に与えていました。
人の出入りは自由だったようです。

パウロの囚われは、行動は制限されても、出入り自由でした。
このエフェソの信徒に当てた手紙はこうして書かれたものでした。
 
隠れていたものがあらわれ、あらわれていたものが隠れる。
「奥義」に触れるとき、隠れていたもの、見えなかったものが見える。
何が見えるか。見えたものによって、
それが真実であるかどうかが判明します。

 水野げんぞうさんの詩に、次のような言葉があります。
「自分の力では動けない、生きられないと 気づいた瞬間に」
という詩です。
「自分の力では動けない生きられないと 気づいた瞬間に 
わたしをしっかりささえていてくださった 
キリストの愛の み腕がはっきり見えてきた」。

水野さんが小学生の時、当時地域で流行った疫病になり、高熱が続き
熱が引いた時にはもの言うことも、身の回りのこともできなく、
母の世話なしには生きられない状態になった。
母が50おんのひょうを、指差して、瞬きによつて言葉を拾い、思いを表すようになった。
そのようにして書かれた詩です。

水野さんは、閉ざされた世界の中で、牧師の訪問を受け、
心の目が開かれて、これまで見えなかったものを見ると言う。
そういう感動と交流に満ちています。
聖書に出てくる「時が満ちる」とはある意味では、
「自分の力では動けない、生きられないと、気づいた瞬間」と
言えないでしょうか。

ある人は、「隠れた所」で神に出会うという秘義について
次のように言っています。
私たちは誰でも秘密をもっている。人に知られたくないところ。
言いたくない経験。二度と繰り返したくないような失敗。
そういう秘密をもっているものだ。私たちが神さまと出会うという時、
それは隠れた所に触れて、これを癒してくださる。
そのように出会ってくださる。(森有正)

イエス・キリストが神と共にいた場所。
そこは、ベツレヘムの馬小屋の 餌箱の中でした。
人里離れた山のなかで祈りました。
この世から見えないところで、病に苦しむ人を癒された時、
そこは神との出会いの場でありました。
 
神殿をさして、「強盗の巣」にしている、「白く塗られた墓だ という時、
そこに神はいない、と、イエスは批判された。
 それで教会の建物に神はいない、教会の外で出会うと言って、
教会を捨てた人がいます。
しかし、その神殿でイエスは教えられたのではないでしょうか。
ユダヤ教の会堂を借りて、福音は語られたのです。

隠れたものがあらわれるとき、あらわれていたものが隠れる。
神殿はイスラエルが神と出会う時、隠れていた神が顕れられた.
神と人との新しい出会いが始まった。
しかし、あらわれた神は、自分をかくすことによって、そのおくぎを保つ。
そして、私たちの隠れたところで、神は触れ、魂を解き放つ。
このような秘義またはおくぎに触れるのですが、
パウロはローマの牢獄のとらわれの中から、書き記し、伝えています。
パウロのおくぎに触れながら、神が私たちの隠れた所で出会ってくださる。
そういう経験を省み、またこの経験によって新たにされたいと願います。

今日の祈り
恵み深き天の神 7日の日々を守られて、ささやかな礼拝を捧げる。
このような感謝をありがたく思います。ウクライナとイスラエルが戦場になって、
世界が遠い昔に戻ったような、人をころす武器によって、一体何を守り、
どんな念願を果たそうとしているのでしょうか。
死ねばこの世で得たものは全てなくなるのに、
あまりにも多くの犠牲がこころを痛めます。
どうか、悲しみ、苦しむ人に、安らぎの時が来ますように。
願いと祈り しゅイエスキリストのみなによって ささげます。 アーメン