バッハの歌詞について 小島芙美子 東京藝術大学論文

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バッハの歌詞作者 論文より  

 

バッハの歌詞作者 

                                 

小島芙美子 東京藝術大学 古楽研究科(バロック声楽)博士論文     J.S.バッハの

カンタータBWV51とBWV199における   技工的・劇的表現を巡って ー当時の女

性ソプラノ歌手の活躍の観点からー抜粋

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ソロ・カンタータ ソプラノ. ソロ5曲 BWV199,52,82,84,51

199は、ワイマール、ケーテン,ライプツィヒで計4回再演された。

BWV82は1727年来6回の再演が行われている。

ソロ・カンタータ・アルト 5曲 BWV35 54 82 169 170

ソロ・カンタータ・テノール 1曲のみ BWV55

ソロ・カンタータ・バス BWV56 82

ワイマール時代(1708-1717) 毎週のカンタータ作成は, 福音書と使徒書簡の聖句

に添った台本を手元に準備することから始めた。

歌詞作者が確認できるのは

BWV199 Gottesfaliges Kirchen-opffer  (1717)

BWV84の歌詞はピカンダー Christian Friedrich HenriciPicander (1700-1764)

「1年分の日曜・祝日のためのカンタータ集」上記BWV199,52,84,51は、

16世紀、17世紀に作られたコラール歌詞が含まれている。 (1728)

レームスの詩 10曲 BWV13,16,32,35,54,110,151,170,199,57 。

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※約200曲のカンタータを理解しようとする時、各日曜日に割り当てられた聖

句が表している、クリスマスの喜び、イエスの十字架によって想起される人の罪

と苦悩、復活の喜びと新生の希望など教会暦による区分が基本になっている。

 さらに、トマス教会での27年間礼拝説教の前・後に割り当てられた20~30分の

時間内で、歌詞の繰り返し、またフーガや、ダ・カーポによる時間の調整法はバ

ッハの音楽上の発展、作曲上の転機となったと言える。

わたしのささやかなカンタータ和訳による再現は、ただ日本語に転記するのでは

なく、教会暦に区分された聖書のことばの再現であり、バッハのカンタータで

は、歌詞作者とのコラボ、事情によってはトマスコアの合唱がなく、

ソプラノ、アルト、テノール、バスが合唱に変わるソロを歌っている.

というように、

ブログではできる限り区分して表現しようと思っています。

音楽な人たち

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音楽なひとたち 
揮者
1.指揮者たち 2.合唱 3..オーケストラ 4.ソリスト 
  YouTubeで素晴らしい演奏が視聴できるようになって、ありがたいことです。他にも鈴木雅明氏やたくさんの方がいらっしゃいますが、トマス教会新音楽監督のような若い方にも斬新な、コロナ禍の時代、またウクライナ戦争で旧態然が崩れて、新しいものに変わっていく時代を導いていく音楽を期待しています。

A.ライゼ
 A.ライゼ (Andreas Reise 1975・5・19 スイス生)チューリヒ、ベルリンなどで教会音楽を修め、カトリック教会の少年合唱団、また声楽、オルガンの演奏家。2021年からトマス教会第18代カントルに就任。コロナ禍の中で、これまでになかったwebサイトを活用し、800年の歴史をもつ合唱団に新しい風を呼んでいる。

 ビラー
 ビラー (G.C.Biller ドイツ、エルフルト生、1955-2015)東西ドイツ統一の地、1992年トマス教会第16代カントール(音楽監督)に就任。主にバッハの作品の再興に努めた。私が、1886年、まだ東ドイツ時代にトマス教会を訪ねた時、共産主義の圧政のなかで、教会堂は国の管理下にあったが、パイプオルガンはすすけた音がして、保守管理にお金をかけていなかったようだ。が、かえって素朴な印象を受けたが、礼拝に参加している0名ばかりの多くは高齢女性で、厳しい統制の時代だったとおもう。その時代を超えて、トマーナコアも復活し、取り組むべき課題は多くあったと思われた。情熱的な指揮に子どもたちが答えている姿は大変好ましく思えた。

J.サヴァール
 J.サヴァール(J.Savall スペイン生 1941- )古楽器のヴィオラダ ガンバの演奏法発掘から手がけ、古典作品の再興につくした。これにより、大劇場での興行としての音楽の流れは、中規模から小規模の教会や小グループの演奏の流れに変わった感がする。バッハの二つのラテン語歌詞の「ロ短調ミサ」と「マニフィカート」(マリアの賛歌)は、彼らの母語を取り戻したかのような、喜びに満ちた演奏が記憶に残る。

 P.ヘレヴェー
 P.ヘレヴェーヘ(P.Herrewegh ベルギー生 1941-)父が医者で医学を勉強していた学生時代に音楽活動をはじめた。バッハの作品を手掛け、その解釈と澄明な演奏が評価され、活動の巾がひろがった。
来日した時、名前はHerr=主の、wehg=道を行くという意味でお気に入りとのインタヴューがあった。
マタイ受難曲の指揮

E.アイム
 E.アイム(Emanuelle Haim フランス生 1962- )ドイツのフランクフルト放送交響楽団指揮者。精力的で人気上昇中!マタイ受難曲の指揮

H.リリング
 H.リリング(Helmuth Riling ドイツ生  1933・5・29-)リリングが指揮するクリスマスオラトリオをYoutubeでみた。下の欄の書き込み評を読んでいた時、「いやだ ミリタリー音楽のようだ」という言葉に、何だろうと思ったことがある。教会音楽、特にバッハの大家H.リリングが指揮する本曲の第1曲の評だった。
最初に太鼓の連打で気を引きつけるところを言ったのかなぁと思った。 しかし、リリンクの指揮そのものが、 かくあるべし みたいなところが気にかかったのかもしれない。
  命令形の言葉をどう表したらよいか、考えていたので、音楽における命令形って何だろう?とも思った。そこで、「いざ 歌え」ーこれは1968年に神戸栄光教会聖歌隊でクリスマスオラトリオ第1曲を歌った時の指揮者清水さんの訳である。平和な時代の命令形と戦争へ向かう命令とは意味が違うだろう。わたしは「さあ うたおう」(let’s sing) というように、命令形を呼びかけの言葉にすることにした。ミリタリー(軍隊)音楽は わたしも嫌だ。
*

ちなみに、武田又彦先生にどんなCDがおすすめですかと尋ねたら、H.リリンクの名前を教えてもらった。リリンクのカンタータCD全集は大変教えられた。なんども聞いた。

リリンクは昨年指揮者を引退した。が、トビアス,ショーコルフの新聞にシートミュージックについて巻頭の言葉を書いていた。こういう方面にも関心を寄せているのだなぁおもった。

なお、わたしが使っているmusescore3 (ミューズスコア・フリー)は世界で2千数百万人が使って、多くの人が作品を投稿している。

 合 唱                                                           
1指揮者たち 3.合唱 5.オーケストラ  4.ソリスト 

聖トマス教会少年合唱団  ドイツ・ライプツィヒ   https://www.thomanerchor.de1212年アウグスチノ会トマス修道院附属学校を起源とする。 1517年マルチンルターによって始まった宗教改革で成立したプロテスタント派のトマス教会となった。

 合唱団現在団員は100名でトマーナー(Thomaner)と呼ばれ、この教会とライプツィヒ市によって受け継がれてきた。

 トマナコアの来日は198 年、福岡公演には福岡の少年が募集されて、知り合いの木の脇道元さんも参加し、(わたしは当日は行けなかったが、)記憶に残る一件でした。

その時、ヨアヒム・ロッチェがカントールで日本に来ていたが、彼は福岡まで来ないで代理の指揮者が立った。その後、東ドイツが崩壊し、東西ドイツの統合がなされ、共存の難しさを克服したドイツは目覚ましい進展を遂げている。統一時、ソ連時代の密告告発(シュタージ)でヨアヒム・ロッチェが告発されたというニュースを紀伊國屋書店の音楽雑誌立ち読みで見つけて大変驚いた。  東ドイツ共産党時代のキリスト教冷遇と共に心が痛んだ。旧ゲヴァントハウス楽団ホールで、そこは共産党の歴史展示室になっていて、共産党の偉業をあれこれと展示している中にヨアヒム・ロッチェとトマナコアの日本公演の写真があった。

  係のおばちゃんにこの人日本公演に来ていたというと、よう言ってくれたと言わんばかりに、ソーメン流しのように何事かをしゃべり始めたが、わたしには一言もわからなかった。

こういうこともあって、統一後の第16代カントールはビラー(ヨアヒム・ゲオルク・ビラー )さん。失われたものを取り戻すかのように、バッハに対する敬意と愛情を子供たちに丁寧に熱心に伝えていた。わたしの最も心惹かれる人物でした。、そしてコロナ禍の渦中にスイス出身のアンドレアス・ライゼが第18代カントールに就任した。教会音楽を修め、少年合唱団を指揮していた若き俊才。トマナコアは新時代を先駆けているように思われる。

    コロナ禍のトマーナコアと未来

 「創立以来800年の中で、クリスマスの讃美歌を歌わなかったという記録はない」こと自体、衝撃を持って体験された。

 (https://www.thomanerchor.de 思い出と歴史

コロナ禍で世界規模でキリスト教会が礼拝を停止した。しかし、webを用いて世界各地との合唱の試みがなされたり、観客のいない、出演者が密を避けて、少人数で距離をとっての演奏など。工夫が見られた。観客が多ければ成功という評価は減少し、心に残る演奏が評価されるようになる。
こうしたことから、歌う力も減少したわたしは、ますますPCに向かって音の創生に情熱を注ぐことが出来ると喜んでいる。
今年のバッハマラソンでは、トマーナコアのライゼ新監督の指揮でマタイ受難曲が演奏された。ベルリンの少年合唱団も参加していた。 楽器はこれまでゲヴァントハウス管弦楽団のメンバーが演奏してきたが、積極的に若手を起用していた。受難曲の劇的要素が強調され、テンポも一段と速く感じられた。特に、各部分の話を締めくくるコラールは会衆賛歌のゆったりした、テンポ60くらいの心に染みて共有する音楽が伝統的であったが、さらっと終わって肩透かしのような気分がした。コロナ禍はまだしばらく続くようだが、この流れは音楽を寛容にしたと思う。新しい何かが生まれつつあるようだ。


トマス教会聖歌隊
 ドレスデン聖十字架合唱団その歴史は13世紀にさかのぼる。少年たちは附属の寄宿舎つき学校に通い、卒業後は全寮制の学校に就職する。著名な卒業生はカール・リヒター、テオ・アダムス、ペーター・シュライアーなどがいる。1976,1988年日本公演。
 ウィーン少年合唱団  オーストリア ウィーン1498年に神聖ローマ帝国マクシミリアン1世の宮廷礼拝堂少年聖歌隊として設立された。モーツァルト、サリエリ、フルーツクナーが共演し、シューベルトは合唱団員だった。(wikipedia)
 
テルツ少年合唱団
 (Tolzer Knabenchore)南ドイツのアルプスの温泉地バートテルツにG・S・ガーデンによつてモーツァルト生誕20年の年1656年に組織され、少年200人が4つのグループに分かれて活動している。(wikipedia)1986年初来日。「バイエルンの天使」たらさわみちの漫画。
オーケストラ奏者たち 
 1.指揮者たち  2..合唱 3.ソリスト 4.オーケストラ
オールオブバッハ  https://www.bachvereniging.nlバッハ大好きオランダの楽団。Youtubeでいくらか見るようになって、自分に一番あってるかもと思っている。パイオリンの佐藤俊介氏は、コンサートマスターをしているし、他にも日本人が居場所を見つけている。日本のバッハ演奏の第一人者である鈴木雅明氏も招かれて指揮をしたことがあるそうで、また、日本公演もしたそうである。

隠れ屋のアンネ・フランクの一家を助けていたミープ・ヒースさんの話の中に、ナチスに抵抗するオランダの人たちの地下組織のことがあって、オランダの人は市民意識が強く高い人たちっていう印象を持っているが、

  バッハの全てを演奏すると言う果てしない目標を100年続けているって崇高な人たちだなあ、ロマンだ、市民組織って思う。一人一人がしっかり演奏して音楽が出来上がっている。指揮者の独断指導のような団体はたくさんある。オランダは市民的だと思う。

ちょっと蛇足的に言えば、教会の会場が暗い。暗闇の中で演奏しているようで、印象が強い。フランスもドイツもスペインも教会は暗い。LEDは電量を消費しないので、明るくしたらいいと思う。

ソリスト独唱者 
ai 歌声アニメ文化の中で生まれ発展しているai 歌声で、讃美歌やバッハのコラール200曲(各6曲組曲)を歌えるか?合唱できるか?相当悩んだが、5年やってみて、人工知能の学習能力は奥深く、崇高なものがある。ある特定の人の声をベースに作っている歌声は特色があって個別には好き嫌いがあるかもしれないが、合唱は個性を生かして美しい一つの声にし、その4声を一つの美しい声に仕上げていく。その過程を人工知能CeViO aiも十分取り組んでくれて、美しい曲を醸し出している。さらに、わたしの印象では、出来上がった音楽ファイルmp3 もなんだか時と共に進化しているように思えるのは錯覚なのかもしれないが、時間を置いて聴いても、よくなって、感動を呼んでいる。なによりも、肉体は老化しても、精神は若くなりうるという感触を受けている。
 ソリスト ドロテー・ミルズ (1971年、ドイツ生) ソプラノ歌手日本にも来られたようです。その時のインタビューで、ベルギーの指揮者ヘレヴェーへと出会って考え方が変わった話をしていた。喉を震わせて歌うビブラートをしない、ノンビブラート発声についてだった。わたしが最近使っているaiによるチエビオキャラクターの発声の多くはビブラートの音域を電子的にカットしているように思っている。そして、ノンビブラートのその声に慣れてくると、ビブラートに対する違和感を感じるようになってきた。

最近高音域を歌う男性のカウンターテノールが増えているが、彼らはビブラートしない。また変声前の少年合唱団のソプラノたちはビブラートをしない。
おそらく、音楽が興行化し大きなホールで演奏されるようになり、大音量を求められるようになって、ビブラートを使って発声するようになったのではないか、とわたしは推測している。

バッハをはじめとする音楽は、初演された当時の楽器を使うようになり、教会や中規模の会場で演奏する流れができつつある。そして、あっという間に楽器もピリオド楽器=古楽器に変わってしまった。そのようなわけで、ドロテー・ミルズさんは新しい道を見つけて歩んでいる。

音楽との出会い

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音楽との出会い
1.鎮西学院コーラス部

 1961年の春、鎮西学院の2年B組に転校生としてのスタートを切った。
父が日本キリスト教団の宣教師として沖縄に派遣されることになったので、兄がお世話になった鎮西に転校ということになった。飯塚市から布団と着物をチッキで送り、360円の切符を手に汽車に乗った。

 兄がコーラス部の後輩に、弟をよろしくと頼んでいたようで、3年になる先輩が色々と声をかけてくれて、自動的にコーラス部に入った。

 発声練習のコールユーブンゲンで声慣らしをし、詩篇98「新しき歌もて」と「進めわが同胞よ」のニ曲を練習して、長崎の平和記念公園にある会館でのコンクールに参加した。大村湾沿いを走る列車の最後尾に乗って、山側の黄金色のみかんばたけの中を長崎に行った。私の音楽体験の一歩だった。

 

 新しき歌もて   進めわが同胞よ

2.関西学院グリークラブ

 校内にある神学部成全寮に入つた。入学式の歓迎演奏で、関学のグリークラブが、高校で覚えた「進めわが同胞よ(ウボイ)」を歌つたのでー驚き,感動した。

 戦時中、チェコの軍艦が神戸で修理をしていたとき、兵士たちと関学グリーの交歓会が催され、チェコの兵士たちが歌ったその曲は、以来、関学の大事な持ち歌となった。国難から国を救う戦いの歌でチェコの歌と思われてきたが、

 後で、クロアチアの愛国歌だとわかった。YouTubeでクロアチアの人たちが熱烈な思いで歌っているのを見ることができる。

 

 ウボイ 進めわが同胞よ
関西学院グリー   本場クロアチアの合唱 

 

3. ドイツミサ

 さて、寮の新入生歓迎会は庭に畑をつくり芋を植え付ける作業をした。その時、窓際のラジオから聞こえるすばらしい少年の合唱に釘づけなった。「これなんの歌ですか?」と聞くと木田さんがシューベルトの「ドイツミサ」と答えてくれた。都会には賢い人がいるもんだと思った。

 ドイツ・ドレスデンの聖十字架少年合唱団だった。お金を貯めて大阪日本橋の電気店街で小さなコンポを買い、また神戸三宮で、このレコードを買って何度も聞いた

 

 
ドイツミサ
                                 ドイツミサ スイスブラスアンサンブル


 楽譜は讃美歌二篇にあり田中彰寛訳で載っている。

 田中先生は文学部教授で、独書講読で神学生に教えるのが楽しみな、後で知ったのだが、父親が神学部の一回目の卒業生で牧師となり、先生は東大を出て関学の教師となった人で、神学部をこよなく愛していた。 また、先生はアルバート・シユヴァヴィッアーの「原生林のはざまで」をテキストにドイツ語講読を教えていただいた。シユヴァヴィッアー熱烈なファンで、アフリカのランバレネまで行かれたんだといううわさも聞いた。その「ドイツミサ」はレコードが擦り切れるほど聞いて、私の好きな歌になった。

4.神戸栄光教会聖歌隊

 大学院の最終年度は、派遣神学生の行き先を神戸栄光教会に志願した。宮崎明治牧師は戦後鎮西学院宗教主事であった。その後、神戸栄光教会牧師となられた。先生は忙しそうで一度だけ、神学生を牧師館に招いて食事する時があった。私の仕事は教会学校の高等科の担当で、土曜日の週報箱に600ばかりの通信物を入れる仕事で、終わると三宮に繰り出してミンミンの餃子を食べるのが定番だった

 水曜は祈祷会。聖歌隊の練習はいつだったか忘れたが、バッハの「クリスマスオラトリオ」の第一曲合唱の練習が始まり、指揮者の清水さんが日本語訳をカタカナで音符の下に書いて、「いざ歌え」と歌った。まだ楽器の準備はなく、電気オルガンの伴奏だった。

 この年は春から大学の建物を封鎖した大学闘争が最高潮の時期だった。学生自治会が主催したもので、院生は卒業した身であったが、クラス会で二週間、寮の集会室で対応を議論した。それぞれに任地が決まっていることもあって、クラス会の結論は出さないことにして、解散した。

 それから、私は学生会のバリケードの中に入れてもらって、寮から通い始めた。10時30分にチャペルで詩篇を読んで祈祷会をした。祭壇でなく、立って集まれる後ろの空間に十字架を移動して。続けた。自治会室は社会学部など他学部の学生も出入りして、セクトの活動をしている学生には、どんな運動理論なのかと尋ねて、勉強になった。被害者意識に立つよりも、毛沢東のわれらは資本主義に勝利しているという積極理論の方が、魅力的だった。

 春の入試はなく、警察が入って、バリケードが解放された時、ブレイ宣教師が「暴力学生が、十字架を祭壇から引き摺り下ろしている」といっていたということを耳にした。わたしにはアルバイトもあって、あの時の記憶は混乱と不安いっぱいだった。そこをどうして福岡の春日東教会に赴任したのか、説明することは難しい。

 

           トマス教会合唱団

マタイ受難曲

5.1969年 春日東教会

春日市(当時、筑紫郡春日町小倉字地蔵子) 現春日東教会に信徒伝道師として着任した。
現在、温暖化対策が急がれているが50年前はとても寒かった。なんだか鼻の具合が悪く、教会の表医師の紹介で春日原の末永耳鼻科に入院して,イカの骨のような鼻茸(鼻たけ)を鼻の穴からピンセットで引っ掛けて取り出す手術をした。次々に取り出され、12枚になった。びっくりしたが、その後空気が通って、ありがたかった。
しかし、鼻の状態はずっと蓄膿状態で、評判を聞いては耳鼻科で診てもらったがなんでもないと言われた。しかし、依然として蓄膿状態に苦しみ、とても歌を歌える状態ではなかった。

40代の中頃、春日原の女医さんのところで、レントゲンをとると白い影があって、次の診察のとき、九州中央病院の先生を紹介していただいた。MRIで見るとうずらの卵の黄身の大きさのポリープが見られた。手術をお願いした。上顎洞篩骨洞というところ。部分麻酔が切れてとても痛かったが、緩やかに何年もかかって回復していった。

こういうことがあったあと、福岡バッハコレギウムに入れてもらって10年、歌いながらバッハに触れることができた。年に2回の演奏会のために、カンタータを2曲練習する。ゆったり感が良かった。金曜18時30分からの練習のために、日曜日の礼拝の準備を全て終わらせる習慣を身につけた。
楽譜を見てその音を出せないので、鎌田さんにお願いして、カセットテープにバスパートをピアノで弾いて録音してもらい、車を運転するときに聞きながら覚えた。
その初期に出会った曲がBWW6番「泊まりませ、うちに」。エマオの2弟子に伴い歩く、復活のイエスを歌う曲で、夕日がだんだん沈んでいく、下降音型が印象的な曲です。それから10年間、カンタータ20曲あまりを練習した。一音をながーく歌うメリスマはなんとかできるが、どうしてもできない箇所が1~2箇所はあって、というのがバッハの魅力だと思う。追いかけ合うフーガの流れに入っていく、最初のタイミングなど。そばで上手く歌える人に感心していた。指揮者の武田又彦先生は、自転車で10分くらいの春日原に住んでいて、彼の演奏会の後、たびたびチェンバロ運びを手伝っていた、チェンバロはエレベーターの寸法に合わせて作られていた。風呂に入ってくつろいでいると電話がかかって手伝っていた。こういうふうに音楽に触れていた。

後に、鎮西学院長崎ウエスレヤン大学宗教主事をしていた時のクリスマスに、福岡バツハコレギウムに出演願って、再会を感謝した。

  復活祭カンタータ

   BWV6 泊まりませ

 

6.鎮西学院 200年〜2017年

55才になって、子供の学齢期が終わり、65才の定年まで、
わたしの母校鎮西学院の宗教主事になった。その後、定年後のわりかしフリーな年に、一年かぎりの聖歌隊を計画し、教授会で発表した。するとコミュニティサービスという授業にしたらという助言を得て、3月の入学者の面接の時に大学で何がしたいですか?と聞いて、三人ばかりスカウトし、学生3人、中国人留学生3人、フィリピン人1人、社会人学生3人、12人ばかり、コミュニティサービスの単位登録をし、諫早市民2人、教職員数人でスタートした。金曜日4限、4時30分から6時と、水曜の昼休みに練習した。一人くらいピアノ弾ける人がいるかもと思っていたら、いなかったので、あわてて、PCのピアノ音ソフトをさがし、クレッシェンドを使った。四つの声部をmp3 でつくり、メールで送り、自己練習を基本とした。集まって、四つのパートをそれぞれ歌い。ソプラノとアルトを合わせて、というように、最後に全体を合わせる。ここまでで90分たっぷりかかり、ひと月4回練習すると、結構満足な合唱になった。チャペルの時間に一曲歌った。

最後にクリスマスに出演し、わたしの高校時代に出会った「新しき歌もて」詩篇98と「進めわが同胞よ(ウボイ)」を合唱できた。Youtubeにこの時の合唱を載せている。新しき歌もて900回、進めわが同胞よ1322回視聴があり、楽譜はどちらも男声合唱曲集1に収められている。

これで音楽な人たちと、その中の私について、音楽と私の関わりについて記した。
なお、私の未来についてももう少し展望をのべておきたい。

 

7. 福岡市南区大橋

さて、定年後2年を諫早で過ごしたが、福岡からくる子供たちが忙しい年齢になって、近くに住んで欲しいという事で、大家不動産の指導のもと、引っ越しの段取りと注意点を聞いて、家を売って、そのお金を賃貸の資金にと考え、福岡の家探しをはじめた。なかなか難しく、毎日iPadで家を探し、UR公団の空家も毎日見て、南区の大橋の団地が4階建てを平地にして、そこに14階建ての3棟、600戸ばかりのアーベインルネス(都市再生)に立て替えた、その2号棟を見学した。

思ったより、西鉄の駅に近く、車はやめて、那珂川沿いに建つここに引っ越してきた。2DKと極端に狭いので、本や趣味的なものは、廃棄する仕事の人に頼んで、やってきた。ベットが二つ入る部屋の足元の2畳たらずの空間に、アングルを立てPCをおき、机を置いて、仕事場を作り、これまで殆ど活用していなかったデロンギのオイルヒーターを置いて、冬もなんとか快適に、江戸の職人のように、この空間をわが世界としてスタートし、5年になった。

これからさらに進むためには、仕事のプラットホームをしっかり作らなければと思った。webの作業に時間と労力を使いたくないが、この際、サイトを根本から組み立て直し、いくつかのテキストファイルを流し込めば、きれいに整形されて出来上がる仕組みを作った。3月から3ヶ月もかかった。いや,それが一年半になった。

これから、さらにバッハのカンタータ残り150曲に時間と力を注いで、aiの助けによって、新しいバッハの音楽を表現していこうと胸を膨らませている。そして、バッハが教会暦を拠り所に、毎日曜日の礼拝音楽15〜20分のために骨身を削ったように、私はバッハの作品に共鳴して日曜礼拝webを通して数人の人たちとの交流を励みにしています。

これで音楽な人たちの一人、わたしの新しいスタートを祝したいと思います。皆さん期待と声援のほどをよろしくお願いいたします。
最後に、今一番いい曲はこれです。

150 主を慕い仰ぐ 詩編25