カンター 作曲順 解説

カンター 作曲順 解説

カンタータ 作曲    総目次

 

                       バッハの周辺 中央の薄いピンク

 

 


 父ヨハン・アンブロジウス


ッハの生家 バッハハウス▲


                                      バッハハウス前の二少年

🔷バッハ作品番号 (BWVBach-Werke-Verzeichnis・

           バッハ-ヴェルケ-フェアツァイヒネス)

1.BWV-バッハ作品番号
・BWV    1-231~カンタータ,モテット,
・BWV232-243~ミサ
・BWV244-249~オラトリオ・コラール、オルガン曲~244、 チェンバロ等~222、

リュート~5、室内楽~39、協奏曲~24、 管弦楽曲〜5、 作品内の異なる曲8曲、補遺189曲、全1296曲

(wikipediaより)

初演の日づけか分かるのは、カンタータの224曲だけ、

バッハは教会暦に定められた聖句を主題にしてカンタータを作曲した。教会暦の日付から、

割り出された。このようにして現存するカンタータは224曲。
他の作品を作曲順に並べることができなかつた。

バッハの死後、その作品をはじめ、バッハの名前、そして墓の所在すら忘れ去られていた。
ベートーヴェン、モーツァルトなど数名に評価されていた。
ところが、メンデルスゾーンがマタイ受難曲の初演から100年を記念して、
ベルリンで再演奏をし、バッハの名前が復活する。


それから、楽譜をはじめバッハに関わる資料収集が行われたが、
楽譜集めは難航したが、ようやく1950年になって、
ヴォルフガング・シュミーダーによって、BWVの番号をつけて発表された。
モーツアルトは-K,ベートーヴェンは-Op,シューベルトは-D,の作曲番号が付けられた。
バッハの楽譜は作曲順の収集が困難を極め、
カンタータなど声楽曲(vocal)と器楽曲、モテット、コラールなどのジャンルごとに番号がつけられた。
カンタータは、その第一位BWV1-224に位置し、
トマス教会音楽監督としての27年間の仕事が重視されている。

 

東ドイツ時代の聖トマス教会

東西統合ドイツ時代の
聖トマス教会

 

 作曲順でわかるバッハの人生と音楽の成長発展

1.人生の足跡 誕生、父母の死、聖歌隊、オルガニスト、修行、

 

2.作品 BWV1.最初の曲、教会事情、ミュールハウゼン

聖ブラウジス教会オルガニスト 結婚

ヴァイマールの宮廷音楽師

ケーテン公の宮廷音楽師長 妻の死と再婚

聖トマス教会 前任者の死 バッハ就任式 1723月6月10日

3.作品の成長点

教会カンタータ [1.合唱 2.聖書朗唱 3.アリア 4.朗唱 5.アリア 6.コラール]

トマス教会少年合唱団 (トマナコア)

4.形式 1音を長く繰り返す~メリスマ 3.追いかけ合う 4.ダルセーニョ 初めに戻る

演奏時間約20  分を守るための技法

4.用途 礼拝のため-基本形式、祝賀、追悼、記念など祝典曲ートランペット、太鼓付

5.形式の発展 オーケストラの協力などの発展の跡がわかる。


「小説バッハ」の助けをかりて作曲の足跡をたどります。
前半第1章から第10章まで、後半11章から20章
ハンス・フランク著 1960年GmbH.刊
佐藤牧夫訳 音楽之友社 1971刊
小説 「バッハ 」  🔷 抄録    目次 

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🟨0. 初めに

🟨1.「小説 バッハ」 ハンス・フランク著 佐藤牧夫訳 音楽之友社 1971

🟨2. ドイツ北方のリューネブルクの教会付属学校聖歌隊 1700年3月、15歳   

🟨3.ミカエル教会の聖歌隊メツテンコールでボーイソプラノを歌い聖歌隊に命を吹き込み、活気づけた。

🟨4.彼が育った「チューリンゲン」地方

🟨5.アルンシュタット市の聖ボニフアチウス教会 1703年、18歳

🟨6.聖ボニフアチウス教会のオルガニスト  マリア・バルバラ

🟨7.大家ブクステフードのもとへ

🟨8.ミュールハウゼン・ 聖ブラウジス教会 マリア バルバラと結婚した1707年21才

参事会員交替式で祝祭カンタータ「BWV71神はわが王

🟨9.「命の音楽、ヴィヴァ」

🟨10.バッハの源流 ドイツの東方、今のチェコ(ブラチスラバ)で、

水車小屋で製粉をはじめたファイト バッハが先祖だと言われている。

🟨11.ヴァイマールのバッハ 1714年から1723年

🟨12.ヴァイマール時代後半

🟨13.ケーテン時代ブランデンブルク辺境伯の依頼(ブランデンブルク協奏曲)。

🟨14 妻マリア バルバラの死 結婚生活13年間分かち合った

妻マリア バルバラは36才の若さだった。

「アンナ マグダレーナのためのクラヴイア小曲集」

1722年ライプツィヒの聖トーマス教会音楽監督ヨハン クーナウが死去し、

後任を募集した。

🟨15. 聖トマス教会 カントル(音楽監督就任式 1723年6月 1日

毎日曜日の礼拝(聖トマス教会、聖ニコライ教会、

それにライプツィヒ大学の礼拝)の責任を負い、

あらかじめ定められた教会暦に配分された聖句に基づき、

カンタータを作曲し演奏する任を負った。

🟨16.就職時のトマス牧師  トマス学校の教師 トマス学校

🟨17.日曜礼拝 三回

🟨18.カンタータ 受難曲ほか祝祭曲

🟨19.音楽の捧げものフーガの技法

🟨20.晩年のバッハ

※バッハの死後

0.はじめに   40年も前に出会った本書。

バッハが小さい頃 親に先立たれて長兄の家に引き取られた話。

そこで月明かりの下で楽譜を書き写しているのを見つけられえらく叱られた話。もう一つ、晩年に目が見えなくなって、ヘンデルの目を手術し、成功した同じ眼科医に頼んでイギリスから旅の途中で来てもらい、手術した話。 麻酔代わりにワインをたらふく飲まされて、とか、手術はうまくいかなくて、

痛みに耐えかねて、そのショックで死期を早めた。と言った話が記憶に残り、
最近、もう一度読んでみたいと思った。


ところが図書館の検索では見つからなかった。アマゾンの古書に数冊あって、注文したところ、今日届いて、30年ぶりに再会となった。びっくりしたのは文字が8ポイントと小さく、1頁二段組で456頁もある。1971年のもので、黄色い枯れた匂いがする。(2018年)


 もう一つ、バッハが亡くなると、次の音楽監督が決まり、
早急に部屋をあけ渡さねばならかくなった。
家族、近親の者は悲しむいとまもなかった。
肉屋の包み
紙にバッハの楽譜が大量に置かれていて、
知人がそれを買い上げたという話も忘れられない。それから、
バッハのお墓がどこにあるのかさえ忘れられて、
没後100年の記念に、ベルリンでメンデルスゾーンが「マタイ受難曲」を演奏して、バッハの名前がよみがえり、世界に知られ、今日に至っている。
もう一度サーっと読んでみたい。
我が国では今、改竄とか隠蔽、記録廃棄などが流行っている。けれども、忘れられて、100年経っても、いいものはよみがえり、
喜びと、生きる力を与えているということを、バッハは示している。

目次

 

「小説 バッハ」 -1- ハンス・フランク著 佐藤牧夫訳 音楽之友社 1971

アマゾンの古書で211円、送料257円 の赤茶けた、B5 454頁 活字8ポイント2段組を読み始めて、とてもじゃない目が悪くなる、と あきらめようとしたが、1ページに分解し、スキャナーでPDFファイルにして、それを章ごとにまとめることを思いついた。昨年、買った1万円台のプリンターについているスキャナーは性能が良くて、あっという間に読み取る。1章から3章までファイルができて、これをiPadに入れると、電子書籍になって、とても読みやすい。
3章まで読んで、バッハが9歳の時、両親が亡くなって、14歳上の兄に養われることになり、いくつもの山が現れて、乗り越えていかなければならなかった。
バッハの才能が開かれるのか、運命やいかに!というところです。

目次

小説 バッハ -その2-
両親が亡くなり、身を寄せていた14歳年上の長兄に子どもが生まれ、子どもが5人になると、バッハはこれ以上お世話になるわけにもいかず、後一年で高校を出て、大学進学という道をあきらめ、
ドイツ北方のリューネブルクの教会付属学校聖歌隊への推薦を持って面接試験を受けた。1700年3月、15歳の年だった。試験の結果、有給のソプラノ歌手、のちに助手として指揮者を助け、時にはバイオリン奏者として充実した自立の道を歩んだ。バッハのボーイソプラノはひときわ目立って綺麗だったようです。今で言えば、エンジェルスの大谷のようだったでしょうか。

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小説 バッハ -その3-
山を越えると、その先にもっと大きな山がそびえ立っていた。人口が4000人のリューネブルクには3つの教会があった。バッハはミカエル教会の聖歌隊メツテンコールに入り、ボーイソプラノを歌い聖歌隊に命を吹き込み、活気づけた。
ところが、声に変化が現れていると、指摘する人もいて、彼は変声期に入っていた。これまでの美声がなくなれば、自ずと退団が待っていた。15歳の時だった。ほかに行き場はなかった。ショック!
しかし、バッハは聖歌隊の指揮者の助手として、いなければ困る存在になっていた。それに管弦楽に加わってバイオリンやヴィオラの要員にもなっていた。そこで管弦楽団のメンバーになることができた。よかったです。

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小説 バッハ -その4- 交流
バッハは生涯をドイツ国内で暮らし、音楽の先進国イタリヤや新興国イギリスを訪ね、音楽を学ぶことはなかった。
グーグル地図を見ると、活動範囲がわかる。生地「ドイツ アイゼナハ」と書いて検索すると、生まれた町が出てくる。1986年、東ドイツ時代のバッハの足跡をたどったことがある。アイゼナハの教会は閉鎖され、途中の修道院跡は破壊されてペンペン草がはえているようなキリスト教冬の時代だった。繁栄しているキリスト教を見るより良かったけれど。キリスト教施設は観光収入に価値があった時代だった。バッハ ハウス(生家)も観光遺跡だった。
また、彼が育った「チューリンゲン」地方を検索し、航空写真に切り替えるとドイツ中部の丘陵地帯が、周りを囲む森林によって見れる。豊かな小麦畑が広がる。
彼は、故郷を離れリューベックで北ドイツの深い音楽に触れた。またその地の領主に嫁いできたフランス人の妻を中心に形成されたサークルの、フランスの明るく楽しい音楽、文化に触れた。そういう音楽交流がバッハを成長させた。

 

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「小説 バッハ」-その5-
声変わりをしたバッハはボーイソプラノを歌えなくなり、聖歌隊を退団した。だが、聖歌隊の指揮の助手や器楽の第1バイオリンをこなした。正式な採用試験にほぼ決まっていた聖マルクト教会では、最後に市の当局者の拒否にあった。バッハがまだ17歳で若すぎるという理由だった。その後ワイマールの宮廷音楽のヴァイオリン奏者を務めたが、間もなくしてアルンシュタット市の聖ボニフアチウス教会の新しいオルガンの試験演奏者に抜擢された。この教会は122年前、炎暑の中で市長宅の屋根に塗っていたコールタールから発火して町中に燃え広がった大火のために、聖ボニフアチウス教会も延焼し、1722年ここに再現した。その教会に備えられたオルガンだった。この街はバッハ一族が活躍した町でもあった。
このようなことがあって白羽の矢が当たったバッハは聖ボニフアチウス教会のオルガニストに就任したのであった。1703年、18歳だった。災い転じて福となるでしょうか。

 

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「小説 バッハ」-その6-
聖ボニフアチウス教会のオルガニストになったバッハは、縁戚に当たる 一歳年上のマリア バルバラ バッハと親しくなった。彼女もバッハの境遇と似て、幼くして両親を亡くし、叔母に育てられた。その叔母の家で会うようになった。バッハが弾くチェンバロにあわせて マリアが歌い、新曲なども歌った。バッハは教会の仕事場のオルガンにあわせて マリア バルバラが歌うと、曲想がどんどん展開した。
しかし、当時、今からは想像できないところもあった。教会の聖歌隊で女性が歌うことはなかった。その習慣と違うことを マリア バルバラは心配していたが、おかまいなしのバッハがすることは、トラブルに発展した。この辺のくだりは30年前に読んだわたしの記憶をよみがえらせる。というところで、本書4章が終わる。

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「小説 バッハ」-その7- 大家ブクステフードのもとへ
就職して2年がたった1705年の待降節の時期に、バッハはオルガン研修のための休暇願いを、アルンシュタット市長に提出し、ひと月限りの許可をもらった。彼はハンザ同盟の交易で栄えた北ドイツのリューベックへ向かった。聖ボニファティウス教会の70歳近いブクテフード(この2年後に亡くなった)は一つの条件をつけて後継者を探していた。その条件は30才後半になる娘の結婚相手になってもらうということであった。師匠と弟子は研修の成果と将来の方向で一致し、希望に満ちていた。ひと月の許可をとった休暇を、無断で延期して4ヶ月にも及んだことでも想像できる。オルガン、ヴァイオリンの技術を高め、クリスマス、王の退位と就任式、また地域と一体になった演奏会活動にも参加した。プログラムを手伝い、夢中になり、充実した時を過ごした。ブクステフードも周辺も、バッハは結婚して、後継者になってくれると暗黙裡に確信していた。アルンシュタットに残してきたマリア バルバラと約束は何もしていないこともあった。これまで多くの後継者候補があらわれた。ヘンデルも辞退した一人だった。しかし、別れを告げる時がきた。バッハは明日、出発することを告げた。ブクステフードと娘は動揺したが、最後の夜を、3人での小さな音楽会で別れを惜しんだ。

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7-2「小説 バッハ」その7-2 
一ヶ月の研修許可を、無断で四ヶ月にのばしたバッハは、帰って、裁判の被告になった。教会の牧師団、アルンシュタット市政の長によって裁判が行われ、その上にいるシュヴァルツブルク伯爵領主の承認によって判決はなされた。バッハが目指す独立した音楽は理解されず、かといってこの逸材を失う損失とのバランスで、また、被告バッハが非を認めることをしないため、結論は先延ばしにされた。
音楽の完成というものはあり得ない。ゆえに、絶えず完成を目指して、試みをなしていく。この姿勢に立つバッハのオルガンは一般の人には長すぎるとか、あまりにも抑揚が激しすぎる。慣れ親しんできた、古く陳腐で退屈な演奏が求められて、バッハには受け入れられなかった。
そうこうしているうちにミュールハウゼンの新教会のオルガニストの転勤により、バッハが後任に求められた。先に本稿-その5-で述べた、バッハが試験演奏をしたオルガンであった。1707年二人は21才の年にマリア バルバラと結婚して、ミュールハウゼンでの新生活へと向かった。

 

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「小説 バッハ」-その8- ミュールハウゼン 聖ブラウジス教会
1707年5月28日 バッハはブラウジス教会への正式な任命を受けた。ところがその3日後ミュールハウゼン市に大火がおこり400軒が燃え、三つある教会の中のブラウジス教会も延焼した。
この騒動の中、契約が交わされ前任地と同額の年俸85グルテンの俸給 、そして楽器、家財道具を運ぶ馬車二台と馬4頭を貸して欲しいという願いが受け入れられた。また、オルガンの命である送風システムの大々的な改造の提案が認められた。ミュールハウゼン市は神聖ローマ帝国直轄の自由都市であり、6人の市長と46人の参事会員が選ばれ、この中の2人の市長(1人は副市長)と14人の市参事会員が一年任期で交替するシステムであり、大火の直後で復興計画も手付かずの時なのに、バッハの前向きな提案は受け入れられた。前任地アルンシュタット市が伯爵の権力の下にいる 聖職団の無理解のもとでは働きにくかった、自由度の点で大いに違っていた。バッハの初仕事は、年に一度、参事会員が交替する時の祝祭カンタータ「BWV71神はわが王」を作曲し、火災に合わなかったもう一つの教会を会場とし、演奏が行われ、満足と力強い活気を与えた。その楽譜はのちに200部印刷された。楽譜の初めには「イエスよ助けたまえ」と記し、最後には「神のみに栄光あれ」と書いた。バッハの生涯で300曲作曲されたカンタータの全ての楽譜にはこの二つの言葉が書き込まれた。1708年 まもなく23歳になる時のことであった。23歳の頃の私ってどうしていただろうって 思わずかえりみてしまいました。

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「小説 バッハ」-その9-
バッハはミュールハウゼンの 聖ブラウジス教会オルガニストとして新しい出発をした。教会の牧師団は、M.ルターの「人は信仰のみによって義とされる」を中心とした教義を奉じる正統派が主導していた。宗教改革は、そこから派生したカトリックとの戦い、30年戦争、また、T.ミュンツアーに率いられた農民戦争も経験した。ミュールハウゼンはその農民戦争の発生地でもあった。それから150年も経つと、正統派の中には権威主義や保守主義など多くの弊害が批判されるようになった。その中に、ルター主義から出た敬虔主義が人々を引きつけるようになった。シユペーナーは「ピア デシデリア(敬虔なる願い)」という文書を掲げ、神との直接な交流から生まれる行動を求めた。戦争が生み出した孤児救済、傷病者、夫を亡くした妻達に手をさしのべる福祉活動を呼びかけた。
バッハは神との直接から生まれる命の音楽を目指した。その意味で敬虔主義者であったが、一方でM.ルターの神学にも深く傾倒していた。
ところが、聖ブラウジス教会の主任牧師はルター正統主義に立って、敬虔主義を批判した。副牧師は敬虔主義に立って論戦を交わす。バッハはどちらにつくのかという事態に立ちいたって、ミュールハウゼンを離れる決心をした。まだ9ヶ月が経つか経たないかという時だった。人はバッハの気難しく、短気な性質を見るが、本書の著者はバッハが目指している音楽の故に、それができない職場を去っているという理解を示している。幼い日に、父親の音楽を「世俗音楽」という人がいて、そのことを父に告げた時、父は「世俗音楽」とか「宗教音楽」といってはならない。「ではなんと言うのですか?」という問いに「命の音楽、ヴィヴァ)」と教えた。バッハがめざす音楽は幼い時に種が植えられていたのである。

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「小説 バッハ」 -その10- バッハの源流
ドイツの東方、今のチェコ(ブラチスラバ)で、水車小屋で製粉をはじめたファイト バッハが先祖だと言われている。仕事のかたわらでリュートやバイオリンを楽しみ、音楽一族の基礎となった。会合に呼ばれて演奏したり歌ったり。人を喜ばせたり、あるいは交流を強めた。ところがその地の領主がカトリック以外は認めないといい、従わなければ全財産を没収、もしくは死刑を告知した。ルター派の福音主義に生きるバッハは、家、水車など製粉の権利を売り、ドイツの中部に位置するチューリンゲン地方に移住した。このチューリンゲンがバッハ一族音楽の舞台となった。
「小説 バッハ 」 9章に 一族が年に一度の会合を開いていた様子が書かれている。毎年5月の第1水曜日にバッハ一族は会合した。1709年はアルンシュタットが会場となった。集まった人の数は書いてない。会は、器楽合奏に合わせて賛美歌コラールを合唱し、楽譜はなくても暗譜で、終わりまで進行した。その中でこの一年の間に亡くなった人36人の名前を挙げて追悼し、7組が結婚し、53人が生まれたと報告され、その都度、歌によって祝福された。この状況で参加者が多数であったことが想像される。バッハの時間的な源流と一族の横のつながりの豊かに見える気がします。

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「小説 バッハ」 -その11-

ヴィルヘルム エルンスト公爵の宮廷礼拝堂オルガニスト、また制服を着た16人の劇団の音楽師として、これから9年間を過ごした。本書の著者は、バッハのこの時期の自由な創作活動を高く評価している。1,俸給が上がったこと。85グルデンから、最終的には250グルデンに上がった。月に9つの新しいカンタータを演奏する義務を課せられたことなど。
バッハは北ドイツの巨匠ブクステフード穏やかで深いオルガン音楽と、南ドイツの巨匠パッヘルベルの情感豊かで、軽快な音楽を総合した。またイタリアオペラの自由な表現も影響を与えた。月々に9つのカンタータを作る義務はバッハに一つの形式を生み出した。

   それは、1,最初の合唱 親しまれているコラールのメロデイをソプラノが短い言葉で提示し、三部合唱が時間差をつけて追いかけて語り合い、綺麗な和音に組み上げられるフーガという形式、
2,聖書朗唱にはオペラの手法を取り入れ 話の進行を示し、
3,アリア 叙唱 オペラの自由にならい、テンポを変えたり、移調を加え、最初のテーマを繰り返して終わる。ダ・カーポを取り入れて、魅力的で、今でも電話の呼び出し音などでも親しまれているような、新しいアリアをつくりだした。
4,会衆讃歌のコラール
最後に、宗教改革を指導したマルチン ルターは、親しまれてきた民謡や、人の心情を歌うブルースのような、民衆のメロディーを採りいれて讃美歌のメロディーに変える会衆讃歌のコラール集を作った。このコラールでカンタータを締めくくった。
新しい音楽の創造に力を与えたもう一つの要素は、歌詞の言葉の力であつた。バッハが使った歌詞は主に3人の詩であった。その中のノイマイスターはライプツィヒ大学で神学をおさめた牧師であったが、途中から詩作の道に入り、毎日曜の礼拝に用いるカンタータの歌詞、7年分、350曲を印刷発行した。バッハはこ歌詞に多くを負っている。
ヴァイマール時代は、バッハの次のそのまた次の任地となった聖トマス教会音楽監督の長期間の任務を支える力を養った。

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「小説 バッハ」 -その12- ヴァイマール時代後半
ヴァイマール公は次代に席を譲ったが、身内の争いが絶えず、バッハにはどちらにもくみしないという態度が保てなくなった。
1717年10月31日宗教改革200年記念祭の計画が、同月30日のヴァイマール公の誕生記念が主になっており、一音楽師の身分で働くことを求められたバッハは、辞任を繰り返し申し出、公は怒り哮り、バッハを牢にとじこめた。なんと4週間。日本でも最近そんなことありましたねぇ。沖縄辺野古を守る山城博治さんと森友学園の籠池さんの裁判なしの長期拘留という仕打ちが、昔も今も変わらない不条理を示している。

バッハは牢の中で曲想を思いつき、原稿楽譜を取り寄せ、長男のための練習曲「オルガン小曲集」を書き、また教会暦一年分、164曲のコラールを構想した。
それは46曲完成した。牢の暗がりの中で。

解放されたバッハは32歳、妻と4人の子どもを連れて、新しい任地ケーテンに向かった。最後の任地ライプツィヒが少しずつ近くなってきました。

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小説 バッハ」 -その13- ケーテン時代
 アンハルト=ケーテン候は宗教改革者カルビンの改革派を支持する人だった。
改革派は教会の中からあらゆる飾りを取り払い、磔のイエス像を除いた十字架だけを印とした。音楽も簡素を旨とした。
しかし、ケーテン公の心の友は音楽で、宮廷楽団を持ち、自ら演奏に加わるほどだつた。音楽は人々との交流と、領国の煩雑な経営の疲れを癒すに欠かせないものだった。
1718年ケーテン候は楽団を連れて休養カルルスバートに出かけた。そこで彼の音楽会を開いた。ベルリンから来ていたブランデンブルク辺境伯はバッハの音楽を聴いて、いたく感動し、バッハにいくつかの作曲を依頼した(のちのブランデンブルク協奏曲)。

 1720年5月 バッハは恒例のケーテン候のカルルスバート保養に、妻と4人の子供を残して、同行した。7月中旬に帰国すると、子どもたちが泣きながらバッハを迎えた。妻がなくなり、すでに葬儀と埋葬が終わっていた。結婚生活13年間を、喜びも悲しみ分かち合って共にして来た妻マリア バルバラは36才の若さだった。妻を亡くしてバッハは新しい任地を求めた。ハンブルグの聖ヤコブ教会のオルガニスト募集に応じたが、就任に至らなかった。この間にバッハは「ブランデンブルク協奏曲 6曲」を完成し、1721年にブランデンブルク公に送った。

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b14小説 バッハ」-その14- 再婚
   バッハは36才の時に再婚した。アンナ マグダレーナ ヴュルケンは美しいソプラノを歌う20才の歌手だった。結婚して13人の子を生んだ。彼女はバッハの良き妻であり、助手であり、母として前の子どもにも変わらぬ愛を注いだ。1722年バッハは妻「アンナ マグダレーナのためのクラヴイア小曲集」を贈った。(それは3年後に40曲になって美しい表紙がつけられた。)
    バッハの婚礼後一週間が経ってケーテン候レオポルトが結婚した。新妻ヘンリエッタは芸術を嫌い、バッハを遠ざけるようになった。1722年ヘンリエッタ妃は女児を出産したが、その六ヶ月後に亡くなった。夫ケーテン公はその衝撃で沈み込んでしまい、バッハとの仲は回復できないものになってしまった。
 1722年ライプツィヒの聖トーマス教会音楽監督ヨハン クーナウが死去し、後任を募集した。6人が応募したが、彼らは退けられ、当時ドイツで第一人者と言われたフィリップ テレマンと交渉した。テレマンはライプツィヒ大学で法律を学んでいたが、音楽への情熱が彼を動かして学生音楽団体コレギウム ムジクムを主催し学生たちに支持されていた。また聖トマス教会のオルガニストや作曲指揮を行なっていた。ライプツィヒを知り尽くしたテレマンとの交渉は結果的にならず、これまで候補に挙がっていなかったバッハの名前が出て来たのである。

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「小説 バッハ」 -その15- 聖トマス教会 カントル(音楽監督)
1723年6月 1日 バッハの就任式が行われた。聖歌隊の少年を指導すること。ラテン語教師を雇う時は自費で行うことなどの条件がついて、毎日曜日の礼拝(聖トマス教会、聖ニコライ教会、それにライプツィヒ大学の礼拝)の責任を負い、あらかじめ定められた教会暦に配分された聖句に基づき、カンタータを作曲し演奏する任を負った。
バッハ 38才。前妻の子7人のうち生き残った4人、再婚したアンナ マグダレーナとの間に生まれた13人の最初の子を連れて、これから27年間の聖トマス教会の日々がスタートした。
なお、聖トマス教会は1212年の創立当時からアウグスチノ会修道院に付属する教会であり、また付属学校の中に聖歌隊が設置された。1517年マルチンルターが提唱したドイツ宗教改革を支持した領主たちは領国の教会をドイツ福音主義教会(ルター派教会)として新しい出発をした。トマス教会も宗教改革まではカトリック教会だったのです。

小説 バッハ」 -その16- トマス教会音楽監督
バッハは、神との直接交流から生まれる音楽をめざした。それはこの世のどのような権力にも屈しない、独立した音楽であった。

1,就職時のトマス牧師 、バッハに信仰のテストを求めた。それは難しいものではなかったが、そうした介入が問題だった。また、礼拝で演奏する讃美歌を牧師が決めることを求めた。あらかじめ定められた教会暦に指定された聖句があるので、それに基づいたコラール作曲権は従来通りバッハにある。このような細々した権利を一つづつ時間をかけて獲得しなければならなかった

 

2,トマス学校の教師
トマス学校

週に音楽7時間、ラテン語 3時間 合唱練習20時間、生活指導(起床、消灯、食事監督等)一週間。
バッハがトマス教会を指揮する時、同時刻にニコライ教会を指揮する生徒を、音楽を知らない校長が決めると言い出し、争いになった時、長い時間をかけて、バッハに権利があることを、市の参事会に訴えて、獲得した。
5,学校と生活 殆どが奨学生からなる学校経営資金は絶えず枯渇していた。結婚式や葬儀、祝典は特別収入があった。また、年に4回は 理解ある富裕な人たちを訪ねて門前で歌い、募金をして回った。足りなければ回数を増やした。
 

6階建てに増築された寮

 

 バッハがトマス教会を指揮する時、同時刻にニコライ教会を指揮する生徒を、音楽を知らない校長が決めると言い出し、争いになった時、長い時間をかけて、バッハに権利があることを、市の参事会に訴えて、獲得した。
5,学校と生活 殆どが奨学生からなる学校経営資金は絶えず枯渇していた。結婚式や葬儀、祝典は特別収入があった。また、年に4回は 理解ある富裕な人たちを訪ねて門前で歌い、募金をして回った。足りなければ回数を増やした。
寄宿舎は35人だった生徒が50人を越し、つめこみ状態であったため、不衛生で、生徒は疥癬に悩まされていた。市当局に改善の陳情を出し続け、ようやく4階建ての上に2階増築がなされた。校長とバッハの家族は6階の見晴らしの良い、窓のある部屋に移り、生徒たちも改善された。それまで6年間、寄宿舎の一角に生徒たちと住んでいた。

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俸給 契約の額面は700ターレルと前任地より100ターレル増えたが、実際の手取りは6分の1で、あとは現物支給と臨時収入が見込まれていた。バッハが幼なじみに書いた手紙には、トマス教会を選んだ理由について、子どもの教育環境をあげている。

バッハは大学に行けなかったので、長男を大学に入学させる予約をしたと書いている。一般的に、バッハは絶えずぶつかり問題を起こす人物と見られている。が、著者は、生徒、教師仲間、校長、牧師、市参事会に対して、バッハは 絶えず志す音楽のあり方を示して、争い、解決を勝ちとった。そのもめ事は、音楽のカンタータをリアルな作品にしているという。

「小説 バッハ」 -その17-  カンタータ

日曜日は朝から深夜まで市の門は閉じられた。主礼拝は朝7時に始まり、4時間かかった。
開会をつげるオルガン前奏、聖歌隊の無伴奏モテット合唱、
オルガン前奏曲、カンタータ・前半:合唱、聖書朗唱、アリア叙唱、コラールを会衆とともに歌い、主の祈り、使徒信条を唱え、説教が始まる。
 説教は必ず9時には終わると決められていた。カンタータの後半を演奏し、人数によって時間が変わる聖餐式が行われた。
会堂の中は明かりがなく暗かった。説教や合唱にはローソクが用いられた。
合唱隊は一つだけ許された火鉢に集まった。
こんな寒い冬の様子を描いている。わたしはとても無理です。
 昼の礼拝は11時45分から、
夕礼拝は3時からあった。
バッハは三つの教会の各礼拝で自分が作ったカンタータを演奏した。
著者は、バッハは 起こってくる問題や煩雑な仕事の全てに立ち向かい、かつ会衆の心をとらえ、みんなの心を一つにし、感動と評価をかちとるカンタータの作曲に集中したと言っている。
50才になったバッハは30組のカンタータを作っていた。(1組6~12曲構成)
なお、ヴァイマル-ケーテン時代に30曲作っていた。それは礼拝用に改編されて用いられた。64才で亡くなるまで
のバッハ お楽しみに。

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「小説 バッハ」 -その18- 受難曲
イエスが十字架刑によって死ぬ受難物語は、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四つの福音書に書かれている。バッハは各物語から四つの受難曲を作曲した可能性がある。が、残っているのはマタイ受難曲とヨハネ受難曲の二つである。30数年前、私は日本オラトリオ連盟西日本支部に属してヨハネ受難曲を一年かけて練習した。発表を前にして指導者が急逝され、解散となった。残念。それ以来わたしはヨハネ派である。目の手術をして回復すれば、マタイ受難曲にも取り組みたいと思っています。
さて本書の著者はマタイ受難曲の話をしている。マタイ受難曲は全78曲、3時間半かかる大曲である。
バッハは作品を礼拝の中に位置づけ、この物語に会衆が参加するように、
聖書朗唱ーその中でイエスや弟子たちが登場し、
続いてアリア・叙唱が物語を描写し、問いかける。
会衆はコラールの言葉を11曲、ともに歌ってイエスの受難に参加していく。
そして合唱が全ての人の思いを歌う。
コラールは私たちの賛美歌の一節ほどで、短く、会衆が喜んで歌えるように、よく知られた旋律がもちいられた。
トマス教会の二階席は後ろの奥が通常の聖歌隊席でオルガンがあり、祭壇に向かって左側の席にもう一つの小さいオルガンがあって、ステレオ形式になっている。聖歌隊は二つに分かれ問いかけ、答え、会衆の賛美をリードした。

バッハの死後、その名は作品とともに忘れ去られた。
が、マタイ受難曲の初演から100年を記念して、メンデルスゾーンがベルリンで再演したことによって、マタイ受難曲は再び世界に知られることになった。

 すごい話ですね。
本書の著者ハンス・フランクは
「不滅の生命は、一度墓の下に葬られなければならない」と言っている。

ここまで、おつきあいいただいてありがとうございます。

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「小説 バッハ」 -その19- 音楽の捧げものフーガの技法
長男フリーデマンは大学で法律を学ぶことをやめて、ドレスデンのゾフィー教会オルガニストになった。14年後、ハレのマルクト教会に転じた。次男のフィリップ エマヌエルも法律から音楽に転向し、26歳でベルリンのフリードリヒ大王の宮廷楽団に就職し、大王のフルート演奏の伴奏をした。彼は父を大王にひきあわせようと願って、度々父の話をしていた。ようやく、重い腰を上げたバッハは長男についてきてもらい、大王との会見が実現した。
1日目の夕べはバッハのプログラムで充実した時を過ごした。翌日、大王は自分の提出するテーマで演奏してほしいと注文した。バッハは弾いた。大王はさらに、これを即興で六つのフーガにして、演奏するように言った。バッハは即興ではできないと断り、大王との会見は終了した。
バッハは家に帰るとすぐに宿題に取り掛かり、「音楽のささげもの」と題して、大王に献上した。さらに未完成となった「フーガの技法」で同じテーマが展開されている。この時の会見の断片がYoutubeにありました。下記よりどうぞ。6分くらいです。 ⇒ 「バッハ フリードリッヒ大王に会う」

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「小説 バッハ」 –その20- 晩年のバッハ
子どもたちが大きくなると 楽しんできた家庭演奏会は難しくなった。子どもの中にバッハの音楽を古いと嫌う子がいたり、反抗期を過ごす子もいた。やがて長男、次男が巣立ち、多くの人が経験する孤独を人並みに味わった。前回に取り上げたベルリンのフリードリヒ大王との会見は大きな出来事だった。そこから生まれた「音楽の捧げもの」また未完とはなったが後世に残る「フーガの技法」も偉大な作品と、後世に評価されている。この「フーガの技法」の途中でバッハは目が見えなくなって、著名なイギリス人眼科医に手術をしてもらった。結果は視力を回復できなかった。2回目にきてもらった時には神経が痛んでいるのでこれ以上はできないという 結論だった。それでもバッハは後に「フーガの技法」と呼ばれる作品の続きを口づてに書き続けた。頭の中には完成の構図があったのでしょう。
 100年間埋もれていたバッハはメンデスゾーンのベルリンでの再演によって、世界に知られるようになった。そして長い年月をかけて、楽譜の収集がなされてBWV(バッハ作品番号)がつけられた。
その版権(旧バッハ全集の)が切れて、カナダの大学生がパブリックドメインの版権フリーてネットに公開し、多くの人に提供しようとした。ところが、版権の期限が違うヨーロッパの音楽業者から2週間以内に削除を求める訴訟を起こされ、当学生はそこまで対応できない状態だった。しかし、バッハの楽譜の版権が切れると、彼の趣旨を受けた人たちが協力して、また様々な議論、演奏をネット上で公開するシステムを作り上げて今日に至っている。
このネットワークの進展によって、バッハはどのように受け取られ、理解されて、新しい時代を開いていくのかと期待がふくらんでいます。

 20回にわたり、「小説 バッハ」を題材にわたしのバッハをお読みいただいて、ありがとうございました。わたしには、このような交流がとても嬉しく、ほ心の支えになります。一休みして、カンタータの続きを丁寧な興味深い解説付きで投稿したいと思っています。ありがとうございました。(2018年記)

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